第二十六話 小石川養生所
「小石川の養生所でしたら、あっしが案内いたしやす」
声のした方を向くと、瓦版屋の辰蔵が留書帳を手に立っていた。
「その娘さんは他にもケガ人の手当をしなければいけねえんで」
「他にも?」
大地がおうむ返しに辰蔵に尋ねる。おのれの他にも負傷者がいるとはどういうことだろう。
「落雷で安国殿の屋根が崩れ、その下敷きとなったひとたちがおりやすんで」
辰蔵が筆の尻で耳の脇をかいてこたえる。落雷の犠牲者は大地だけではなかったようだ。
「明日は小石川におりますので」
留衣は一礼して他の負傷者の手当に向かった。幔幕のなかには戸板に寝かされたケガ人たちが多数いて、みな苦鳴をあげて痛みを訴えている。
辰蔵は大地が寝かされた寝台に歩み寄ると声を低めていった。
「準決勝と決勝は延期になりやした。安国殿の修理が先のようで、終わり次第、追って沙汰するとのことです」
本来なら大会三日目である明日、準決勝二組の試合を午前の部で行い、午後の部で決勝戦を執り行う予定であったのだが、安国殿は徳川幕府の祖を築いた神君家康公の念持仏を納める場所である。大公儀の体面として、まずは修築が優先されたのだ。
「今宵はゆっくりと休んでくだせえ。明日、宿へお迎えにめえりやす」
そういって辰蔵は背を返した。
幔幕の隙間から西陽が差し込んでいる。
雨はあがったようだ。
翌日。
辰蔵は約束通り、剣客宿「
三角布で右腕を吊った大地をみて痛々しそうに顔を歪めている。
今日もうだるような暑さだ。大地は腰に差した大ぶりの扇子を左手で抜くと器用に扇を広げて汗の浮き出た頬を仰いだ。
宿のある芝浜松町から小石川にゆくにはぐるりと千代田の城(江戸城)をまわって北西に歩みを向けなければならない。
炎天下のなかをけっこうな距離を歩くことになり、昨日負ったケガの痛みも加わって大地の足取りが怪しくなってきた。
「あそこに茶屋がありやす。ちょっと休んでいきやしょう」
それでも歩を緩めない大地を見かねて辰蔵が茶屋で休憩することを提案した。
「いんや、先を急ぐだ。小石川はまだだべか?」
大地は首を振ると、辰蔵を追い越すようにして先をゆく。
(まるで想い人に会いにゆくみてえだな)
辰蔵は大地から江戸にきた経緯を聞かされている。
十年前の童のころ、旅の剣客の息子にさんざ打ちのめされた。いわば相手は憎むべき仇敵である。
そしてその仇敵は養生所で宅預かり(入院)の身となっている。
普通なら「ざまあみろ」とせせら笑いたいところではないのか?
痛みや暑さをこらえてまで会いにゆくのは、どこか違う感情のような気が辰蔵には思えるのだ。
「あっ、あそこです!」
小石川養生所の門が見えてきた。この場所はもとは疾病対策のための薬草が栽培されていた場所で施薬院と呼ばれていた。
広大な敷地のなかには
「お待ちしておりました」
ほどなくして待合室に留衣が現れた。昨日と同じ袖を絞った白い浄衣を着込み、頭には白い無地の手ぬぐいを被っている。
表情は硬い。大地や辰蔵に対し、気を許していないのは態度からわかる。
「こちらです」
留衣が個室になっている部屋に大地と辰蔵を案内した。
板格子の
白い
「……一馬か?」
大地は男の背にそっと呼びかけてみた。
男がゆっくりと振り返った。
「ッ!!」
その男の顔を見て大地は息を呑んだ。
半開きになった男の口の端からは、あぶくのような涎がだらだらと垂れ流されていた。
第二十七話につづく
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