第三十六話 不戦勝


 それから三日後――


 享保十七年、八月八日。

 第三回天下無双武術会最終日。

 準決勝第一試合は、風巻大地と河田庄蔵の対戦からはじまる予定であった。

 だが――


 剣武台の上には風巻大地の姿のみがあった。

 照りつける灼熱の太陽の下、赤いタスキをかけ、左手に木刀を提げて河田の登場をじっと待ち受けている。

 試合開始は朝四つ(午前10時)と決まっていたが、いつまで経っても河田の姿はない。

 もう四半刻(30分)は過ぎただろうか?

 先ほどから客席がざわつき、待ちかねてヤジを飛ばす輩もいる。


 行司が審判席にいる武蔵屋徳兵衛をちらりとみた。

 徳兵衛が重々しくうなずく。

 行司は軍配を大地に向けた。


「白失格。不戦勝一本、赤の勝ち!」


 観衆がいっせいに不満の声を鳴らした。

 熟練の剣さばきを見せる河田との対戦を楽しみにしていたものは多い。もちろん、河田におおきく賭け札を張って損したものの怨嗟の声もある。


(ひとに負けろサいっておいて、どうゆうことだべ)


 大地は太いため息を漏らすと一礼して剣武台を降りた。




(あいつ、立っとるのもやっとやないか)


 よほど右肩の調子が悪いのだろう。すれ違いざまに声をかけることもなく、虎之介は大地をやり過ごした。

 短いきざはしをのぼって大地と入れ替わりに剣武台の東側に立つ。

 西側から赤いタスキをかけた松浪剣之介がのぼってきた。

 虎之介は下位者にあたるので白いタスキ姿だ。


(ついにここまできたで。松浪さえ倒せば、もうあとは勝ったも同然や。

 わいが第一席になって剣王位の座も手に入れたるわ)


 対面に位置する松浪を虎之介はにらみつけた。

 上級旗本の嫡子だか真桜流の首席師範代だか知らないが、そんなものに位負くらいまけするわけにはいかない。

 野良犬には野良犬の意地がある。世間の泥水で磨いてきた牙を、そのすまし顔にたててやる。




 虎之介が剣武台の上で松浪をにらみつけているころ、大地は天幕を張り巡らせた幕舎の控え室でうめいていた。

 右肩があがらない。松浪が勝つにせよ虎之介が勝つにせよ、決勝戦での試合において、大地は下位者にあたるのでタスキを取り替えなければならない。


 無理に動かそうとすると激痛がはしり、左肩や腕までしびれてくる。とても闘える状態ではない。

 赤のタスキ掛けは係の者に手伝ってもらったが、いまはどこかへ出払っていて、控え室のなかにいるのは大地だけだ。

 絶望的な気分になって思わず天幕の布地を仰ぐと――


「お手伝いいたしましょう」


 幔幕の合わせ目からほっそりとした人影が入ってきた。


「お…おめさん……?!」


 いつもの白い小袖に緋袴、巫女装束をまとった葛城暮葉かつらぎ・くれはであった。



   第三十七話につづく


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