第4話 小野寺勇吾にも及んだ影と懊悩

「――うわっ!?」


 勇吾ユウゴは声を上げて尻餅をつく。

 相手の迫力に押されて。


「――なにやってるのよ、もう」


 勇吾ユウゴの対戦相手である景子ケイコは、沈痛な面持ちでため息をつく。


「――ホラ、もう一度」


 そして、起立をうながすと、渋々とそれに従う息子を背に、開始線まで戻る。


「……なんや、いまの……」


 道場内の壁際で小野寺母子おやこの試合を見物しているイサオが、目を丸くする。

 正座による膝の痛みが吹き飛ぶほどの衝撃的な瞬間に。

 空手に似た道着を、両者は身にまとっている。

 

「――あれが小野寺流前屈立ち式突進型移動術――『瞬歩』だそうよ……」


 隣で同じ姿勢で座っているリンが、沈着の保持に懸命な表情と口調で、イサオのつぶやきに応える。


「……『瞬間移動』っちゅう超能力やないのか、コレ?」


 それを聞いたイサオは、リンの横顔に視線を向けると、今度ははっきりと問いただす。


「……ええ。瞬間移動じゃないのよ。凄いことに……」


 だが、返ってきたのは、ともすれば安定を欠きそうな口調で否定したリンのそれであった。


「……なんちゅう速度スピードや。サイコモーターカーなみやで……」

「……アタシもそう思うわ……」


 イサオの感想に、リンは全面的に同意する。


「……でも、もっと凄いのは、あの『瞬歩』に反応できるユウちゃんよ……」


 ――という感想もつけ加えて。サイドビューだからこそリンイサオの動体視力でも、かろうじて視認できるが、フロントビューだとまず不可能である。現に昨日のリンもそうだった。これが戦場ならまちがいなく死んでいた。


「……そして、そのユウちゃんですら認識が不可能な『気殺』を会得しているユウちゃんの父親は、さらに凄いわ……」


 続けてつけ加えたリンの感想も、イサオも全面的に同意する。勇吾ユウゴの実家に初めて招かれた夕刻までこそ、リンの話をまったく信じていなかったが、その一軒家の玄関前で待っていた小野寺勇次ユウジの存在に気づかず、そのままぶつかったことで、ホラ話ではないことに気づかざるを得なかったのだった。

 小野寺景子ケイコのことも、たったいま……。

 小野寺流総合武術道場の床に差し込んだ夕闇の窓明かりが消えつつある、そんな時である。


「……お袋オフクロといい、親父オヤジといい、むっちゃごっつい夫婦やでェ。第二次幕末の動乱を戦い抜いた志士っちゅうのは、ホンマ、伊達やないんやなァ。勇吾ユウゴの両親って……」


 イサオは心底感心するが、


「……せやけど、肝心の息子がやなァ……」


 同時に、相手のわずかな接近だけで萎縮し、何もできなくなってしまう親友に対して、残念な気持ちと惜しさでいっぱいであった。そんな致命的な弱点を、『早斬り』という神速の斬撃でカバーしたそれ自体は、観静リンや、陸上防衛高等学校の教員たちと同様、イサオも認めている。相手が接近する前に瞬殺してしまえば、それが露呈することはないのだから。その着想と短期間での会得は非凡であり、武術トーナメントで優勝した結果が、それを証明していた。しかし、『早斬り』の速度スピードに匹敵する『瞬歩』の前では、その優位性アドバンテージが完全に打ち消されてしまい、しかも、相手は難なくそれに反応し、防御する。それも、『瞬歩』の突進中に。これでは、勇吾ユウゴの『早斬り』も速度スピードの無いジャブも同然で、間髪を入れない二撃目を繰り出すまでもなく、『早斬り』を会得する前と同じ結果に時間が逆行するのだった。『早斬り』対策を練った海音寺涼子リョウコや平崎院タエも、武術トーナメント後の実技で、それを繰り出す勇吾ユウゴに勝ったが、勇吾ユウゴの母親のような勝ち方には遠く及ばない。その両者ですら、小野寺景子ケイコの『瞬歩』に反応できるかどうか……。


「……考えるまでもあらへんな……」


 イサオは結論を下す。

 諦観の眼差しで小野寺母子おやこの対決を眺めながら。


「――始めっ!」


 審判を務める師範代の合図が上がった直後、一瞬にして相手との間合いを侵略する景子ケイコ


「――うわっ!?」


 それに対して再びへたり込む勇吾ユウゴ

 母親たる師範の『瞬歩』に対して、なす術もなく。

 今度は『早斬り』すら放てなかった。

 ここまで実力差を見せつけられると、むしろ気の毒であった。


「――この調子やと、自警団に加われへんかもな、勇吾ユウゴのヤツ」


 イサオは残念そうな表情と口調で予想する。

 八子やご警察署でテロ予告落書き事件に関する説明と会議で決まった対策は定石セオリー通りであったが、それだけでは不十分だと、鈴村権之助ごんのすけは強く主張した。そこへ、同様に感じ取っていた小野寺勇次ユウジが、自警団の結成を署長に提案し、それを小野寺家が主導することになった。この提案に、鈴村権之助ごんのすけは大いに喜んだ。小野寺夫婦と初めて知り合った当初こそ、鈴村夫妻は、子供たちと違って好意的な関係を結ぼうとしなかったが、一人娘の誘拐事件を契機きっかけ昵懇じっこんとなり、以来、警察では対処や介入が困難な荒事を一手に引き受けるほどの友好的な間柄に変化した。

 だが、それと入れ替わるように、我が子同士との仲が悪くなったのは皮肉でしかないが。

 そして、小野寺家の当主にして小野寺総合武術道場の師範である小野寺景子ケイコは、その師範代クラスを中核にした自警団を急遽編成し、警察と連係してテロ組織の摘発を開始した。団長リーダーは首席師範代の小野寺勇次ユウジが、自警団の加入テスト審査は師範の小野寺景子ケイコが、それぞれ分担平行実施しているのだ。

 リンイサオの他に、道場の壁際で並んで正座しているのは、その加入テストを受けるために参集したこの道場の門下生たちである。


『……………………』


 むろん、リンイサオと同様――もしくはその二人以上に愕然としている。

 反応も視認も不可能な師範の『瞬歩』に。

 実の息子といえど、手加減も容赦もない闘いぶりである。

 だが、これはあえて本気で――全力で闘っているのだ。

 今回の相手は、地方的ローカルとはいえ凶悪なテロ組織である。

 その恐怖におびえる地元の住人や観光客が存在する一方、コラボ祭の中止を要求するテロ組織に対して、激しい怒りや義憤に駆られた地元の住人や観光客も存在し、アスネなどで自警団員の募集を呼びかけていないにも関わらず、一度実家に戻った小野寺一家と一人息子の友達は、その門前で待っていたその者たちと遭遇したのだ。

 そのほとんどは、コラボ祭に合わせて休日を取らせた小野寺流総合武術道場の門下生たちで占められていた。

 彼らの気持ちを、小野寺夫妻は嬉しく思ったが、同時に、夫妻から見ればまだ未熟な門下生たちを、危険な相手と闘わせるのは、本意ではなかった。たとえ、テロ組織の首謀者が、他ならぬ小野寺流総合武術道場の元門下生だとしても、その責を負うべきとしたら、それは道場の師範と師範代である。だが、そう説得しても引き下がりそうにはないので、ここは急ごしらえの自警団加入テストでふるいをかけることにしたのだった。

 同然ながら、加入テストの内容は実戦形式な上に、その合格基準は極めて高い。

 そしてそれは、実子ですら例外ではないことをアピールするために、自分の息子を加入テストの一番手として指名したのだ。


「……おいオイ。手も足も出ないじゃないか……」

「……超常特区の陸上防衛高等学校に通っている上に、そこで開催された武術トーナメントで優勝するほどの実力を身につけたっていうのに……」

「……やっぱスゲェぜ。オレたちの師範は……」

「……第二次幕末の動乱を戦い抜いた志士って、これが平均的あたりまえな強さなのか……」

「……だとしたら、レベルが違いすぎる……」

「……オレたち平民が、平民にされるのも、うなずけるぜ……」


 正座で見学している門下生たちの間で、自分の意思では抑えられようにもないどよめきが、沸騰を始めた水のように上がり始める。彼らもまた、テロの首謀者のように、法的に制度化された格差社会の中で、少しでも将来の可能性を広げようと、小野寺流総合武術道場の門戸を叩いたのだが、小野寺家の当主たるその道場の師範が、門下生に対して初めて見せた本気と実力に、ただただ驚愕と感動に震えていた。そして、それに幸運や誇りも加わった。身分や肉体的仕様フィジカルスペックに関係なく、誰でも入門できるこの道場の門下生となった自分たちや、平民の自分たちを分け隔てなく指導してくれるその師範の出会いと存在を。

 それだけに、憤りを覚えずにいられなかった。

 これほど恵まれた稀な環境に、いったいなんの不満があって自分から道場を去り、超常特区で連続記憶操作事件を引き起こした挙句、今回のローカルテロに及んだ元門下生に対して。


「――はい。ここまで」


 小野寺流総合武術道場の師範が、手を叩いて宣言する。

 だがそれは、手も足も出なかった対戦相手の一人息子よりも、門下生たちに対して向けられたものだった。

 門下生たちの決意が鈍りつつある気配を、どよめきから感じ取って。


「――どうやら成功したみたいね」


 リンが静かな声で独語する。

 師範たる景子ケイコの意図を正確に察して。


「――これで加入テストを受けようと前に出る門下生は、一人も現れないでしょうね」


 身分は同じだが年齢はバラバラな門下生を見やりながら、リンは結論づける。


 その間、試合が終了した道場の中央で、小野寺母子おやこがこちらでは可聴が困難な小声でやり取りしているが、それが終わると、


「――さァ、次はだれ?」


 師範が次の対戦相手を所望する。


「――遠慮なんて要らないわ。今日は特別に師範のわたしが相手になってあげる。こんな栄誉を逃す手は、いまに置いてなくてよ。だれでもいいから、わたしの前に出てきなさい」

『……………………』


 ――が、むろん、だれも出てこない。

 相手になるわけがないことを、これ以上ないほどに痛感させられては。

 自分たちよりも強い(はずの)師範の息子ですらこの有様では、なおさらだった。


「――ご苦労さま、ユウちゃん」


 リンが戻って来た師範の息子に、ねぎらいの言葉をかける。


「……うん……」


 リンの隣に正座した勇吾ユウゴはうなずくが、どこか浮かない顔である。


「――どうしたの?」


 それを見て、リンは怪訝そうな表情で尋ねるが、


「……………………」


 勇吾ユウゴは押し黙ったままうつむく。


「――そう落ち込むなや、勇吾ユウゴ


 そこへ、イサオが励ます。


「――アレはもう次元が違うってレベルじゃあらへん。かなわなくて当然やって。もしこないな超人が敵として目の前に現れたら、デスエンドは確実。自身はおろか、大切な人も守れずに終わるのがオチや。そないなことになっても、誰もおまいを責めへん。せやから、安心せい」


 ――つもりで掛けられたセリフに、


「――――――――――っ!!」


 落雷に打たれたような衝撃が、勇吾ユウゴの全身を縦一直線につらぬく。


「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~」


 糸目の表情が苦渋と恐怖にゆがみ、あえぎ出す。

 それも当然であろう。

 ――と、凛は思う。

 今しがた言ったイサオのセリフは、ついさっき師範の母親と小声で交わしたそれを連想させるものだったのだから。


「――このままじゃ、七年前みたいな失態をまた犯してしまうわよ」


 というセリフを。


「――昨日はアイちゃんの手前、ああは言ったけど、ホントは心配してたんだからね。アンタも一緒に超常特区へ移住することを。ましてや、我を忘れるしか本領を発揮できないんじゃ、なおの事よ。実際、須賀すがに襲われる寸前だったアイちゃんを救えたのも、たまたまその光景を目撃したからこそ発揮できた力だし」


 も。

 無論、小声だったので、リンの聴覚ではまったく聞き取れなかったが、そのような内容だったのは容易に想像できる。

 励ましたつもりだったイサオのセリフに、過剰かつ異常な反応をかんがみると、


「……間違い、ないわね……」


 この一日で否応いやおうがなく練磨れんまされたリンの洞察力にかかれば、造作もなかった。

 超常特区ではすでに都市伝説と化しているヤマトタケルの正体は、小野寺一家の間では公然の秘密になっている事を、リンはすでに知っている。そして、正体を知られている人数は、観静リンも含めると三人である事も。ただ、そのリンに、自分の正体を知られている事実を、勇吾ユウゴは気づいていない。今のところは、だが。いずれにしても、勇吾ユウゴ自身からその事を家族以外に知らせる気がないのは確かである。

 それでも、卒業まで知られずに済むがどうか、はなはだ心許ないが。

 だが、いまの勇吾ユウゴにとって、それは些末さまつな懸案でしかない。

 目前までせまっている重大で深刻な懸案に比較すれば。

 ましてや、ふたつ同時ではなおさらだった。

 ひとつは、萩原杏里アンリである。

 アイと同様、地元に帰省するまで、その存在を失念していた。

 これまで、帰省時期の盆と正月だけは地元を離れていたので、今年もそうだろうと、なんの根拠もなく、無意識に思い込んでいた。

 それに気づく契機きっかけとなったのは、昨夜、今年から地元の高校で教師を務める事になった旨を、父親の勇次ユウジから告げられた時だった。

 その際、幼馴染にとって唯一の女友達の名前が上がったことで、それに至ったのだ。

 今年だけは、その限りではなかったことも。

 ようやく仲直りを果たせた幼馴染との楽しい想い出を、地元で作ろうとした矢先に突きつけられた、それは現実だった。

 よりによってとは、まさにこの事であった。

 事情や立場は違えど、心境は幼馴染と同じである。

 自分の父親から、萩原杏里アンリの過去を、推察や考察を交えて、その際に伝えられただけに、一際であった。

 ゆえに、夏祭りの手伝いに、アイの実家へ行くことの断念を促された父親の言葉に従い、代理としてリンに行かせてもらったのである。

 もし、今年は地元に残った萩原杏里アンリと、今年も地元に帰った鈴村アイの両者が、すでに再会していたら、夏祭りの手伝いができる心理状態ではない可能性を考慮し、見越した上での、勇次ユウジの判断である。

 その配慮と洞察は完全に正しかった。

 そのあと、折しも、ローカルテロ組織のテロ予告をアスネで知ると、状況と対応を聞くべく、両親とともに地元の警察署へ駆けつけ、そこでアイと顔を合わせた。そして、イサオから一通りそれらを聞き終えると、お互い、相談したがっていた二人の幼馴染の間に、その内容たる荻原杏里アンリが、警察署に到着するなり割り込んできたのだ。リンイサオが戸惑う中、一方的な暴言を勇吾ユウゴに叩きつけると、有無を言わさずにアイを連れ去って行った。


「――アンタが今回の騒動を起こしたんでしょっ!? アタシの企みを知ってっ! コラボ祭が中止になれば、それがご破算わさんになるからねっ! そうに決まっているわっ! 士族なら絶対にやりかねない、犯罪的な暴挙よっ!」


 この暴論が、勇吾ユウゴにとって、一番堪えた。

 むろん、事実無根もはなはだしい言いがかりだが、士族に対する杏里アンリの偏見と敵愾心が、いまだ根強くくすぶっている事実の方がよほど深刻だった。

 それを、地元の警察署で再確認させられたのだった。

 この暴論に腹を立てたイサオが、その時はなんの事情も知らずに、友達である勇吾を擁護し、弁護したが、杏里アンリは聞く耳を持たなかった。イサオ勇吾ユウゴと同じ身分である事実が災いしたのだ。リンに至っては耳を貸す必要すら覚えず、そのままアイの手を引っ張って行ったのである。

 自分と同じく、士族を憎んでいると信じて疑わずに。


「……………………」


 それに対して、勇吾ユウゴは無言で見送るしかなかった。

 後ろ髪を引かれる思いで顧みる幼馴染の後姿を。

 その時だった。

 今生の別れになるような予感が、勇吾ユウゴを襲ったのは。

 それが、もうひとつの、深刻で重大な懸案であった。

 もし、七年前と同じ過ちを繰り返してしまったら、今度こそそれが現実化してしまう。

 精神的な意味で。

 その時に及んで、自分から『ヤマトタケル』の正体を明かしても、後の祭りである。

 仮に今から明かしても、通常様式モードがこれでは意味がなく、むしろ悪化する。

 アイから見れば、どう考えても騙していたとしか受け取れられないのだから。

 それに、その『ヤマトタケル』様式モードにしても、自分の意思で簡単かつ自在に出せるわけではない。

 だからこそ苦労しているのだ。

 これほどまでに。

 おのれの勇気の無さ、もしくはその持続の低さに、勇吾ユウゴは心から情けなく思う。

 『勇』の一字を名の一つとして命名してくれた両親に対しても、申し訳がない。

 幼馴染にいたっては、言わずもがなである。

 無論、このままでいいわけがなく、前述の経緯で、自警団の加入テストを受けることで、克服を試みた。

 もはや、なりふりを構ってなどいられなかった。

 だが、結果はご覧の通りである。

 一朝一夕で身に着けられるものではないのは充分承知している。

 それでも、せめて契機きっかけだけでもつかみたかった。

 しかし、その手応えは、まったく感じなかった。

 ――である以上、勇吾ユウゴが取れる残された手段は――


「――それにしたって、容赦あらへんなァ、勇吾ユウゴのお袋はんは。門下生の手前、我が子やからこそ手心は加えへんっちゅう姿勢を見せるためとはいえ。せやけど、あないな強さを見せつけられたら、だれも挑戦チャレンジしたがらへんで。これで終わりやな、加入テストは――」


 今のリンよりもはるかに洞察力のとぼしいイサオが、他人事のように述べていると、


「――誰も出てこないようね。なら、こちらで次の相手を選ぶことにするわ。それじゃ、わたしの前に出なさい。龍堂寺イサオ


 小野寺景子ケイコに指名される。


「……………………………………………………………………………………………………へ?」


  ――とは、微塵も欠片も思っていなかったので、それを耳にした途端、その耳を疑った。

 誰よりも真っ先に。

 イサオにとって、町長に続いて直面した、青天の霹靂へきれきというべき事態であった。


「――なにボサっとしているのよ。さっさと師範の前に出なさい。なんのためにアンタもアタシも道着を身に着けて正座しているのか、その時点でわかるでしょ」


 リンに冷めた眼差しで促されると、イサオは激しく狼狽する。


「イヤイヤイヤイヤッ!! 無理むり無理ムリッ! ワイじゃ相手になるわけがあらへんやろぉっ!! それはおまいだってわかるはずやでェッ!!」


 そのあとに続く拒絶や同意も、大げさな身振り手振りジェスチャーで激しく示すものの、


「――残念だけど、わからないわ。アタシ、陸上防衛高等学校じゃ、工兵科だから」


 これも冷たくあしらわれてしまう。むろん、リンにはわかっているが、あえてとぼけているのだ。

 その理由は後述で明らかになる。


「それをうならワイかて憲兵科やっ! 歩兵科の勇吾ユウゴちごうて、直接戦闘が本職じゃあらへんのやでっ! ましてや、その勇吾ユウゴがあのザマじゃ――」


 イサオはさらに抗議の声を募らせるが、


「――いいから出なさい。ここでのアンタは、士族とはいえ、なにひとつ公的な権限を持たないただの一般市民なんだから」


 リンの指摘に、その奔流をせき止められてしまう。

 痛いところを突かれたからである。

 学業の傍ら、超常特区で警察の職務を遂行しているイサオにとって。

 超常特区という地方自治体の運営は、教育分野で活動しているその関係者を除くと、そこに住む一〇代の少年少女たちに一任されているが、その人口構成で落ち着くのに、一筋縄ではいかない紆余曲折を、当時の中央議員たちは強いられていた。

 理由は明白。二十歳に満たない少年少女たちに、府県規模レベルに相当する地方自治体の運営が可能とは思えないからである。

 ギアプの補助や、超常特区特有の精神的仕様スペック知能指数IQの向上が見込めるとはいえ、常識的に考えれば、至極当然の懸念であった。

 教育分野は成人以上の大人が必須なのは、年齢的に考えて、これも当然だが、それ以外の分野――特に、行政、司法、立法の三権に関わる、政治、議会、警察、裁判といった公務は、精神的に成熟した大人でなければ、運営の停滞だけに留まらず、破綻の危険すらはらんでいた。

 それが中央議会に挙げられると、中央議員の間でその危険性に気づき始め、次第にその方向で議論が纏まるかに見えたが、結局、見えただけで終わった。

 原因は適用範囲と希望者の肥大化であった。

 一応、公務に携わっている中央や地方の公務員に対象を絞って、超常特区での勤務希望者を募集したのだが、その人数が桁違いなまでの値を示したのだ。その比率は全国で従事している公務員の約八〇%に達した。無論、希望者全員を超常特区に転勤させるわけにはいかず、様々な条件や審査でふるいをかけて選別したが、それで落とされた方はまったく納得せず、連日に渡って中央政府に猛抗議をかけた。中央政府はそれに応える形で、今度は選定基準を職種に変更したが、今度は選ばれなかった方の職種に従事している公務員から猛烈な抗議が上がった。教育分野と異なり、納得しなかったのである。そこへ、はるか前述にあった余談が加わると、議論はもつれにもつれ、出口の見えないカオスと化してしまったのだ。

 このまま議論が長引けば、第二日本国の統治にまで支障がきたしかねなかった。ましてや、公務員の口からサボタージュを示唆する発言までされたら、なおさらであった。今度は第二日本国が、運営の停滞や破綻の危険にさらされる番となった中央政府は、結局、この問題が議題に挙がる前まで、時計の針を戻すしかなかったのである。

 それでも、成人以上の公務員たちの間では、超常特区の統治と運営を、一〇代の少年少女に委ねることへの抵抗が、以前とあり、慢性的な不満がくすぶっていた。これも放置すれば再燃しかねないと判断した中央政府は、超常特区で公務に従事する成人以下の公務員たちの職権適応範囲を、超常特区のみに限定する法案を採択することで、ようやく沈静化が計れたのであった。

 つまり、超常特区以外の地域では、超常特区の自治体が発行した、警察などといった公的権限がいっさい通用されないのである。

 成人以上の公務員たちからすれば、超常特区の統治と運営は、生徒会の延長的な感覚で受け取っているのだ。

 超常特区の統治と運営の最高責任者たるその肩書きが、『統合生徒会総生徒会長』という名称で呼ばれているのが、なによりの証左である。

 形式的には府県知事と同等だが、実態は子供を子供あつかいする大人げない大人さながらの対応と待遇であしらわれている。

 中央警察の要請で、S級犯罪特殊能力者用刑務所へ出向することになった龍堂寺イサオ警部も、その例に漏れず、現地で合流した中央警察の公安から、あからさまな冷遇を受けた。命令を受けた公安も、それを下した上司も、超常特区の警官もどきに、脱獄した囚人たちの追跡協力を求めたくはなかったのだが、その脱獄者の一人が、超常特区で連続記憶操作事件を引き起こした国事犯級の囚人である以上、そんなことにこだわっている場合ではなかった。公安の上司と部下は、断腸の思いで自己の感情をねじ伏せ、その際の陣頭指揮を執っていた当事者の警部に、捜査協力を要請せざるをえなかったのだった。

 そして、アスネに拡散された捜査対象のテロ予告を、実況見分中だったS級犯罪特殊能力者用刑務所で知ると、上司にあおいだ命令で、ただちにテレタクで八子やご町へ向かい、現在、地元の警察署長と協議をはかっている。

 龍堂寺イサオが捜査から外されたのは、このタイミングであった。

 脱獄した国事犯級の囚人に関する情報を、これまでの捜査協力で一通り得た上に、今まで抑え続け得ていた前述の悪感情が、ついに爆発し、上司の命令も相まって、ためらうことなく実行したのある。ただ、地元の警察署長だけは、イサオの捜査能力を惜しみ、捜査協力の続行を希望したが、公安の猛反対で、断念に追い込まれた。一周目時代の現代日本警察と同じ機構を踏襲した二周目時代の現代第二日本国警察のそれは、その硬直性まで踏襲してしまっていた。身分制度の存在もそれに拍車をかけた。それでも、それに囚われていない八子やご町の警察署長は、実弟の勇次ユウジから、自警団結成の提案を聞くと、捜査から外された龍堂寺イサオを、その民間組織に加入推薦することで、死蔵を回避させたのだ。


「――勇次ユウジならうまく活躍させることができる」


 と、信じて。

 ――というわけで、


「――一本っ! それまでっ! 龍堂寺イサオの勝ちっ! 礼っ!」


 ――になるのは、当然の結果である。

 龍堂寺イサオを自警団に加入させるための、出来レース同然の試合なのだから。

 とはいえ、最初から加入テストを受けさせるつもりもなければ、加入テスト自体、実施する予定もなかった。だが、前述にあった自警団加入希望者の殺到と事情を受けて、実施することになり、加入希望者の手前、例外を認めるわけにはいかないので、形式と体裁を繕うべく、イサオも加入テストを受けさせる次第となったのである。

 合格を前提に。


「――やるじゃない。このわたしに一本を取るなんて。さすが、息子と同じ陸上防衛高等学校で厳しい鍛錬を積んでいるだけのことはあるわ」


 師範から手放し同然の賞賛を、イサオは受ける。


「……………………へ? ……………………え?」


 わけがわからないまま……。

 それも当然である。

 なし崩し的に受けるハメになった加入テストの試合で、開始の合図が上がってから、終わりの合図が下りるまでの間、指一本すら動かしてないのだから。

 対戦相手の師範も。

 通常なら首を大きく傾げるべき事態と事象なのだが、通常からほど遠い師範の、視認や感知が不可能な闘いぶりなら不思議ではないと、観戦していた門下生たちは、無意識かつ無条件で思い込み、納得したのだ。

 先入観に惑わされて。


「――ま、無理もないわね」


 リンは驚嘆せずにはいられない門下生たちの様子を見て、独語する。自分にしたって、門下生の立場なら、同様の結論でうなずくに決まっているので。


「????????????????????????????????????????」


 門下生たちから驚嘆されたイサオの脳内は、無数のクエスチョンマークで溢れかえっていた。元の位置に正座しても、収まる気配はいっこうになく、むしろ破裂パンク寸前になる。

 これも当然である。

 今回の出来レースについて、イサオはなにひとつ知らされてないのだから。

 リンが故意に知らせなかったのだ。

 八子やご町へ向かう最中のサイコモーターカーで味わされた一連の出来事に対する意趣返しとして。

 前述のわからないフリを取ったのも。

 ――なので、


(――ふん。ザマァ見なさい――)


 リンの内心で留飲が下がるのも、至極当然であった。師範や門下生たちがいなれれば、師範から対戦相手として指名されてからの周章狼狽しゅうしょうろうばいぶりを、声と表情に出してあざ笑っていただろう。

 連続記憶操作事件が解決してからすっかりりをひそめていた、他人の不幸をたのしむ悪癖がぶりかえしたとも言える。


「――次、観静リン


 師範に指名されたショートカットの少女は、指名者ほどではないが、それでも充分な美貌に落ち着き払った表情で返事し、正座の姿勢から立ち上がると、颯爽とした足取りで師範と対面する。


「――大丈夫やろか? リンのヤツ」


 イサオが心配するが、それはまったくの杞憂でしかなった。

 リンもまたイサオと同様に決まっていたからである。

 自警団の無条件加入が。

 その理由が、イサオの場合が警管としての捜査能力なら、リンのそれは超心理工学メタ・サイコロジニクスに関する技術的知識・情報ノウハウと開発力である。

 勇吾ユウゴアイの地元でも続けている色々な超心理工学メタ・サイコロジニクスの発明品や試作品が、テロ組織の活動を掣肘する一助になると、小野寺夫妻が判断したのだ。

 また、超心理工学メタ・サイコロジニクス技術的知識・情報ノウハウにしても、リンと比較して大きく劣っている自覚があるので、それを駆使した情報戦では遅れを取る可能性が高く、その方面での活躍は、イサオ以上に期待している。

 ゆえに、本来なら地元の警察に協力させた方が格段に有益なのだが、士族出身の公安にその申し出を拒絶されては、署長の勇一ユウイチではどうしようもなく、イサオ同様の運びになったのだった。

 ――こうして、即席で結成された自警団の即席加入テストは終了した。

 合格者は龍堂寺イサオと観静リンの二名。

 審査側の意図に即した事実上の人選であった。




「……………………」


 勇吾ユウゴは実家の中庭で独りたたずんでいる。

 辺りはすっかり闇夜に包まれ、昼間と変わらぬ位置にある陽月が、闇夜に覆われた中庭を薄く照らすが、見通しは真昼のそれからほど遠い。

 一軒家や道場から遠く離れているプレハブでは、勇吾ユウゴの両親である小野寺夫妻が、自警団員用の夕食を作っているが、その模様は物理透視しなくてもはっきりとわかる……。

 現在、即席で結成された自警団は、即席の加入テストで合格した二人の少年少女を加えて、小野寺流総合武術道場の師範代たちを中核に活動中であり、その師範と主席師範代は、彼らのために、前述の作業に従事しているのである。

 テロ組織の暗躍に、地元が不要不急な活動を自粛している状況下では、他所から家政婦を呼ぶわけにはいかなかった。その上、素人でも作れる即席レトルト食品が、現在の第二日本国では普及しておらず、門下生たちを道中でのテロ組織遭遇回避のためにテレタクで帰らせたあと、小野寺の家に残された人たちの中で、摂らないわけにはいかない食事を作れる人材が限られていては、当然かつ消極的な人事と役割分担であった。

 そして、分担された役割の中で、小野寺勇吾ユウゴだけがなにひとつ割り当てられることなく、途方に暮れているのだ。

 食事はともかく、自警団に加入できなかったのは、当然の結果だと思っている。

 あの醜態では。

 この前の武術トーナメントで優勝を果たせたことで、多少の自信はついたのだったが、そのついた自信は、志望してやまない将来の職業に対してであって、勇気ではなかった。

 その履き違いを、この加入テストで気づかされたのだ。

 自身の母親から。

 意思消沈するのも、無理からぬことである。

 かといって、このまま何もせずにただ傍観するわけにはいかなかった。

 こんな自分でも、なにかできることがあるはず。

 たとえどんな状況におちいっても。

 それは――


「――今の自分にできることをする」


 事と、


「自分にできることを可能な限り増やす――」


 事の二つを、常に行い続ける。

 それが、父親たる小野寺勇次ユウジの教えであった。

 息子はその教えを一瞬たりとも怠らずに守り続けている。

 今回も例外ではない。

 現に今の自分に何ができるのか、一生懸命考えている。

 それが、今の自分にできる、精一杯の事である。

 そんな時だった。


(――ユウちゃんっ!)


 という声が、エスパーダの精神感応テレパシー通話機能を通して、前振りもなく脳内に響いたのは。


「――アイちゃんっ!?」


 勇吾ユウゴは驚きの声を上げる。


(――ユウちゃん、感覚同調フィーリングリンクさせて――)

(――えっ?!)

(――そしたら、そこを動かないで。眼球も――)

(――えっ、ええェッ?!)


 かけるなり出してきた幼馴染の指示に、勇吾ユウゴは存分に戸惑いながらも、なにひとつ言い返さずに、素直にしたがう。

 それからほどなくすると、


「――アイちゃんっ!?」


 の、姿が、勇吾ユウゴの糸目の前に現れる。

 テレタクの空間転移テレポートで。


「……やっと、会えた……」


 幼馴染と対面したアイは安堵のため息をつく。


「……アイ、ちゃん……」


 幼馴染の様子に、勇吾ユウゴは心を打たれる。

 同時に、アイと同様、胸をなでおろす。

 今生の別れを、昼間の警察署で予感させられては、無理もかなった。


「……杏里アンリちゃんが、アタシから目を離さなくて……」


 だが、その元凶の名を、アイがそれまで会えなかった理由を交えて口にすると、


「……………………」


 勇吾ユウゴの柔和な表情に暗い影が差す。

 テレタクの利用手順を守らなかった上に、その友達の隙を見てまで会いに来た理由も、それに違いないのだから。


「……………………」


 だが、アイは無言のまま幼馴染の前でうつむき加減に視線を落とす。

 どう切り出せばいいのか、わからずに。


「……………………」


 勇吾ユウゴの方もどう促せばいいのかわからず、こちらも無言のまま幼馴染の前で立ち尽くす。

 わかっているのは、想い出づくりどころではないことだけ……。


『……………………』


 ……結局、小野寺家の中庭に、重苦しい沈黙が下りる。


「――久しぶりだな、お前ら」


 ――ことなく破られたっ!

 静かな声で、不意に!


『――っ?!』


 ――かけられた二人の幼馴染は、驚いた表情でその方角に視線を揃える。


「――あれから七年――が、経った割には、あまり変わってねェなァ」


 その先に佇んている一個の人影を認めたそれが、あざけり混じりに懐かしむ。


「――特に、その糸目の小僧はなっ!」


 突如、憎悪で煮えたぎった口調に転じて。


「――――――――――っ!!」


 その怒号に、勇吾ユウゴは衝撃を受ける。

 落雷に撃たれたかの如く。

 縦一直線に全身を貫いたそれは、一撃目の比ではなかった。

 恐怖と戦慄の鉄鎖が、青ざめた勇吾ユウゴの全身を締め付ける。

 金縛りさながらに、身動きが取れなくなる。

 その背後に隠れたアイにいたっては、それに加えて震え出し、膝から崩れ落ちそうであった。

 幼馴染の背中を掴まなければ。


「……う……」

「……ウソ、でしょ……」


 人影を視認した勇吾ユウゴアイが喘いたそれは、約殺寸前の鶏に等しかった。

 そう。

 忘れるわけがない。

 忘れられるわけがない。

 記憶操作を施しても、きっと。

 二人の幼馴染にとって、両者の仲を裂く根源的な原因となった元凶が、何の前触れもなく目の前に現れてはっ!

 正確には、その四人組の一人である。

 七年前の地元で起きた鈴村アイ誘拐事件の、


「……須賀すが……」


 という名を。

 人相も、出で立ちも、七年前と変わらない。

 濁った瞳、恨みがましいヒゲ面、生地は立派だが手入れがまったくされてない剣道着に似た服装。

 七年前から時が止まったかのような、それは姿だった。

 少なくても、その被害者である幼馴染たちの目には映った。

 それだけに、鮮明にフラッシュバックする。

 七年前の地元で遭遇した、残り三人の誘拐犯の姿も。


「――待っていたぜ、この時を。シャバに出た後、八子町ここに居続けた甲斐があったよ。なかなか機会が巡って来ねェから、ムダに終わるんじゃねェかと、ほとんど諦めかけていたからな。太助たすけの息子が現れるまでは」

「……う、うう……」

「――七年前、本当はお前を誘拐する予定だったんだが、そこの少女ガキを置いて一目散に逃げちまいやがったから、そこのオンナに変更したんだよ。ま、あの小野寺さえ誘い出せれば、だれでもよかったんだけどな」


 須賀すがと呼ばれた男は愉快げに語りかけるが、


「――それでも、成功するはずだった。あの時、あの小僧が不意打ちしなければなぁっ!!」


 その声をふたたびび憎悪に転調させて咆える。


「……う……う……」


 その当人は全身ごと震えあがった声で、ただただうめく。

 その時の面影など素粒子レベルですら見出せないほどに。


「――だが、今回はそうはいかねェぜ。今のオレはあの時よりもはるかに強くなったんだからなァ。太助たすけの息子がくれたこの力で」


 須賀すがは自信に満ちた口調と表情で笑って見せる。

 目の前に立ち尽くす勇吾ユウゴに対して。


「――それじゃ、あの時の復讐リベンジも兼ねて、またなってもらおうか」


 太助たすけの息子から受けた指示を、須賀すがは禍々しい表情を浮かべて実行に移し始める。


「――人質に」


 それが、久川比呂ヒロが出した指示と、それを受けた須賀すが直道なおみちの、共通した目的だった。




 ――七年前、八子やご町で発生した鈴村アイ誘拐事件の実行犯四人は、実行したその日のうちに逮捕され、裁判で有罪判決を受けた。

 そのあと、各地の刑務所にそれぞれ収監され、実行犯の一人が服役中に病死した。

 それが久川比呂ヒロの実父、久川太助たすけであった。

 そして、刑期を終えて釈放された三人のうち、一人が再犯して刑務所へ逆戻りし、もう一人は別件の犯罪に手を染めた末に死亡。残りの一人は――


「――逃げるんじゃねェぞ」


 ――現在、勇吾ユウゴアイの目の前に立っている。

 八子やご町で暗躍しているローカルテロ組織の一員として。


「――そうだ。動くなよ。動けばどうなるか、わかっているよなァ」


 須賀直道なおみちは、再会を果たした二人の少年少女に、恫喝にしか聴こえないセリフで動けなくさせると、威嚇するように歩き始める。

 二人の幼馴染にとって、果たしたくなかった再会だった。

 アイは動けなかった。

 勇吾ユウゴも動けなかった。

 少なくても、前には。

 そうなる前に放つべきだった早斬りも、その時点で不可能となった。

 トラウマの擬人化に等しい相手との遭遇に、精神的な衝撃を受けて。

 もはや勇吾ユウゴに自身の肉体で挑むだけの戦意はなかった。

 勇気にいたっては言わずもがなである。

 あるのは七年前のあの時に戻ったような恐怖と、再会によってもたらされた戦慄だけだった。

 その状態で取れる残された手段は、『精神体分身の術アストラル・アバター』しかなかった。

 それが『ヤマトタケル』様式モードにならなくても闘える唯一の手段だった。

 肉体的な活動が不可能になっても、精神的な活動までは不可能になっていない。

 精神的な衝撃と混乱からかろうじて立ちなおった勇吾ユウゴは、ただちにそれを実行する。

 ――が、


(……で 出ない。精神アストラル体が、出ない……)


 ――状態に、激しく困惑する。

 今回に限って。

 よりによってとは、まさにこの時であった。

 それが二度も立て続けに起きられては、なおさらだった。

 後に判明したが、精神体分身の術アストラル・アバターができなくなった原因は、当人の精神が、平常とはほど遠い状態だったからである。

 精神エネルギーをエネルギー源とする様々な超能力や超脳力は、それを持つ者たちの精神状態に左右されるため、氣功術と比較すると、安定性に欠ける。それを、エスパーダや光線剣レイソードなどといった超心理工学メタ・サイコロジニクス製の機器デバイスで安定化させることで、実用にまでこぎ着けたのだ。

 だが、精神体分身の術アストラル・アバターの場合、それ専用の機器デバイスが存在しないため、術者の精神が不安定になると、安定させない限り、使えないのである。

 

 (――なぜっ!? どうしてっ!?)


 勇吾ユウゴの精神に衝撃と混乱が再来する。

 一度目よりも増して。

 ましてや、そこまで思いが至らない状態では、なおさらである。

 そこへ、さらに距離を縮めて来る須賀直道なおみちの姿を再視認したことで、それに拍車がかかる。


(~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!!)


 勇吾ユウゴの脳内は完全に白一色と化す。

 呼吸が急速に荒くなり、心臓の鼓動も加速度的に速まる。


「―――――――――――――――――――――――――――――――――――――っ!!」


 もう限界だった。

 勇吾ユウゴは身をひるがえして逃げ出す。

 ――直前、


「――須賀ァッ!!」


 雷閃の如き怒号が、中庭にとどろき渡る。

 と、同時に、須賀の姿が消失する。

 青白色の剣閃が須賀の身体を斬り裂いたのも。

 だが、半瞬の差で間に合わなかった。

 斬り裂いたのは、半瞬前まで実体があった須賀の残像だけだった。

「――逃げられたか、空間転移テレポートで」

 景子ケイコは忌々しげな口調で独語すると、青白色の刀身を収納した光線剣レイ・ソードを帯に差し戻し、


「――二人とも、大丈夫?」


 息子とその友人に尋ねる。


『…………………………………………………………………………………………………………』


 だが、それに応えられる状態では、二人ともなかった。

 アイは緊張の糸が切れたように崩れ落ち、勇吾ユウゴは真っ青な表情で立ち尽くす。

 肉体の方は大丈夫だが、精神の方は完全に大丈夫ではなかった。

 特に勇吾ユウゴは。


「……僕は、また……」


 同じ過ちを繰り返すところだった自分に、かつてないほどの絶望感が襲いかかっていた。




 小野寺家の中庭は、地元の警察官や警察車両であふれかえっていた。

 そこの住居者からの通報で、急遽、駆けつけてきたのだ。

 テレタクと物理移動の両方、もしくはその両方を組み合わせて。

 超常特区ほどに防犯カメラが設置されてないため、出動の足並が揃えられなかったのだ。

 ましてや、地元を騒がすローカルテロ組織の一員が現れたと知らされては、迅速な現着が最優先にせざるを得なかった。

 それでも、手遅れであることに変わりはなく、現場検証と事情聴取が関の山であったが。


「――なんてことや。よりにもようて、自警団ワイらの活動中に勇吾ユウゴの家に現れるとは……」


 その光景を、道場の外壁を背に眺めているイサオが、苦々しさと忌々しさを配合ブレンドした表情と口調で独語する。


「――それも、その隙を突いて」


 隣にたたずむリンが、同様の表情と口調で補足する。


「――まるで見計らっておったようなタイミングでの出現や。やっぱ神出鬼没きわまりないで、空間転移テレポートは」


 イサオは危機感を募らせた口調で述べるが、


「――いいえ、実際に見計らっていたのよ、アイツは」


 リンに首を横に振られて、驚く。それに構わず、リンは続ける。


「――でなければ、不可能だわ。あの小野寺夫妻の隙を突いて空間転移テレポートで送り込むのは」


 それを聞いて、イサオは手を横に振る。


「いやイヤ、無理やろっ! 絶対にっ!」

「……けど、それしか考えられないわ」

「――せやなら、どないな方法で見計らっておったんやっ!」


 怒鳴るように問いただすと、イサオリンの答えを待たずに言い募る。


「――勇吾ユウゴの家には防犯カメラが一台も設置しておらへんから、テレハックして空間転移テレポートの着地点を確保するのは不可能やし、現場におった勇吾ユウゴアイも、それで視覚を感覚同調フィーリングリンクされた自覚も形跡もあらへんのやで。かとうて、中庭の物陰から直接肉眼で見計うのは、他者に自身の姿を目撃される危険リスクがある。やっぱそないな方法なんて――」

「――あるじゃない。防犯カメラや自分や他人の視覚を使わなくても、空間転移テレポートの着地点を確認できる方法が」


 リンは確信をもって答える。


「……なんや、それ?」

「――忘れたの? イサオ。アイツには、空間転移テレポート以外にも、もうひとつの超能力があることを」


 そこまで言われたイサオは、ハッとした表情でようやく気づく。


「……『遠隔透視リモートビューイング』……」


 に。


「――それなら、空間転移テレポート先の着地点を視覚で確認できるわ。テレ管やアス管の支援サポートがなくても」

「……せやった。それがあったんや、アイツには……」


 イサオは自分の迂闊さを呪うような表情でうつむく。


「――どうりで捕捉でけへんわけや。それらの施設の機能を、地元ここの警察が使つこうても」

「――あの時に使った空間転移能力者テレポーター追跡システムで辿るには、防犯カメラの設置数が圧倒的に少なすぎて、使えないわ、八子町ここは」

「――超常特区とちごうて、田舎やもんな」

「――もし、人跡未踏の広大な山奥を拠点に活動していたら、追跡はほぼ不可能よ。テレ管の空間転移テレポートや人間の二本足でも」

「――空から気球で捜索しても、森林が邪魔で見つけれへんやろうし……」

「――もはや、アイツ自身が、動くテレポート交通管理センターよ」

「――それも、テロ組織専用のな。留置場への誘導は不可能や……」


 イサオが言葉を切ると、リンも押し黙ったまま口を閉ざす。イサオもそれに応じようとはせず、同様に沈黙する。

 話せば話すほど気が滅入ってしまうので。

 テロ組織が久川比呂ヒロ空間転移テレポート遠隔透視リモートビューイングを駆使して移動しているのは、ほぼ確実である。

 現に地元の警察や公安が、一周目時代の警察機構と同じ捜査法で捜査しても、手掛かりの一本すら掴めずにいる。

 一周目時代の日本に、そのような超能力者など存在しないのだから、通用しなくて当然である。

 テロ予告の落書きやそれをアスネに拡散させた犯人やその位置が特定できないのも。

 人跡未踏の広大な山奥を、空間転移テレポートで転々としながらそれを拡散させられては、絞り込めるわけがなかった。

 ましてや、複数の人間が複数のアカウントを個別に駆使してはなおさらだった。

 特殊能力とアスネを最大限に活用した犯罪組織ならではの手口である。

 ゆえに、二周目時代の第二日本国において、特殊能力者の犯罪を摘発するには、新たな捜査法を模索しなければならないのだが、暗中もいいところなのが現状であった。

 観静リンが編み出した空間転移能力者テレポーター追跡システムは、まさにそのひとつであり、運用にまでこぎつけたのだが、活用の可能な地域が限定的で、そのひとつだけでは、心許ないことこの上なかった。そのため、第二日本国警察機構の大きな課題のひとつとして、現在も引き続き取り組んでいるが、少なくてもコラボ祭の開催までに間に合わないのは確かである。

 それが、現場にいるイサオリンに、第二日本国警察の実情を交えて教えてくれた、地元の警察署長の見解であった。

 だからこそ、こちらでも対策を協議していたのだが、前述の通りな流れの末に中断したのである。

 それでも、協議は中断しても、思案までは中断しなかった。


(――個人でテレ管として運用するには、それなりの精神エネルギーが必要だわ。あの久川比呂ヒロに、それだけの精神エネルギーがあるとは思えない。恐らく、テロ活動に必要な精神エネルギーを、どこかの精神エネルギー貯蓄会社から盗んだのでしょう。三日前、その事件ニュースがアスネで流れていたし。たぶん、そいつらの仕業ね。これなら、個人でもkm《キロ》単位での空間転移テレポートが可能になる。いくらユウちゃんの両親でも、その距離にいる相手の気配を察知することは不可能。現にそうだったし、それで奇襲されたらひとたまりもないわ。コラボ祭も――)


 少なくても、観静リンは。


(――でも、そこまで遠くに人体を飛ばせられても、その着地点の確認に必要な視点までは飛ばせられないわ。遠隔透視リモートビューイングの射程距離は、遠隔透視能力者リモートビューラー直接接続ダイレクトアクセス能力次第――)


 ――と、そこまで思案を巡らたその時、


「――直接接続ダイレクトアクセスっ!?」


 思わず声に出す。


「――なっ、なんやっ、リンっ!」


 イサオが驚いた表情でリンを見やる。


「――そうだったわ。遠隔透視リモートビューイング直接接続ダイレクトアクセスによる精神感応テレパシー通信の一種。もしそれを――」


 だが、見やられた方は、イサオの声や視線に気づく様子もなく、アゴをつまんでつぶやき続ける。

 そして――


「――イサオっ! みんなを集めてっ!」


 見やっている相手に見返し、頼む。


「――どっ、どないしたんやっ!? やぶからぼうに」

「――いいから早くっ! アタシの推測が正しければ、テロ組織を一網打尽にすることができるかもしれないんだからっ!」


 ――リンの驚くべき発言を契機に、中庭が慌ただしくなり始めた頃……


「……………………」


 勇吾ユウゴはそれに背を向けてうずくまっている。

 家の居間の片隅に、無言で。

 一時は勇吾ユウゴの手によって腐海と化した居間たが、そのあと、勇吾ユウゴの父親が綺麗に掃除をしたので、その痕跡はどこにも見当たらない。


「……………………」


 勇吾ユウゴの隣には、自分の父親である勇次ユウジが、息子とは正反対な方向で床に腰を下ろしている。

 こちらも無言で。

 一人息子がなにを思い悩んでいるのか、手に取るようにわかるだけに。

 だからこそ――


「――勇吾ユウゴ。あなたには勇気があります」


 あえて断言した。

 自分の想いを、率直に。


「――そんなものボクにあるわけがない――」


 ――と、顔を上げて反射的に叫びかけた息子のそれを素早く先取りすると、


「――なら、なぜ、勇吾ユウゴアイさんと仲直りできたのですか?」


 核心を突く問いで返す。

 息子に穏やかな笑みを浮かべて見せて。 


「――っ!!」


 勇吾ユウゴは言葉に詰まる。

 父親のそれと合わせた顔に、意表と盲点を同時に突かれたような表情が浮かぶ。

 父親譲りの糸目にも。


「――よく、勇気を示してくれた他人ひとから、『勇気をもらった』と、勇気づけられた人が、感謝の念を込めてその他人ひとに応えますけど、それは違います」


 勇次ユウジは抽象的な事例を上げて諭し始める。


「――なぜなら、元々その人に勇気が備わっていたからこそ出せた勇気だからです。その他人ひとからもらったのは、勇気ではなく、出す契機きっかけ。本当に勇気がない人なら、どんなに勇気をもらっても、勇気なんて出せません。少なくても、わたしはそう思います」

「……………………」

「――勇吾ユウゴ。あなたとアイさんとの仲が直った契機きっかけは何だったのですか?」

「――――――――」

「――もし、それが、わたしの想像どおりなら、きっと大丈夫です。一度出せた勇気が、二度と出せなくなるなんて、ありえません。第二次幕末を戦い抜いた経験者わたしが言うのです。間違いありません」


 勇次ユウジが口を閉ざすと、父子おやこの間に沈黙の架け橋が渡される。

 中庭の喧騒が耳につくが、どちらも鼓膜の奥にまでは入らなかった。


「……………………」


 そして、勇吾ユウゴはおもむろに立ち上がると、中庭へと向かう。

 その表情や足取りには、契機きっかけをもらったそれが宿っていた。


「……………………」


 遅れて立ち上がった勇吾ユウゴの父親は、無言で息子の後姿を眺めやる。

 誇らしげな糸目の眼差しで。

 結局、息子ユウゴは一言の礼すら父親には言わなかったが、勇次ユウジにはわかっていた。

 口には出さなくても。

 それは、洞察や精神感応テレパシーを超えた、以心伝心であった。


「……………………」


 そんな小野寺父子おやこのやり取りを、アイは壁越しに聞いていた。

 居間側の壁に背を寄せて。

 うつむくその表情には、自己嫌悪の念がむき出している。

 幼馴染に頼ろうとしていた自身の情けなさに。


「……………………」


 勇吾ユウゴは一度も自分から頼ろうとはしていない。

 いつも自分なりに考えて頑張っている。

 そして、その姿に心を打たれた周囲が、自分から頼られに来るのだ。

 それに対して、自分は自分なりに考えて頑張っているのか?

 少なくても考えているのは確かである。

 答えだって出ている。

 だが、それを行動に移せるだけの決心がつかなかった。

 それを、幼馴染に押し付けようとしていたのだ。

 無意識のうちに。

 その自覚のないまま、ふたたび頼ろうと幼馴染を捜していたら、この場面に直面したのだった。

 そして、小野寺父子おやこのやり取りを聞き終えた瞬間、鈍っていたアイの決心が、金剛石ダイヤモンドのごとく固まった。


「――――――――」


 アイは決然とした表情で顔を上げると、壁から背を離して歩き出す。

 廊下を踏むその足音は、静かな力強さに満ちていた。

 アイの背中にも。

 その後、アイと入れ替わるように居間の前まで歩いて来た小野寺景子ケイコが、


「――っ?!」


 アイの後姿を見て、目を見張らせる。


「――――――――」


 あまりにも似ていたのだ。

 記憶の奥底に眠る――


「…………彦一ヒコイチ…………」


 ――の、後姿に……。

 



「――ちょ、ちょっとォ。なによ、いったい?」


 杏里アンリは困惑の表情と口調で相手にただす。

 たださずにはいられなかったのだ。


「――ちょっと目を離した隙にいなくなったと思ったら、突然アタシの前に現れて手を引っ張ってェ――」

「……………………」

「――ねェ、なんか言ってよ、アイちゃん」


 自分の手を掴んて連れて行くツーサイドアップの少女に、杏里アンリは連れて行かれながらも返答をうながす。


「……………………」


 アイは無言で立ち止まる。

 八国やつくに神社の広場に。

 その周囲には、二日後の夏祭りに向けて準備中の屋台が並んでいるが、テロ組織のテロ予告により、作業が中断されたままの状態で放置されている。しかも深夜なので、人気ひとけはどこにもない。神社の敷地内には一台の防犯カメラも設置されてないので、自分たちの姿を見られる心配もない。

 それを悪用したテロ組織の遭遇も。

 出くわしてしまった小野寺家の中庭と違い、ないはずである。


「……………………」


 アイは無言で杏里アンリの手を離すと、これも無言で向き合う。

 地元でできた唯一の女友達と。


「……ねぇ、杏里アンリちゃん……」


 そして、おもむろに切り出す。

 静かな声で。


「……アタシたち、友達だよね?」

「……な、なにを言ってるのよ?」


 アイの今更な確認の質問に、杏里アンリの困惑はさらに増す。


「……友達、だよね……」


 だが、アイに重ねて問われると

「……もちろん、だよ」


 困惑を心中に抱えながらも、うなずいて答える。


「……じゃ、聞いてくれる。アタシのお願い……」


 アイは懇願する。

 今度は辛そうな口調で。


「……な、なによ。いったい、どうしたのよ……」

 六年前とはまったく異なる友達の雰囲気に、杏里アンリは完全に呑まれるが、


「――あ、そうか」


 その見当がつくと、途端に困惑の色が消失する。


「――アイツのことね、小野寺勇吾ユウゴ

「…………………………………………」

「――まったく、どうしようもないヤツだね。イジメられても文句の言えないことを散々しておきながら、いまになって仕返しを企むなんて、ホント、士族ってクズな身分階層れんちゅうだわ」

「……………………………………………………………………………………」

「――しかも、今回の事件を起こしたテロ組織に、士族や士族崩れが関わっているっていう話じゃない。そいつらのおかげで、夏祭りや町おこしを含めたコラボ祭は開催の危機に立たされて、この有様よ。こんな状況じゃ、コラボ祭でアイツに恥をかかせられないし、いい迷惑だわ」


 杏里アンリは周囲を見回しながら、憎々しげな表情と口調で言い捨てる。


「――もし、アイツがテロ組織の一員だとしても、アタシはちっとも不思議に思わないわ。現にそのテロ組織のリーダーは、アイツの道場の門下生だったそうじゃない。アスネのカキコミに、そんなことが書かれていたわ。人脈コネも動機も充分に揃っている。これはもう、『もし』じゃなくて、ホントにアイツの仕業――」


 そして、周囲に振り回していた視線を、根拠が絶無な邪推を述べながら正面に戻す。

 ――と、


「――えっ?」


 その奔流を止めてしまう。

 正面にいたはずの友達の姿が、いつの間にか消失していることに気づいて。


「――アイちゃん?」


 杏里アンリはふたたび周囲を見回すが、どこにも見当たらない。

 それも当然である。

 いましがた見回したばかりなのだから。


「――どこへいったの? アイちゃん」


 何度も見回し続ける杏里アンリの心に暗雲が立ち込める。

 時が経つにつれて、その度合いは徐々に濃くなる。


(――まさか、アイツに空間転移テレポートで誘拐されて――)


 邪推も極まる根拠で決めつけたその時――


「――えっ?!」


 ――ようやく気づく。

 何度も周囲を見回しても見つからない事象に。

 それもそのはずである。

 アイは地面に伏していたのだから。


 土下座で。


 地面に額を擦りつけるほどのそれは、萩原杏里アンリに対して向けられていた。

 両者の他に誰もいない以上、それ以外に考えられなかった。


「――えっ?! ちょ、えっ――」


 想定外の極致というべき事態に、杏里アンリは混乱の極に達する。

 ただただうろたえ、当惑する。

 立ったまま。

 ――では、気まずく感じ始めたので、


「……や、やめてよ、アイちゃん。よくわからないけど、なんでアイちゃんが土下座なんて――」


 混乱と当惑を引きずりながらも立ち上がらせようと伸ばした杏里アンリの手が、


「――アタシ、ユウちゃんとは幼馴染なの。物心ついてからの……」


 地面に伏したまま発したアイの告白で急停止する。

 呼吸や心臓も。

 幸い、そのふたつだけは一瞬だけだったが、その後に襲った衝撃は一瞬だけでは収まらなかった。

 杏里アンリはその姿勢のまま硬直し、絶句する。

 大きく見開いた表情も。


「……ごめんなさい。今まで隠していて。杏里アンリちゃんのことを想うと、どうしても言い出せなくて……」


 アイは土下座の姿勢を保ったまま杏里アンリに伝え続ける。

 自分の想いに命と魂を込めて。


「……でも、ユウちゃんは、杏里アンリちゃんが思うような男の子なんかじゃない。杏里アンリちゃんをイジメ抜いた士族の子弟とは思えないほどの優しい子よ。だから仲良くできたの。アタシとユウちゃんは――」

「…………………………………………」

「――そんなユウちゃんをアタシがイジメるようになったのは、あの時、ユウちゃんが一人で逃げた腹いせと八つ当たりで始めたことなの。そうでもしないと、あの時の恐怖とトラウマを紛らわせられないアタシの心を、……ユウちゃんは汲んでくれた。受け止めてくれた。そして、癒してくれた。七年もの間、アタシにイジメられることで、ずっと……」

「……………………………………………………………」

「……そのあと、アタシはユウちゃんと仲直りすることができた。でも、七年に及ぶ苦い想い出を消すことまではできなかった。したくなかった。だから、少しでも埋め合わせたいの。これから作る楽しい想い出を、このコラボ祭で……」

「……………………………………………………………………………………」

「…………だから、お願い。アタシとユウちゃんの想い出づくりを、……許して…………」

「…………………………………………………………………………………………………………」


 杏里アンリは無言で聞き入っている。

 アイの想いと懇願を。

 それは、見栄も恥も外聞も、すべてをかなぐり捨てた、必死の歎願だった。

 いまだ頭を上げようとせずに続けている土下座が、それを物語っていた。

 幼児ですらわかるほどのわかりやすさで。


「…………………………………………………………………………………………………………」


 歎願された杏里アンリも、わからずにはいられなかった。

 八子町ここに移住して初めてできた友達の想いを。

 だが、それ以上のことや、それ以外のことは、まったくわからなかった。

 自分はどうしたらいいのかすらも。

 あまりにも衝撃的な告白に、思考は完全に停止し、心は整理をつけるどころではない。

 頭を上げる気配のないアイの前で、銅像のように、ただ立ち尽くすだけ……。

 ――だからこそなす術もなく捕縛されてしまったのである。

 八子やご町を騒がすローカルテロ組織に、二人とも。

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