さくらさんのことが――――好き。

 仕事疲れの身体に鞭打ち、自宅のマンションに辿り着く。鍵を開けて扉を開くと、玄関には明かりがついていた。廊下の奥から足音。その軽やかさと控えめさから、さくらさんの足音だと僕にはすぐわかった。


「兵太くん……! おかえりなさい……」

「ただいま、さくらさん」

「ぁ、あの……」


 エプロン姿のさくらさんはもじもじとしながら、頬を赤らめ、長い黒髪の間からちらちらとこちらを見る。


「ご、ごはんにする……? お風呂にする……? そ、それとも……」


 セーターの袖から僅かに出した手指をちろちろと絡ませ、さくらさんが声を震わせる。


「それとも……あぅ…………」


 さくらさんは真っ赤になった頬を両手で覆って、ぷしゅう、と頭の上から熱気を出した。


「……は、はずかしいよぉ……」


 ア゛ミ゜ャ!!!!

 僕は死んだ!




     ◇◇◇




「という夢を見てさ~、朝から元気いっぱいなんだよな~」

「死ね」


 高校への通学路。僕はたまたま親友の安崎に会えたので、並んで登校の道を歩いていた。三白眼で目つきの悪い安崎は、猫背な姿勢でポケットに両手を突っ込んだまま「ケッ」と吐き捨てる。


「完全に頭ん中お花畑になってんじゃねえか。砂井を溺愛すんのもほどほどにしとけよ」

「うん、わかった」

「は? 素直だなオイ」

「安崎を信頼してるから」

「んだそりゃ」

「でもほどほどにってどうすればいいんだろ……無理だな」

「諦めがはえーんだよ」

「逆にどうして溺愛しちゃいけないの? 周りが見えなくなって痛々しいから?」

「わかってんじゃねえか。それに相手に期待しすぎて幻滅ってことにもなりかねねーだろ」

「なるほど。適度なクールダウンも必要ってことなのかな」

「そうそう。ビー・クールだ。もっと俺みてえに常日頃から冷めた目線で物事を見んだよ」

「安崎は熱い男だと思うけどなー。僕とさくらさんの仲を応援してくれるし」

「おまえには敵わねーよ」

「そうかなあ。安崎ほど熱い奴を他に知らないよ」


 安崎はものすごく有能だ。まず、こう見えて運動神経抜群。中学生の頃はサッカー部で県大会のいいところまで行ったことがあるらしい。しかし高校では軽音部に入ってベースをかきならしており、そこでも才能を発揮していた。さらには頭だって良い。成績もいいし、何より、一緒にいたらわかるのだけど、考え方に深みがあるのだ。物事を俯瞰して、本質を探せる人だと思う。


 そのことを言ってみると、安崎は片手でがしがしと頭をひっかいた。


「あー。そうかもな。けどさ」

「けど?」

「おまえの、なんというか……善良さには敵う気がしねえ。今もさ、俺を信頼してるとか恥ずかしげもなく言いやがってさ。そういう言葉をストレートに言えるってのは、すげーことなんじゃねえか」

「だって本当のことだし、安崎なら気持ち悪がらないだろうし」

「それがわかってるからといって、簡単に言えることじゃない。普通どっかで臆病になるんだぜ? 伝えたいことをそのままの気持ちで伝えられるってのがおまえの熱さだと俺は、思うけどな」

「あはは……ありがとう。今日の安崎、僕に甘くない?」

「たまにはアメもやっとかねえと手懐けらんねえからな」


 笑い声を立てながら、僕はさくらさんのことを思い出している。

 さくらさんも、伝えるべきだと思ったことはきちんと目を見て伝えてくれる。

 僕の告白を受け入れてくれた時もそうだった。

 目には涙をいっぱい溜めていたけれど、揺れる瞳で僕をまっすぐに見てくれていた。

 僕が安崎の言うような熱を持っているのだとしたら、それはさくらさんから受け取ったものなのだろうと思った。


 やがて小柄な黒髪ショートの女の子が見えてくる。

 さくらさんは、今日もいつもの場所で待っていてくれていた。




     ◇◇◇




「あ、そういえば今日俺日直だったわ。早く教室いかねえとだから先にいってるわ。じゃあな」

「ちょ、安崎? 気を遣わなくてもいいから一緒に登校しようよ」

「あばよ」


 安崎は自慢の俊足で学校への道を走って行ってしまった。さくらさんが、小首を傾げる。


「……ぃ、いっちゃったね……」

「うん……。別にいいのに……」


 ふたり並んで歩き始める。華奢なさくらさんは肩からずり落ちそうな大きな楽器ケースを気にして、何度も「んしょ……」と掛け直している。そうするたびに、首元で自然にばらけた黒髪の先がさらりと揺れる。両眼を隠しがちな長い前髪も相変わらず漆のように綺麗だ。

 ベビーピンクの頬にはほんのりと朱色が差している。

 今日もかわいいな~。

 思わずにこにこしてしまうが、さっき安崎に言われたことを思い出す。

 クールダウンか……。


 少し冷静になったとき、さくらさんの僅かな瞳の揺れに気づいた。


「さくらさん」

「……ぇ? なに?」

「なんか、浮かない感じだね。どうかしたの?」


 さくらさんは大きな目をぱちくりとさせ、それから睫毛を伏せて「……うん……」と小さく呟いた。


「実は……今朝、未来予知があって……」

「うん」

「遠い未来……わたしがおばあちゃんになって、兵太くんがおじいちゃんになった頃の未来が……見えて……」

「ええ!? それはすごいね。さくらさんの予知ってそんな先のことまで見えることあるんだ」

「ん……前にも二十年先のことが見えたことはあったけど、たしかに、こんなに未来のことが見えるのは……はじめて、かも……」

「どんな未来だったの?」

「ぅ……それが……」


 さくらさんの目に涙が溜まり始める。


「老衰で死んじゃう兵太くんを……おばあちゃんのわたしが、看取る……未来が……みえたの……」


 小動物のように肩を震わせるさくらさん。予知で見た光景を思い出して、つらくなっているのかもしれない。

 一方で、僕はなんだかむずむずするような心持ちだった。

 僕がさくらさんより先に逝ってしまうのはつらい。だけど……


「さくらさん、それって、僕とさくらさんは死ぬ時まで一緒だったってこと……?」


 さくらさんが、ぱちぱちと目をしばたたかせる。

 それから、みるみる顔を赤らめていく。


「ぅ、ぁ……」

「もしかして僕とさくらさんは……将来的に……」

「あぅ……」

「将来的に『おかえりなさい! ごはんにする? お風呂にする? それとも~』『さくらさんにする!』という会話をする間柄になるってこと!?」

「ふ……ふつうに結婚って言いなよっ!」

「朝起きたら隣にさくらさんの寝顔があって頬をつんつん突いてみたら寝ぼけまなこのさくらさんが『ぉはよぉ……』って答えてくれる未来があるってこと!?」

「はぅ!? も、もーそーだよっ!」

「大好きなさくらさんと、ずっと一緒に、いられるってこと……!?」


 さくらさんは、うじゅ……と泣いた。


「あわわわごめんねさくらさん! じょ、冗談だから! 本気だけど!」

「うぅ……兵太くんのえっち……」

「どこがえっちなの!?」

「まだ……」


 真っ赤な頬を小さな両手で覆って、指の間から覗く瞳を潤ませる。


「まだ兵太くんには……わたしたちがけ、けっこんするって……言わないつもり、だったのに……」


 結婚……

 僕とさくらさんが……結婚……


「結婚って……つまり、結婚……?」

「あぅぅ……」

「永遠の愛を誓い合うという……アレ……?」

「ぅ……うん……。わたしと、兵太くんは……円満な家庭をきずきあげて、こ、こどもも三人いて……それから……」

「それから……」

「おじいちゃんおばあちゃんになるまで、らぶらぶ、でした……」


 僕は歓喜のあまり嬉死しかけたが、脳内で流れた走馬灯のなかで安崎の声が「ビー・クールだ。ールだ。ールだ……だ……だ…………」とエコー付きで響いたところで我に返り、なんとか意識を現世にとどめたのだった。

 でもさくらさんに心配された。


「へいたくん!? な、なんか今、あ゛みゃ!! みたいな声出してよろけてたけど……だ、だいじょうぶ……?」

「あ、ああ……うん……平気。いや、嬉しすぎて天国が見えちゃって……」

「てんごく……!?」

「なるほど、そうかあ……僕たち、け、けけ結婚を……致しますか……」

「はぃ……いたします……」

「お……おおお……」

「わたし……」

「お……?」

「兵太くんと結婚できることが……すっごく、うれしかったり、して……」

「オ……」

「…………」

「…………」


 沈黙が訪れる。

 僕とさくらさんは将来、結ばれて、幸せになる。そして、老いても互いに想い合っている。

 そんな未来のことがピンとくるかといわれると……

 あ、めっちゃピンとくるな。


 まだ手を繋ぐところまでだけど、僕はさくらさんのことが大好きだし、さくらさんも僕のことを好きでいてくれている。このままいけばきっと……キ……キッスも……できるし……結婚ということは、もちろん子供も…………子供……も…………つ……


「うおおおおおおおおお!!!!」


 僕は走りだした。


「ぇ……ぇえええっ!? まってぇ……!?」


 さくらさんも走りだした。


 ふたり並んで走る。住宅街の脇を抜け、川に架かった橋を渡り、木もれ日のきらきらひかる並木の道を走りゆく。僕はさくらさんを怖がらせたくないから煩悩を封じ込めていた。大好きというこの気持ちを、これでも制御していたつもりだ。傷つけたくなかった。ペースはあくまでさくらさんに合わせたい。これまでも、これからも。

 だけど……

 信頼できる親友によれば、僕は、思っていることを素直に伝えるのが得意らしい。


「さくらさん!」


 校門までたどりつき、膝に手を突いて息を整えながら、僕はさくらさんに向き直った。


「さくらさん、僕は――――」


 見ると、さくらさんは少しも息が上がっていない。

 スナイパーとして日々鍛錬しているからだろうか?

 それとも、いま、さくらさんがキリッとしたスナイパーモードになっているから、だろうか。


 さくらさんの鋭い目つきが、僕をまっすぐに見つめる。

 彼女が背負った大きな楽器ケースには、スナイパーライフルが入っているのだろう。


「急に走りださないで。何事かと思った。兵太くん、あなたはいったい」

「さくらさん。幸せにする」


 僕はまだ荒くなってしまう息をなんとか落ち着かせてから、制服の襟元を正した。


「きみを幸せにする」


 きみが僕と結婚する未来をも受け入れてくれているのなら、きみはもう怖がるなんてことはしないだろう。むしろ怖がっていたのは僕だった。そのままの想いを伝えることを、肝心なところで躊躇していた。だけどもう僕は、きみの気持ちを知った。この期に及んで迷うわけにはいかない。


「きみが楽しい時、一緒に笑うよ。悲しい時は一緒に泣く。ふたりで同じ方を見よう。きみがスコープで狙う時、僕も隣で双眼鏡を覗く。きみが僕を見つめてくれるなら、僕もきみの瞳を覗いて、きみの見ている景色を見たい」


 きみもきっと、僕と同じ景色を見てくれる。

 さくらさん。

 強いきみが好きだ。

 大事な時に逃げない。へこたれても前を向ける。

 気づいていないかもしれないけれど、きみは固めた決意を揺らがすことはない。標的を撃ち抜くと決めたとき、トリガーにかけた自らの指先を信じている。


「そんなきみに、僕は何度も、何度も何度も撃ち抜かれてきた。心のやわらかいところに、可愛さとカッコよさという弾丸を的確に撃ち込まれて……」


 好きになればなるほど好きになっていく。

 さくらさん、きみを尊敬している。

 きみを信頼している。

 さくらさん……僕はきみを……


「きみを愛してる」


 たとえ別れが待っているとしても。


「これからも一緒にいよう」


 目を逸らさない。

 さくらさんも、潤んだ瞳で見つめてくれる。

 微笑むとき、目を細めるから、溜まった涙が静かにこぼれる。


「……未来予知、なんて……かんけいない……」


 す、とさくらさんが僕の胸に手を置く。

 頬を寄せてくれた。


「あなたの、そばに……ずっと……いさせて…………。あなたを……」


 すぐ近くから、上目遣い。


「あいしています……」


 さくらさんの腰と背中に腕を回す。

 ためらわず、強く抱きしめる。

 互いの体温と気持ちが融け合っていく。


 僕らの未来はきっと明るいだけじゃない。喪失や、離別、間違うこと、たくさんの悲しみがあるのだろう。ふたりなら越えていける。ふたりなら、抗いようのない理不尽は、打ち破ることのできる試練に変わる。

 試練の後には、祝福が待つ。


 僕とさくらさんは強く想った。

 そして、ふたりだけが知るその想いを、決して忘れないように、心へ刻みつけた。


 学校の朝の予鈴が鳴る。聞き慣れた音に、僕らは我に返った。


「……早く行かないと遅刻だ」

「ぃ、いかなきゃ……」

「安崎も待ってるしね。行こっか」

「あ……そのまえに……」

「ん?」


 さくらさんが背伸びをした。

 頬に優しい感触。

 呆然とさくらさんを見る。

 唇に指を添えて、今までにない、いたずらっぽい笑みを浮かべていた。


「えへ……ちゅーしちゃった……」

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!」

「えっ、また……!? まってぇ、兵太くんっ……!!」






 わたしたちの日々は続いていく。


 僕らは、ほっぺにキスで大騒ぎしてしまう、まだまだなふたりだけれど。


 わたしたちはそれでも少しずつ、少しずつ……


 僕らのペースで、進んでいこうとおもう。






 わたしは、兵太くんのことが…………


 僕は、さくらさんのことが――――










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次回、エピローグです。

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