篠突く雨のまぼろし


 「この話が事実を元に作られたものである可能性は、我々も考えたのです。先ほどの会合でもその話が出ました。ですが……」

 おとぎ話を語り終えたのち、村長は苦々しげに目を伏せた。

「その話に出てくる、『緋の綿』も『玉虫』も、それらしきものに心当たりがないのです。もちろん『シトシマの大樹』にも……」

 村長の言葉を聞き、零夜とキヤは顔を見合わせた。二人とも、頭に思い浮かべているものは同じだった。

 丘の上で枯れつつあった大樹のミトラ。そのミトラから生まれたという、緋色の子実体を持つ単眼のミトラ。そして彼らが、「人間が喜ぶもの」と言って零夜に与えたのは……。


「これは」

 零夜が軟布からそれを取り出すと、村長は息を呑んだ。その結晶は、薄曇りのわずかな光すら健気に集め、零夜の手のひらに虹のプリズムを描き出している。

「虹色の玉虫……」

 村長は震える手で、それを手にとった。



 「この村で一番栄養価の高い酒は? アルコール度数の強すぎるやつは駄目だぜ。元気なやつに持てるだけ持たせろ。道案内はレイヤがやる。

 登りの道だ。急いでも半日以上はかかるだろうから、その準備と雨除けも忘れずにな。あとは……」

 キヤの的確な指示に、村の男たちは慌ただしく駆け回る。穀物を発酵させた、どろりとしたにごり酒を大筒おおづつに満たし、それを携えた若い衆が三人、零夜の元へと集う。身軽な装備で、一刻も早くあのミトラの元へと行かなければならない。

 夜通し歩くことになるため、雨に体が冷えないよう防水布のマントを羽織る。フードをかぶりながら、零夜は、休憩なしの雨中行軍に耐えられるようにと渡された、乾燥果実を少し齧った。干し柿のような見た目のそれは、ひとつ食べるだけで三日は飢えないという高栄養食らしい。甘酸っぱい中に生薬のような味がする。

「俺は村に残る。こっちも人手が必要だからな。レイヤ、」

 キヤが、相変わらず手加減を知らない強さで零夜の肩をばしんと叩いた。

「あのミトラと話をつけられるのはお前だけだ。しっかりやれよ」

 零夜は力強く頷く。雨はまた、ぽつりぽつりと降り始めていた。



(それで、じゃあ、あのミトラはシトシマなんだろうか?)

 村をって数時間が経過した。歩き通しで疲労の溜まった足をぬかるみにとられながら、零夜は考える。

(本当にシトシマという男がいて、それがミトラになった? それとも、その部分は創作なんだろうか?)

 人間がミトラになる。そんなことが現実にありうるのか、零夜には分からなかった。帰ったらキヤに訊いてみよう。一歩踏み出した足がずるりと滑り、零夜の身体が大きく傾く。それを、連れの男がさっと支える。

「大丈夫ですか、レイヤさん」

「あ、ありがとうございます。すみません」

 立ち止まり、低く雲のかかる丘を見やる。空気は生ぬるいというのに霧は濃く、一行ははぐれないように腕に赤い布を巻いた。


(キヤとティエラは、上手くやってるかな)

 村に残してきた二人と、二人に託した結晶を思う。

 あれが『玉虫の樹』に出てきた玉虫を指すものならば、あの結晶を擦り潰して患者に飲ませれば、水毒症は治るはずだった。ただ、擦り潰した結晶をどれくらいの濃さに溶かし、どれくらいの量を飲ませればいいのか、そこまでは分からない。薄すぎては効果が出ないだろうし、濃すぎては逆に毒になる可能性もある。

 村長の家の書庫にあった古い記録書を、ティエラが隅々まで確認してくれている。なにかヒントになるような記載がありますようにと、零夜には祈ることしかできなかった。



 「霧が濃いな……」

 大筒を担いだ男が言った。男の言葉通り、霧はいっそう濃くなっている。腕に巻いた赤い布はもはや何の意味もなさず、一行は一本の縄を並び持つことでなんとか集団を保っていた。ぼんやりと濁った霧は、今やその縄を持つ手の輪郭すら曖昧に溶かしている。

「これは……これは、本当に霧なのか?」

 そう発言したのは誰だったろうか。その言葉の意味を深く考えようとしたとき、零夜はふと、自分がたった独りで草原に立ち尽くしていることに気が付いた。

「あれ?」

 しっかりと縄を掴んでいたはずの左手は、いつのまにかくうを握りしめている。防水マントの重さだけが妙に現実味を帯びて、零夜の肩にずしりとのしかかる。明らかに異様な状況だというのに、零夜は不自然なほどに冷静だった。


「零夜!」

 自分を呼ぶ声に、零夜は振り向いた。その声の先。薄い夏用の制服に身を包んだ理仁りひとが、屈託なく微笑んで立っている。

「なにしてんだよ、こんなとこで」

 放課後のゲームセンターで偶然会ったときのような気さくさで、理仁は言う。

「それより帰ろうぜ。カズちゃんが待ってる」

「あ……うん」

 何の疑問も持たず、差し伸べられた手を取る。制服姿の理仁に手をひかれ、零夜は向かう。

(――?)

 ざあ、という雨の音がかすかに聞こえた瞬間、零夜は理仁の手を振り払った。そのまま数歩、後退あとずさりをする。理仁はそんな零夜の様子を不審がる素振りすらみせず、整った顔に微笑みを浮かべたまま零夜を見つめる。

「どうした、零夜。カズちゃんが待ってるぞ」

 それには応えず、零夜は辺りを見回した。先ほどまで歩いていた草原であることには間違いない。ただ雨は降っておらず、妙に明るく乾燥していた。



 『道々で死霊たちがシトシマの前に立ちはだかった。シトシマの家族や恋人の姿に化け、村へ戻れとしきりに繰り返したが、シトシマはいっさいそれを聞かなかった』……。


 (この部分も事実に基づいてたんだ……でもこれ、どうすればいいんだ?)

 当たり前に考えれば、これは水のミトラが見せる幻影だった。恐らく零夜の記憶に働きかけ、零夜が最も心を動かされる人物の姿を映しているのだろう。それが親やみかずではなく親友りひとであったことに、こんな状況だというのに笑いがこみ上げてくる。思えば異世界に来てからというものの、理仁の影を追ってばかりだったのだ。


「なあ、零夜。帰ろう」

 幻影の理仁がまた言った。その声に苛立ちなどは微塵もなく、ただ零夜の記憶にある通りの、聡明で穏やかな理仁の姿がそこにあった。

「駄目だよ、理仁」零夜もまた努めて穏やかに、そう返す。「分かってるだろ」

 また遠くで、ざあと降る雨の音が聞こえた。現実は薄い膜のすぐ向こう側にある。

「ほら、雨が降ってる。理仁、その格好じゃ濡れるだろ」

 幻影の理仁が空を見上げた。

「雨なんて、降ってないじゃないか」「いや、降ってるよ」

 まぼろしの理仁のまぼろしの言葉を、零夜ははっきりと否定した。

「雨が降ってる。まだやみそうにないよ、理仁」


 ざあ。

 その瞬間、何の前触れもなく唐突に幻は消え去った。いっそう強くなった雨が、零夜のマントを痛いほどに叩く。霧はいつのまにか消え去り、しかし豪雨のために相変わらず視界は悪い。

「理仁、ごめんな」

 幻影の親友に小さく謝罪して、零夜は同様に呆然と立ち尽くしている連れたちの目をさましにかかった。



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