『玉虫の樹』
山には死霊が多く住む。彼らは黄泉の沼より這い出てくるのだ。その沼は山の岩陰に密やかに口を開け、
不用意に山へ立ち入る人間は、死霊の試練を受けることになる。それは悪意に満ちた難題ばかりで、多くの人間たちが試練に負け、黄泉の沼へと引きずり込まれていった。ゆえに黄泉の沼には決して立ち入ってはならないと、ふもとの村では厳しく教えられていた。
ある夏至の晩、村の若者たちが死霊を打ち負かすため、黄泉の沼へ連れ立って向かった。若者たちは恐れを知らなかった。自分たちが世界で最も強く、賢く、生命力に満ちあふれていると思い込んでいた。その若さゆえの傲慢と軽薄を、死霊たちは見逃さなかった。
死霊は美しい女たちに化け、若者たちを宴に誘った。彼らが見たこともない、美しい料理や芳醇な香りのする酒が並ぶ宴であった。
若者たちは初めこそ疑ったが、あまりに美味しそうな料理についに我慢できなくなり、恐るおそる口に運んだ。それはこの世のものとは思えぬほど美味で、特に酒は美しい黄金の輝きを放ち、得も言われぬよい味であった。
若者たちは夢中で食い、夢中で飲んだ。
彼らの中で最も用心深かった、シトシマという男だけが、宴に心を許さなかった。彼は肉を食うふりをして足元へ吐き出し、酒を飲むふりをして木陰へ捨てた。
宴は三日三晩続いた。若者たちは飲み食いを続け、シトシマは何も飲まず何も食わなかった。
ついに酒が尽きた。女たちはいつの間にかいなくなっていた。取り残された若者たちは、うなされながらなおも酒を求めた。黄金に輝く美酒の虜になっていたのだ。
ひとりの若者が、大地より酒が湧き出しているのを見付けた。そこを掘ると、黄金の美酒がたちまち溢れた。若者たちは狂喜し、我れ先にと大地を彫り始めた。酒は見る間に山を満たし、やがてふもとの村へと流れ出した。
その酒は毒だった。それは黄泉の沼を満たす死の水だったのだ。若者たちは黄泉の沼の源泉を掘り返してしまったのだ。
流れ出した死の水は村の井戸にたまり、村では多くの人が死んだ。シトシマはこれを見て、水を止めなければと思ったが、何の手段も思い付かなかった。
途方にくれるシトシマの前に、一匹の玉虫が現れた。玉虫は先祖の霊が姿を変えたものだと言われる。シトシマは玉虫の前に
「我々は大きな過ちを犯した。その過ちのために、村の人々がたくさん死んだ。どうか村を救ってくれ。私の命はどうなっても構わない」
玉虫は荘厳な声で応えた。
「お前たちは取り返しのつかないことをした。しかしお前が正しき心と勇気をもって立ち向かえば、黄泉の沼を塞ぐことができるだろう」
玉虫は虹色の羽根を震わせて、シトシマの肩にとまった。玉虫はシトシマに、
シトシマが緋の綿を縛って
それを見届けると、シトシマは玉虫と共に再び山へと向かった。黄泉の沼を塞ぎに行くのである。道々で死霊たちがシトシマの前に立ちはだかった。シトシマの家族や恋人の姿に化け、村へ戻れとしきりに繰り返したが、シトシマはいっさいそれを聞かなかった。
やがて沼へと辿り着いた。こんこんと湧きいでる死の水はシトシマの脚を濡らし、腰を濡らした。死の水に触れたところから、シトシマの身体は腐っていった。シトシマは動じず、この水を止める方法を玉虫に尋ねた。玉虫は言った。
「黄泉の沼は永久に湧き続ける業の水である。これをこの地にとどめるためには、お前の身をもって沼を塞ぐほかない。
お前はこの地で永遠に生き、永遠に死の水を飲み続けるのだ。終わらぬ苦痛と孤独に耐えられるのならば、お前の身を大樹へ変えよう」
シトシマは村に残した家族を、恋人を思った。彼らに会えぬ永劫の日々を思った。それは死よりも恐ろしい苦しみであったが、しかし彼らを物言わぬ死骸にしてしまうよりは、よほどよいとシトシマは思った。
「構わない」とシトシマは言った。「私が犯した罪と、私が成したことの全てを、どうか母に伝えてほしい」
シトシマは
死の水に触れ腐り果てた彼の脚が、たちまち樹の根へと変わった。胴は高く太く伸び、腕や髪は空を覆わんばかりの枝葉となった。大樹となったシトシマの中に、死の水が流れ込んだ。生きながらにして死の苦痛を味わい、シトシマは苦悶の声を上げた。それは遠雷のように地を這い、ふもとの村まで響き渡った。死の水は、もはや村には届かなかった。
やがて一匹の玉虫が、ある家の窓に降り立った。玉虫の
「彼の償いはまだ残っている。それは彼と彼の友人らのために、死の水をのみ今なお苦しむ者の救済である。
だがシトシマの高潔な魂に免じ、その救済は私が請け負おう」
玉虫は、自分を擦り潰して清潔な水に混ぜ、苦しむ者たちに飲ませるよう命じた。シトシマの母がそのようにすると、苦しんでいた村の者たちはたちまち死の呪いから開放された。
それからというもの、村の人々はシトシマを決して忘れることなく、彼が飢えたり乾いたりしないように、彼の元へ食べ物や飲み物を運び続けた。虹の玉虫はシトシマに寄り添い、死の水にあたった者があれば、その者のところへ飛んでいきこれを癒やした。
こうして、村は黄泉の沼に怯えることはなくなった。シトシマの勇気と献身をもって、災厄は終わったのだ。
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