第二話 稽古嫌い


 下谷広小路にある真桜流奥伝道場の濡れ縁で、一丸初いちまる・はじめは切り分けた西瓜すいかを食べていた。

 時刻は戌の刻、五ツ半を少し過ぎたころ(夜9時)だ。


「稽古はしなくていいのか?」


 背中から声がかかった。首席師範代である松浪剣之介まつなみ・けんのすけの声だ。


「もう、終わった」


 一丸が庭に種を撒きながら短くこたえる。


「相手をあなどらぬ方がいい」


 どうやら松浪の眼には一丸の稽古が充分には見えぬようだ。


「風を操るとかなんとか、あんなの噂に尾ひれがついてるだけだよ」


「だと、いいがな」


 それだけ返すと松浪は奥に引っ込んだ。もうひと汗かくつもりだ。


「筆頭(松浪)さんは稽古が好きだなあ」


 独り言のように漏らすと、


「おまえが嫌いなだけじゃ」


 張りのある声が響いてきた。後ろを振り向かなくてもわかる。今度は次席師範代の諏訪大三郎すわ・だいざぶろうだ。


「おまえほど稽古が嫌いで、おまえほどつかえるやつをわしは見たことがないぞ」


 少し誉められて嬉しく思ったのか、一丸ははじめて後ろを振り返った。

 上半身裸の諏訪が手ぬぐいで吹き出た汗を拭っている。

 がっしりとしたたくましい肌から湯気が立ちのぼり、激しい稽古を終えたあとだということがひと目でわかる。


「明日だよ試合は。いまから疲れてどうすんのさ」


 信じられない、といわんばかりに一丸は片眉を歪める。


「疲れてなんざおりゃせん。これから素振り千本をこなす予定じゃ」


「はいはい。頑張ってください。じゃあね」


 一丸は残りの西瓜を諏訪にすすめて立ちあがった。


「待て。どこへゆく」


「寝るのさ」


「わしと三本、稽古をつけんか?」


「冗談。寝て英気を養わなきゃ」


 そういうと一丸は逃げるように寮の方へと早足で去った。


「やれやれ。まあ、どうせあいつが勝つからいいか」


 諏訪は明日の一丸の勝利を疑わない。次席師範代の諏訪でも、一丸は三本に一本はおくれを取る難敵なのだ。



   第二話につづく


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