水毒の村
ようやく雨が上がったのは、もうすぐ昼になろうかというころだった。それでもやはり青空は見えず、またいつ降り出してもおかしくない空模様が気持ちまで落ち込ませる。
「妙な笑い声が聞こえた、ねえ」
零夜の話を聞き、天幕を畳みながらキヤが言う。
「そんなに気になるのか」
「うん。嫌な予感がしたというか、なんていうのかな……悪意がある、ように感じた」
「だがその悪意が俺たちに向かってないんなら、さっさと逃げたほうがいいんじゃないのか」
「俺たちに向かってないから気になるんだ。手近にいたはずの俺たちを無視して、低地の方に向かっていった。あっちの方だ」
零夜の指差す先を見たキヤは、「ああ」と腑に落ちたように呟いた。
「もう『獲物』が決まってたのか」
キヤの言葉に、零夜が頷く。「行ってみよう。悪いことが起きてるかもしれない」
遠く低地に認めた小さな集落。笑い声の流れていったその先に身を寄せ合う家々に向かい、一行は荷を背負った。
踏みしめるたびに大量の水を吐き出す地面に、足元はすっかり泥に粘ついていた。あちこちにできた水たまりが、大地の保水力が限界にきていることを物語っている。しかしキヤは、いくら大雨が降ったとはいえ、この辺りがここまで水はけの悪い土地とは思えないと首をかしげる。
「植生的に考えておかしいんだ。水はけの悪いところならもっと、湿地に近い植物が生えるはずなんだがな……」
零夜は異世界の植物には詳しくなかったが、この停滞した水たちがおかしいことには気が付いていた。ざわざわと、気配がする。声こそ聞こえないものの、この辺りにあの「笑い声たち」がいる。
トケイグルマの花弁が丸く大きく変化し、正午を二時間ほど過ぎたことを示す。ようやく目的の集落に辿り着き、零夜は自分の予感が正しかったことを悟る。
大人の男たちは桶を手に、慌ただしく走り回っている。どの家も、入り口には土嚢が積まれ、窓はぴったりと閉じてある。一体何事かと、村の手前で立ち尽くす零夜たちの姿を見付けた男が一人、水をいっぱいにたたえた桶を持ったまま駆け寄ってくる。
「旅の人か。頼む、知恵を貸してくれ!」
集落で最も立派な家。三人が通された部屋は、やはり窓がしっかりと閉じられ薄暗かった。
その奥に寝かされた子供――村長の一人息子は、ひどくうなされていた。顔や手足は風船のようにむくみ、圧迫された気道からひゅうひゅうと喘鳴が漏れている。
「典型的な、ミトラ性の水毒症だわ」
子供の首に手を添え、ティエラが言う。
「アランジャの子も時々
「出しても出しても、また戻ってくるんです」
村長婦人は、やつれた顔を歪めて言う。「あれを見てください」
窓際に並ぶ桶を指す。桶に満たされた水が、ロウソクの光を受けてちらちらと輝いている。
「あの水は全て、この子に駆除薬を飲ませて『出した』ものです。でも、いくら出しても、どこからか戻ってきて、またこの子の中に溜まってしまうんです。ああ!」
婦人は悲痛な声を上げ、子供に覆いかぶさった。「また! 水が戻ってきた!」
ぴちょん、と不吉な水音を聞いた。零夜はその音のした方、天井へと視線を向ける。まるでそこに子供が寝ていることを知っているかのように、ベッドの真上の天井が雨を漏っていた。いや、それは本当に雨漏りだろうか?
(だって今、雨は降っていない……)
ぴちょん、ぴちょん、ぴちょん。雫は一定のリズムで垂れ落ち、子供にかぶさった婦人の背中を濡らす。
「もうやめて! この子が死んでしまう!」
「レイヤ、この子を違う部屋に移動させよう。どこか、まだ水の漏っていないところへ……」
泣き崩れる婦人を押しのけて、キヤが子供を抱えあげる。手を貸そうとした零夜の足元で、ぴちゃりと水が鳴った。いつの間に、一体どこから浸水したのか、床にはいくつも水たまりができている。
零夜もキヤも絶句し、立ち尽くした。確かに村の周囲は水はけが悪くはあったが、床上まで浸水するほどの水位はなかったはずだ。急に水が溢れたのだろうか? そう思い、廊下を確認する。しかし玄関や廊下は水に濡れた形跡はない。この部屋だけが浸水している。
「……この子を狙ってきてるんだ」婦人の肩を抱き支えながら、ティエラが言った。「きっと、どこに逃げても、この水は……」
しんと静まり返った部屋に、水滴の垂れる音だけが不気味にリズムを刻む。その静寂を破ったのは村長婦人だった。肩を支えるティエラの手を払い、ふらつきながらキヤの元へ向かう。
「……子供を」
短く言い放ったその声には妙な気迫があり、キヤは戸惑いながらも抱えていた子を婦人へ渡す。水にむくんだ子供の身体はずしりと重く、婦人はよろけながらもしっかりと子を抱きかかえる。
「どこへ行っても逃げられないなら、こうしてずっと抱っこしていればいいのよ」
「ずっと抱いてるなんて、そりゃ無茶だ。取り敢えず別の部屋に……」
「うるさいっ!」
婦人は金切り声をあげ、キヤの手を払う。
「触らないで! 私の子よ。誰にも渡すもんですか……ああ、大丈夫よ、坊や」一転して優しい声音で、婦人は汗で額に貼り付いた、子供の髪をかきあげる。「私の坊や……母さんが守ってあげるからね」
薄っすらとした狂気をはらんだその言葉に、零夜たちは黙って顔を見合わせた。
「妻は寝かせました。あれも疲れていたのでしょう。お騒がせして申し訳ない。しかしこのままでは……」
「子供だけでなく、そのうち大人も弱って水にやられ始めるでしょうね」
キヤの容赦のない言葉に、村長はうつむく。
「なにか良い策はないものでしょうか。戸を塞いでも窓を塞いでも、あの水はどこからともなく染み出してくるのです。あの水さえ防げたら……」
辺境の村にとって旅人は、狭い村の外から珍しい品物や情報や知恵を持ち込む、一種の恩恵とされる。今まさにその役割を期待されているのだと分かっていながら、しかし一切打つ手がないというのはもどかしいものだった。
「どう思う、レイヤ」
廊下から窓の外を睨みながら、キヤが尋ねる。
「どう思うも何も……」
零夜は爪先で、水に満たされた桶を軽く突いた。水は波打ち、同時にかすかなささやき声が、零夜の耳にだけ届く。
「この水、みんなミトラだ。水の中にミトラがいるとかじゃなくて、この水そのものがミトラなんだ」
廊下にしゃがみ込み、水桶に顔を近付ける。声は小さく、まともな言葉としては聞き取ることができない。
「なあ、お前たちどこから来たんだ?」
返事はない。ただ葉擦れのような含み笑いが不快に響く。水のミトラは、零夜と話す気などさらさらないらしい。
「なにか分かりましたか」
村の寄り合いから戻ったらしい村長が顔を出し、零夜は慌てて立ち上がった。ミトラと話せる力は便利ではあるが、人間には気味悪がられることの方が多い。余計ないざこざを避けるためにも、普通であるふりは欠かせない。
「いえ、すみません。今のところ何も……」
寄り合いでも何の策も出なかったのだろう。村長はすっかり気落ちして、零夜たちに並んで窓から外へと視線を投げる。空はまだ重たい灰色に覆われており、陰鬱な雨雲が低く垂れ下がっている。どこかで遠雷が鳴る。今夜もまた雨だろう。
「何ということだ。まるで死の沼が溢れたようだ」
「死の沼?」
村長の言葉に、零夜が反応する。「そんなものがあるんですか?」
「いえ、おとぎ話ですよ」子供じみた発言を恥じるように、村長はばつが悪そうに言う。「死者の国から湧き出す沼の水に触れると病にかかり、ほどなく死んでしまうんです。勇敢な若者がそれを塞ぎに行くという、そういう話があるんですよ。この水は、まるでその沼の水のようだと思って……」
零夜はじっと考え込む。死の沼。それを塞ぐ英雄の話。語り継がれるおとぎ話は、人々の夢想や想像の結実であり、脚色された史実であり、教訓や戒めを内包した事実でもある……。
「あの、その話、聞かせてくれませんか」
零夜の言葉に、村長は困惑したように「子供に聞かせるようなおとぎ話ですよ」と言う。しかしそれこそを、零夜は欲していた。
しつこくせがまれ、村長は戸惑いつつも話しはじめる。村の子供たちならみな知っている英雄譚。『玉虫の
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