『チルミト谷の伝説』


 チルミトの谷という難所がある。どんな猛者でも足を踏み外し、ひとたび落ちれば二度と這い上がってはこられない。そこには大食らいのウーガと呼ばれる、人を食う悪いミトラが住んでいた。ウーガは難所を渡る人間に、死のまじないをかけるのである。

 チルミトの先には良い狩場があった。しかし人々は、ウーガのためにそこに辿り着けずにいた。


 ある年、たくさんの雨が降った。次の日も、その次の日も雨が降り、山にも川にも水が溢れた。草木は溺れ、腐って死んだ。草木を食む生きものも、それを食らう生きものもみな死んでいった。人々もまた飢えに苦しんだ。

 その日も滝のような雨が降っていた。ウーガが大きな身体をぶるりと震わせて、谷底から姿を現した。


「やい、臆病な人間め。この雨はおれのまじないだ。お前たちは俺を恐ろしがって、ちいともチルミトを通りやしない。おかげでおれは腹ぺこだ。

 やい、腰抜け、腑抜けめ。おれは腹が減ったんだ。若い娘が食べたいんだ。村の生娘きむすめをおれによこせ。さもなければ、もっとどか雨を降らせてやるぞ。お前たちの村が腐り果てるまで!」


 弱った大人たちは話し合った。いったい誰の娘を、あの恐ろしい怪物の腹におさめよう? 

 ウーガを倒そうと言い出すものは、誰ひとりとしていなかった。大人たちはみな、ウーガの言うとおり、すっかり臆病者になってしまったのだ。

 三日三晩話し合い、とうとう粉挽きの娘が送り出されることになった。身寄りのない、貧しい娘である。娘には想い人があった。村でいちばん腕の立つ、金細工師の青年である。青年もまた、娘を愛していた。

 青年は、たくさんの金細工を娘に与えた。髪を、胸を、腕を、身体を、美しい金細工で飾った娘は、大地の精のようだった。


 チルミトの谷で、ウーガは待っていた。

「まだ来ないのか、おれの花嫁はまだ来ないのか。もっと雨を降らせるぞ。山を崩し、谷を削り、村を川底に沈めてやるぞ!」

 そこへ娘が現れた。美しい金細工を身にまとった、美しい娘である。さしものウーガも暴れるのをやめ、その姿をじっと見つめた。

「なんと美しい。これがおれの花嫁か。気に入った、頭からばりばり食べてやるぞ」

「いけませんわ、だんなさま」大きく口を開けたウーガを、娘がたしなめた。「わたくしの髪をご覧になって。あなたのお口に、金のかんざしが刺さってしまうわ」

 娘の髪には、それはそれは美しい、金細工のかんざしが輝いている。

「それはいけない。そのかんざしをよこすがいい。なんと美しい細工だろう」

 ウーガは金のかんざしを、自分のものにしてしまった。


「さあ今度こそ。頭からばりばり食べてやるぞ」

「いけませんわ、だんなさま」再び、娘がたしなめた。「わたくしの胸をご覧になって。あなたの喉に、金の首飾りがつまってしまうわ」

 娘の胸には、それはそれは美しい、金細工の首飾りが輝いている。

「それはいけない。その首飾りをよこすがいい。なんと美しい細工だろう」

 ウーガは金の首飾りも、自分のものにしてしまった。


 そして娘は次々と、金細工をウーガに渡した。ウーガは美しいたからものを手に入れて、すっかり喜んだ。娘は、もうひとつも金細工を持っていなかった。

「さあ、これで全部か。それではおまえを食べてやろう。おれは腹が減っているんだ!」

 ウーガが娘に食らいつこうとしたとき、金細工師の青年が現れた。こっそり村を抜け出して、娘のあとをつけてきたのだ。

「金細工ならまだあるぞ。すべておまえにくれてやる!」

 青年は雄叫びと共に、ウーガの胸に金の短剣を突き立てた。美しい細工の施された、美しい短剣である。ウーガは怒り狂い、青年をぺろりと丸呑みにした。


 しかし青年は、腹の中からもウーガに抗った。青年がウーガに短剣を突き立てるたび、娘がウーガに与えた金細工たちもウーガをさいなんだ。

 金のかんざしは、ウーガの両目を貫いた。金の首飾りは、ウーガの首を強く締め上げた。その苦しみに身を悶えさせながら、ウーガは青年を飲み込んだまま、崖の底へと真っ逆さまに落ちていった。そして二度と這い上がっては来なかった。


 やがて雨は止み、草木も動物も村の人々も、生気を取り戻した。村の大人たちは自らの不甲斐なさを恥じ、細工師の青年の勇気をたたえた。娘は生涯の愛を青年に約束し、白く美しい花をチルミトの谷に捧げ続けた。


 大雨の日に谷底から聞こえる恐ろしげな音は、暴れるウーガと青年が争っている声である。青年は今なお村を、愛する娘を守っているのだ。

 崖の上には、一年を通して真っ白な花が咲き乱れている。娘が青年を忘れることは決してない。風が吹けば輝く金粉を飛ばすその花は、娘の名をとってゾラタという。


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