【30】恐怖の鬼ごっこ

 ゆっくりと空を流れる雲が星々を覆い隠している。今夜は暗い。一日の大半は雨だった。この空模様だと、もう一雨降りそうだ。


 ジャングルにいる三人は、樹木にもたれて大地に腰を下ろしていた。スマートフォンの画面の光を懐中電灯の代わりにして周囲を照らしていた明彦は、時間を確認した。


 <8月1日 火曜日 20:35>


 あと二十五分で約束の時間だ。きょうも嫌と言うほど歩いた。現実世界に戻ってもハイキングは一生したくない。どうせ、あすも歩くんだ。浜辺は遠い。


 (綾香と健は大丈夫だろうか? 結菜も心配だ。てっとり早くみんなを元に戻せる方法があればいいのに……)


 明彦は類に目をやった。膝を抱えて肩を揺らして、落ち着かない様子だ。また狂い始めたのだろうか。


 「どうした?」


 類は答える。

 「俺……理沙のところに行きたいな」


 明彦と純希は同じことを思う。

 (理沙に逢いたかったからそわそわしていたのか)


 時間まで少し早い。ここに座っているのも校内に行くのも同じだ。むしろ学校のほうが落ち着くので、明彦は純希にも訊いた。 

 「どうする?」


 純希はうなずく。

 「いいよ。行こうぜ」


 類は嬉しそうに言った。

 「よし、じゃあ決まり!」


 三人は、倉庫に意識を集中させた。一瞬にして倉庫に移動した三人は、鏡に目をやった。明彦と純希の目に衰弱した理沙が映った。十六時に見たときよりも辛そうだ。それに室温も異様に高く、息苦しささえ感じさせる。だがそれも一瞬のできごとだ。まばたきをするといつもの理沙の姿に戻っている。それに室内も適温だ。


 類は、理沙に笑みを浮かべて到着を知らせていた。

 《来たよ》


 嬉しそうに微笑む理沙は、いましがた見えた衰弱した様子とは無縁の明るい表情だ。

 「またみんなに黙ってここに来たの? 怒られちゃうよ」


 約束の時間より二十五分も早い到着にかんちがいした理沙に類は慌てた。ふたりに目をやり誤魔化そうとした。

 「黙って来るはずないじゃん。何言ってんだよ、理沙のやつ」


 ときどき場を離れる理由は理沙に逢うためだったのか、と理解したふたりは顔を見合わせた。

 

 (やっぱりな……)

 

 類は、気まずそうな表情で鏡に息を吐きかけた。

 《ふたりもいる》


 「あ、ごめん」と、理沙は慌てて口元を手で押さえた。


 理沙を見て、明彦と純希は思う。

 

 愛嬌のある仕草はいつもと変わらないのに、どうして衰弱して見えるのだろうか? 現実世界の理沙は本当に元気なんだろうか? 


 理沙の体が心配だ。


 そして……綾香と健のことも心配だ。


 自分たちと合流してから囁きに関することをみんなに打ち明けるべきだと考えていたが、ふたりに伝えたわけではない。


 もし、ふたりがみんなに打ち明けていたら……。


 そして、そのあと険悪になれば、ジャングルのどこかに身を隠すはずだ。絶対にここには現れないだろう。


 「なぁ、類」明彦が話しかけた。「俺ら適当にやってるから、お前は理沙と遊んでろよ」


 類は目を輝かせた。

 「え? いいの?」


 「うん」


 類は嬉しそうに言った。

 「みんなが来るまでしばらく遊んでよっと」


 明彦は、純希に小声で言った。

 「教室」


 純希はうなずく。

 「わかった」


 意識を集中させたふたりは、教室へワープした。都会のネオンの光に照らされた仄暗い教室に、綾香と健がいた。


 綾香と健はふたりに駆け寄った。そして綾香が言った。

 「来てくれると思った」


 明彦が訊く。

 「いつからここに?」


 綾香は答えた。

 「一時間くらい前かな」


 明彦は訊く。

 「ここにいるってことは、穏便にいかなかったってことだよな?」


 綾香は言った。

 「斗真なんか流木を持って大暴れ」


 明彦は深刻な表情を浮かべた。

 「囁きを伝えた瞬間、リアルな鬼ごっこが始まったってオチか……。類も重症だけど斗真もヤバいな」

 

 健が言う。

 「ヤバいどころじゃない。ガチでイカれてるよ。綾香がまともで本当によかった」


 綾香も言う。

 「あの状況でひとりは辛い。あたしも健がまともでよかったよ」


 明彦はふたりに肝心な質問をした。

 「肉体は大丈夫なのか?」


 綾香は言う。

 「それなら大丈夫よ。すごい場所を見つけたの」


 目を見開く明彦。

 「すごい場所?」


 綾香は教える。

 「ジャングルで洞窟を発見したの。あたしたちもびっくりしちゃった」


 ふたりは驚いた。そして明彦が言った。

 「そんな場所があったんだ。てことは、肉体の心配はないな」


 綾香はうなずいた。

 「うん。大丈夫だよ」


 純希が綾香に訊く。

 「その洞窟はどの辺にあったの?」


 綾香は教える。

 「浜辺を目指して歩いた道からけっこう離れた場所だよ。みんなが正気に戻ったら洞窟に移動しようかって、健と話してたの」


 ふたりがよい場所を見つけてくれたので純希は安心した。

 「それはいい考えだね。だったらここでみんなを説得しようぜ。武器になるものを見つけたとしても、俺たちには拾い上げることすらできないんだ。ジャングルに戻ってから勝負するより、よっぽど安全だ」


 純希の意見に明彦が首を傾げる。

 「いや……綾香たちは安全かもしれないけど、俺たちは類と同じ場所で眠ったんだ。いい考えとは言えないよ」


 純希は言う。

 「類から目を離さなきゃいいじゃん」

 

 「その必要はない」と、後方から類の声が聞こえたのと同時に、教室に一同が現れた。


 刺すような視線でこちらを睨んでいる。


 全員が別人のようだ。


 カラクリの答えの何に対して怯えているのか……明彦たちの記憶には残っていない。


 ひとつのキーワードに繋がっているカラクリの答えを知りたい。


 なぜ、そんなにも怯える必要がある? カラクリの答えは、自分たちの想像を超えるほど恐ろしいものなのだろうか……。


 斗真が言った。

 「カラクリは解かせない!」


 類も声を張った。

 「鏡の世界に一生いるべきなんだ!」


 理沙のためにも正気に戻ってほしい。類にとって最も大切なことを健が問いかける。

 「リアルな理沙に逢いたくないのかよ!」


 いましがた声を荒立てた類は、健の言葉でうつむいた。そして、静かな口調で言った。

 「理沙といたいから鏡の世界に留まりたいんだ……」


 なぜだかわからないが、健には類が悲しそうに見えた。

 

 (鏡の世界だと触れ合えない。それなのに、どうして?)


 「みんな!」必死な表情の綾香は、囁きに支配されている全員に向かって声を張り上げた。「お願いだよ、正気に戻って!」


 純希も声を張り上げた。

 「囁きに負けちゃ駄目だ!」


 明彦は、結菜に目をやった。まるで催眠術にでもかかっているかのように、目を見開き、こちらを凝視している。

 「結菜……」


 明彦に顔を向けた健が、廊下に目をやり合図する。

 (教室から出るぞ)


 視線に気づいた明彦はうなずく。

 (ここから逃げないとな……)


 綾香と純希も、教室から廊下にワープするんだな、と理解した。四人は意識を集中させ、火災報知機の赤ランプの光が目立つ廊下へワープした。


 赤は血の色だ。赤ランプを見たくなかった綾香は、水飲み場の鏡に目をやった。当然、自分たちの姿は映っていない。美容面ではものぐさだが、五日も自分の顔を見ずに過ごしたのは初めてだ。頬に触れた綾香は、鏡から廊下に視線を戻して、三人とともに全力疾走した。


 廊下にワープした一同も、すぐに追ってきた。単独で逃げるよりも、四人一緒のほうがよいだろうと判断した明彦が、小声で「理科室」と指示を出した。


 類が四人に向かって声を張った。

 「待て! 絶対にどこにも逃がさない!」

 

 純希は後方を振り返り、類に言い返した。

 「狂いやがって! 上等だ! クソ野郎!」


 健が純希に顔を向けた。

 「ガキかお前は。挑発してどうするんだよ」


 純希は言った。

 「だって、あんなの類じゃない!」


 「でも類だ」明彦が合図を出す。「ワープするぞ」


 四人は瞬時に理科室にワープした。校内にはたくさん教室があるので、しばらくは見つからないはずだ。だが、このまま鬼ごっこを続けるわけにもいかない。一同を正気に戻す方法を考えなくてはならない。しかし、完全に囁きに支配されているため、簡単にはいかないだろう。


 重苦しいため息をついた健は、理科室の象徴に目をやった。

 「人体模型って気持ち悪いよな」


 明彦は言う。

 「人間なんか肉を引き剥がせば骨と内臓だ」


 顔を強張らせる健。

 「状況がヤバいのに物騒なこと言うなよ」


 明彦は言う。

 「だって本当にそうだから」


 純希は言った。

 「あいつらが来るまでとりあえずここにいよう」


 真剣な面持ちの綾香は言った。

 「それまでになんかいい手段を考えないとね」


 「なんかいい手段といっても……」純希は明彦に目をやった。「どうよ、なんでも博士」


 明彦は提案した。

 「島にいるときとちがって、ヤバくなったらいつでもワープできるんだし、少し荒っぽくいってみる?」


 「荒っぽいのは得意だよ」純希は訊く。「それで? ヤバくなったときはどこにワープすればいい?」


 明彦は答える。

 「音楽室でどう?」


 純希はうなずいた。

 「わかった」


 綾香は床に腰を下ろした。

 「それにしても……疲れた……。仲間に襲われるだなんて考えもしなかった」


 三人も床に腰を下ろした。そして、健が返事した。

 「俺も疲れたよ」


 「きょうはずっと歩くか走るかの繰り返しだよね」と言ったあと、綾香は申し訳なさそうに明彦と純希に言った。「あ、ごめん。ふたりのほうが歩いてるよね」


 明彦は言った。

 「一生分、歩いたかもな」


 純希は苦笑いする。

 「たしかに、一生分、歩いたな」


 明彦は、床に転がっているボールペンに腕を伸ばした。拾い上げようとしたが、やはり動かすことすらできない。鏡と学校に閉じ込められた世界にいるのだ。ここの物質は動かせない。


 (どうして俺たちはこんなことに……。『ネバーランド 海外』は俺たちに何をさせたいんだ……)


 考えなければならない謎が山積みだ。


 生体の命を守る不思議な力によって硬質に感じられた生物。


 出航日から日付が変更されないスマートフォンの表示が表すのは、十七歳のまま止まった十三人の年齢。


 鏡の世界への意識の移動。


 旅客機の墜落現場にある明確な答え。


 そして突然のできごとが三つ―――由香里の失踪、乗客の幽霊の出没、頭の中に響く囁き声と恐怖心と不安感―――


 理沙が衰弱して見えるのと同じように、コップと容器にも何かが描かれているはずだ。浜辺に到着したらすぐに確認してみよう。


 「由香里は容器とコップに何を見たんだろう……」明彦と同じことを考えていた綾香が疑問を言った。「何度も繰り返し見たけど、発見時と変わらないんだよね。かなりの取り乱しようだったから、想像を絶する何かを見たんだろうけど……」


 明彦は最大の謎を考える。

 「それは、墜落現場で答えを説明されても、小夜子の目に答えが映らなかったのと同じだ。だとしたら、いまの俺たちが墜落現場に到着しても答えは目に映らない……」


 純希が言った。

 「とりあえず、浜辺に戻ったらすぐにコップと容器を確認してみよう」


 明彦は言う。

 「そうだな」


 健がぽつりと言った。

 「そして……答えに気づいた由香里は消えたまま……」


 不安げな表情を浮かべた純希は、健に言った。

 「でもさぁ、答えに気づいたからといって、いきなり失踪する理由がわからないよ。マジで幽霊に連れて逝かれたわけじゃないよな?」


 健は言った。

 「そんなこと簡単に言うなよ」


 綾香も言った。

 「そうだよ、それだけは絶対に嫌だ。あたしもみんなでゲートを通りたい。そして一緒に新学期を迎える、必ずね」


 当然、純希もハッピーエンドを望んでいる。すべてを不安に感じてしまうのは、この状況のせいだ。

 「もちろん俺だってそう思ってるよ」


 そのとき―――男女に別れて四人を探していた、結菜、道子、恵、美紅が現れた。しばらく見つからないだろうと考えていたのだが、予想以上に早く見つかってしまった。四人は腰を上げた。


 囁きに支配された一同が一斉に理科室に現れた場合、太刀打ちできなければ音楽室にワープする予定だった。しかし、男子と別行動だったので不幸中の幸いだと思った。女子だけなら荒っぽい手段を用いる必要はなさそうだ。


 「結菜!」明彦は結菜に訊いた。「何に怯えているんだ?」


 身震いする結菜は、切羽詰まった表情を浮かべて言った。

 「明彦……カラクリは解かせない……」


 明彦は結菜を説得しようとした。早く正気を取り戻してほしい。

 「解かなきゃ現実世界には帰れないんだ! 新学期を迎えたいんじゃないのか! 結菜、しっかりしろ!」

 

 顔色を変える結菜。

 「うるさい!」


 綾香も四人に訊く。

 「カラクリの答えに気づいているなら教えて!」


 道子が言った。

 「駄目……解いては駄目……後悔するから……」


 綾香もみんなに正気に戻ってもらうために必死だ。

 「後悔なんかしない! あたしはさっさとあの島から出たいの! 道子だってそうでしょ!」


 目に涙を浮かべた道子。

 「あの島から出ちゃ駄目なの……綾香ならわかるでしょ?」


 綾香は語気を強めて訊く。

 「わからない! 理由を言って!」


 道子は唇を結ぶ。

 「理由は……」


 純希の心にゲートに対する不安要素はない。

 「最初はみんなカラクリを解くのに必死だった。それがどうして? きっともうすぐヒントを得られるはずだ。俺は現実世界に帰りたい! お前らだって最初はそうだったじゃん。いきなりわけわかんないよ!」


 健も説得しようとした。

 「お前たちには将来の夢がある! その夢はここでは叶わないんだ! 現実世界に戻らないと叶わないんだよ! 永遠に島にいたいだなんて本心なわけないよ!」


 道子と結菜は床にうずくまった。頭の中に囁き声が響いた直後、怯えて涙を流した。


 ゲートを通ってはならない―――


 島にいるべきだ―――


 鏡の世界にいなければ自分の存在が消滅する―――


 「怖い……嫌だ……」道子が震える。「このままでいい……」


 「絶対、嫌だ……」結菜も身震いする。「ここにいたほうがいいの……」


 綾香が声を張った。

 「あたしはここにいたくないの! 答えて! 道子! 結菜!」


 「うるさい! 黙れ!」恵と美紅が、こちらに向かって突進してきた。「絶対に解かせない!」

 

 純希と健が恵を押さえつけ、綾香と明彦が美紅を押さえつけた。暴れようとする恵と美紅を雁字搦めにした。床にねじ伏せられたふたりは、眼球が飛び出しそうなほど双眸を見開かせ、鼻息を荒くしている。興奮状態のふたりを落ち着かせようとしたとき、道子が綾香の髪の毛を鷲掴みにしてきた。


 「やめて!」綾香は道子を引き離そうとした。「痛い!」


 「言うことを聞きなさいよ! 解くなって言ってるの!」


 純希が道子の腹部に腕を回して組みつき、自分に引き寄せた。

 「道子! 囁きに負けるな!」


 道子は発狂した。

 「助けてぇ! 怖い!」


 純希は恐怖心の理由を訊く。

 「何が怖いんだよ!」


 道子は必死に抵抗する。

 「答えたくない! 言いたくない!」


 『ネバーランド 海外』の結末が見えているのだろうか。取り乱す道子に答えを訊いても教えてはくれないだろう。

 「俺はここにいるほうがよっぽど怖いよ……」

 (どうすればいいんだよ?)


 怯えてうずくまる美紅から離れた明彦が、身震いしている結菜の肩を抱きしめた。「大丈夫か? しっかりしろ」と懸命に声をかけた。


 明彦の腕の中で震える結菜の頭の中に囁き声が響く。


 カラクリは解いてはならない―――


 自分の存在が消えてしまう―――


 明彦の存在は無視して―――


 自分の身だけを案じて―――


 「うるさい……」結菜は囁き声に抵抗しようとした。明彦や友人を傷つけてまで欲しいと思う幸せなんかない。頭の中に響く囁き声を掻き消そうとした。「黙ってよ……」


 明彦は必死だ。早く正気に戻ってほしい。

 「結菜! 心を強く持て!」


 耐え難い頭痛に頭が割れそうになる。抵抗しようとすればするほど頭痛がひどくなる。だが、次第に囁き声が聞こえなくなっていった。涙を流す結菜は、明彦を見上げた。


 「自分の存在が消滅してしまう……そう囁く声が聞こえていたの」

 

 明彦は囁きに打ち勝った結菜の手を力強く握った。思ったより早く正気に戻ってくれたので安堵する。

 「本来の結菜に戻ってくれてよかった」


 恵と美紅も正気に戻り、号泣した。


 そして、純希の腕の中にいる道子も号泣した。

 「すごく怖かった」


 女子が正気を取り戻したので安心した明彦は、優しい口調で結菜に訊いた。

 「何に対して恐怖を感じていたのか教えてほしい。俺も囁きが聞こえていたときは、ずっと怖かった。でもその理由を覚えてないんだ」

 

 結菜は声を震わせながら説明した。

 「わからない……何に対して恐怖心をいだいていたのか……。とにかくゲートを通り抜けるのが怖かったの。自分たちの体が消滅してしまう、カラクリを解いてはならない、そう囁く声がずっと聞こえていた。それも自分の声だから余計に怖かった」


 「そっか……わかったよ……」明彦は結菜の背中をさすった。これ以上訊いても答えは出ない。「囁き声から抜け出せただけでよかったよ」


 純希が恐る恐る言った。

 「あのさ……ゲートの向こうは現実世界じゃないの?」


 健が恐怖を口にする。

 「自分の体が消滅するって……まさか体がバラバラになるとか言わないよな……」


 明彦が、純希と健に言った。

 「真逆のことを囁いてくるんだ。つまり、ゲートの向こうはまちがいなく現実世界なんだ。そう……向こう側はね……。ゲートの内部に関しては超不安だけど……」


 純希は言った。

 「こんどはスプラッターゲームの開始かと思って焦ったよ。それ以外なら何があっても進んでやるよ」


 幽霊の男の死体を思い出した綾香が、顔を強張らせた。

 「スプラッター……」


 涙を拭った結菜が言った。

 「いままで感じたことのない恐怖で頭がいっぱいになっていた。囁きだけの恐怖じゃない。うまく説明できないけど……それがカラクリの答えに繋がっていると思う」


 明彦は返事する。

 「だろうね……」


 恵が言った。

 「あたしたちは、潜在意識の中でカラクリの答えに気づいているのかもしれない……。ずっと、カラクリの答えに恐怖を感じていたような気がする……」


 結菜は謝った。

 「ごめんね。カラクリを解かれるのが怖かった……。追いかけたりして、ほんと、ごめん」


 道子が綾香に謝った。

 「髪の毛を引っ張りして、あたしもごめんね」


 恵と美紅も声を揃えて謝った。

 「ごめんね……」


 綾香は口元に笑みを浮かべた。

 「いつものみんなに戻ってくれたからもういいよ」


 涙を拭った結菜は、意志の強い眼差しを綾香に向けた。

 「あたしはもう狂ったりしないから大丈夫だよ」


 綾香はうなずく。

 「わかってるよ。信じてる」


 純希が、安堵の笑みを浮かべた。

 「よかったな。女子は一件落着」


 真剣な面持ちの健が純希に言った。

 「女子はな……類と斗真がヤバいんだよ。とくに類を押さえつけるのは容易じゃない。あいつ、かなりの馬鹿力だからな」


 純希は健の肩を軽く叩いた。大丈夫だと言いたい。

 「見ろよ、こっちには人数がいる。なんとかなる」


 健は言った。

 「その言葉を早くあいつの口から聞きたいよ」


 類とともに歩く純希も同感だ。

 「そうだな」


 明彦が言った。

 「たとえゲートの中に恐怖を感じる要素があったとしても、ゲートを通らないと現実世界に戻れないんだ。多少の危険は覚悟のうえだよ。だから類たちにも正気に戻ってもらわないと先に進めない。何がなんでも説得しないとな」


 綾香が言った。

 「飛行機が墜落したときの恐怖に比べたら、囁きなんてどうってことない。いまのあたしなら大丈夫。だから類たちも大丈夫なはずだよ」


 恵が言った。

 「囁きが怖かったからゲートに対して不安はある。それでも、早く現実世界に帰りたい」

 

 「あたしも」綾香は恵の言葉にうなずく。「砂浜の上で寝るのはもう嫌だもん」

 

 恵は言った。

 「ベッドが恋しい」


 綾香は教室の壁時計に目をやった。反転した文字盤の数字は、もう見慣れた。

 「九時四十分か……」

 (朝まで鬼ごっこは続くのかな?)


 明彦が綾香に訊いた。

 「どうする? ここで類たちが来るのを待つ? それとも場所を変える?」


 綾香が答えるよりも先に、道子が人体模型を見ながら言った。

 「場所を変えたい。暗い部屋のあれは……苦手なんだよね」


 明彦は思わず笑ってしまう。

 「島でリアルな心霊体験をしてるのに、人体模型が怖いなんて道子らしい」


 道子は言い返す。

 「明彦とはちがうの」


 純希が明彦に言った。

 「音楽室でいいんじゃない? どうせワープするつもりだったし」


 「そうするか」返事した明彦は、一同に言う。「じゃあ、音楽室にワープだ」


 立ち上がった一同は、意識を集中させて音楽室にワープした。世界に名を馳せる音楽家の肖像画が壁上部に飾られた光景はいつもどおりだ。だが、夜の音楽室に侵入したのは初めてだ。暗がりで肖像画を見ると、ベートーベンの目がいまにも動き出しそうだったので、道子と恵は互いに歩み寄った。


 純希がふたりに顔を向けた。

 「人体模型のつぎは肖像画が怖いとか言うなよ」


 道子は純希に言い返すも図星だ。

 「まさか、小学生じゃあるまいし」


 そのとき、窓際に置かれているピアノが鳴った。誰もいないと思っていた室内に響いた音に驚いた一同は、一斉にそちらへ目をやった。すると、ピアノの周囲に類たちが立っていたのだ。


 類たちから逃れるために音楽室を選択したはずが、まさか鉢合わせするとは誤算だった。鋭い目つきでこちらを睨んでいる四人を正気に戻すための作戦を立てたかった。


 「カラクリを解くな……」類が言う。「消滅したくない……」


 翔太が言った。

 「危険だ……」


 斗真が言う。

 「消滅する……俺たちの世界が消えてしまう……」


 光流が言った。

 「あの島に一生いたほうがいい……いるべきだ……」


 消滅―――結菜たちも同じことを言っていた。類も、自分の体が消滅してしまうことへの恐れをいだいているようだ。


 囁き声が聞こえていたとき、明彦にもゲートに対する恐怖があった。それは体が消滅してしまうほどの恐怖だったろうか……。いまはもう覚えていない。


 「ここだと理沙に触れられない。いいのかよ、それで」明彦は真剣に類に問いかけた。「理沙に逢いたいんだろ?」


 類は唇を結んだ。

 「…………」


 光流が恵に言った。

 「そっちについちゃったの? 俺たちといたほうがいいのに……」


 恵は言い返した。

 「そっちとかこっちとか、みんな友達だよ! 仲間じゃん! あたしもさっきまで囁きに支配されていた。光流、恐怖心を捨てて!」


 「恐怖心を捨てるのは、命を捨てるのと同じ選択だ」


 「命を捨てるって……何言ってるの?」


 「消える……魂が消える……」


 恵もふたたび恐怖に駆られた。そして囁き声が聞こえた。


 魂が消える―――


 カラクリを解いては駄目―――


 ゲートを通ればこの世から消滅する―――


 「いった……」恵は頭痛に耐える。「囁きには負けない……」


 綾香が恵に言った。

 「真逆の考えを囁いてくるの。自分の声だから混乱するけど、相手にしないで」


 恵は言った。

 「わかってる……わかってるけど……」

 (ひどい頭痛と恐怖心に負けそうだよ……)


 翔太が道子に言った。

 「消滅したくないなら俺たちといたほうがいい」


 「絶対に嫌!」道子には臆病な一面もある。だが、基本的には気が強い。「囁きに負けたら別れてやる。本気だよ」

 

 翔太は言った。

 「消滅してしまえば道子の存在も忘れてしまう……」


 「あたしたちは消滅しない。現実世界に帰るんだよ。そして新学期を迎える」翔太に言った道子は、綾香に顔を向けた。「翔太は任せて」


 綾香には道子の考えが読めなかった。

 「う、うん……」

 (何をするつもりなんだろう?)


 道子は、翔太に鋭い視線を向けた。その直後、思いっきり翔太の頬を張った。平手打ちを受けた翔太は、床に膝をついた。


 突然の道子の攻撃に驚いた綾香たちは、翔太の様子を窺う。


 平手打ちで正気に戻ってくれるとよいのだが……。


 そのとき、どこか一点を見つめたまま動かない翔太の頭の中に囁き声が聞こえ始めた。そして、道子の平手打ちの音に反応した斗真と光流も床に倒れ込んだ。


 動じない類は頭痛に悶える三人を見下ろし、命令口調で怒号した。

 「道子に惑わされるな! カラクリを解けば恐ろしい目に遭う! あいつらの言うことなんか無視しろ!」


 綾香が類に訊く。

 「答えに気づいているなら教えて!」


 類は綾香を睨む。

 「答えなんか知らない! 知りたくもない!」


 綾香は声を張った。

 「答えがわからなきゃ、島から出られないんだよ!」


 類は綾香の言葉を拒否した。

 「出なくてもいい!」


 囁きがすべてを混乱させる。なぜ、感情や現状を無視した真逆の言葉を囁いてくるのか。囁きの理由と意味を知りたい。やはりこれは死神の罠なのだろうか?


 翔太、斗真、光流が、頭痛に顔を歪めた。


 カラクリは解くな―――


 恐ろしいことが起きる―――


 魂が消滅するぞ―――


 道子が翔太に呼びかけた。なんとしても翔太を正気に戻さなくてはならない。

 「しっかりして翔太!」


 翔太は脈を打つようなひどい頭痛に苦しむ。

 「頭が……割れそうだ……」


 道子を黙らせろ―――と、囁き声が頭の中に響く。

 

 嫌だ! 道子を傷つけてまでの未来は欲しくない。


 翔太は必死で囁き声に抵抗しようとした。


 (なんなんだよ、この囁きは。なんで自分の声なんだよ? 負けるわけにいかない!)


 頭を押さえながら翔太は言った。

 「囁きに支配されてたまるかよ……俺の心はそんなに弱くない……」


 道子は正気に戻りつつある翔太に言った。

 「頑張って! 翔太は囁きに負けたりしない!」


 翔太は頭を押さえて頭痛に耐える。

 「くっそ……」


 道子は必死だ。

 「大丈夫? しっかりして!」


 「全然、大丈夫じゃない……」翔太は息を切らしながら道子に言った。「引っ叩かれた頬が痛いから……大丈夫じゃない……けっこう重症かも」口元の端に悪戯っぽい笑みを浮かべた。


 ようやくいつもの翔太に戻った。安堵した道子は笑みを浮かべた。

 「二度あることは三度ある。もう一回、ビンタされちゃうかもよ」


 「勘弁してよ」

 

 「そのうち頭痛はしなくなるはずだよ」


 「こんな頭痛、道子のビンタに比べたらたいしたことないよ」


 光流が道子に言った。

 「ビンタの音のおかげで正気に戻れたようなものだから、翔太にはわるいけど感謝してるよ」


 道子は悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。

 「あたしのビンタは強烈だからね」


 光流は、不安げな表情を浮かべている恵に顔を向けた。

 「まだ頭が痛いけど囁き声は消えたよ。俺たちの結束は固いんだ。安心して」


 光流に手を差し出した恵は安心した。

 「よかった……」


 恵の手を握った光流は、ゆっくりと立ち上がった。

 「心配かけてごめん」


 翔太と光流が正気を取り戻したので、明彦たちはひとまず安心した。つぎは類と斗真だ、と周囲を見回した。だが、ふたりの姿が見当たらない。


 翔太と光流に気を取られているうちに、どこかに逃げられてしまったようだ。校内中の教室を探しても、ふたりを見つけた途端にワープされては埒が明かない。


 「どこに行ったんだよ!」明彦は焦燥に駆られた。「目を離さなきゃよかった!」


 結菜が言った。

 「斗真も頭痛に悶えてた。きっと、どこかの教室で囁きと闘ってるはずだよ」


 純希が言った。

 「うまくいけば俺たちがいなくても、斗真ひとりで囁きに打ち勝てるかもしれない」


 健と綾香は顔を見合わせた。ジャングルで追いかけられたとき、斗真は流木を手にしていた。事態がそう都合よく運ぶとは思えない。


 綾香が健に言った。

 「だといいけど、微妙だよね」


 健もうまくいくとは思っていない。

 「斗真のプッツンぶりは半端なかったからな……」


 「そうだ……」道子が言った。「あたしたち、斗真と一緒に眠ったんだ。校内にいるとはかぎらないし、うちらの肉体は大丈夫なんだろうか?」


 恵が、浜辺で待機している一同に言った。

 「いったん戻ったほうがよくない?」


 明彦も懸念する。

 「類がジャングルに戻ってたら俺たちの肉体もヤバい」


 「いまのあいつは類であって類じゃない」純希は青褪める。「何をするかわからない。たしかにヤバい」


 明彦が言った。

 「殺すとまではいかなくても拘束なら可能だ」


 「拘束……紐がなくちゃできないけど……」純希は顔を強張らせる。「でもさ……俺らを土に埋めるのは可能だよな」


 道子は言う。

 「目覚めた瞬間、地面から首だけ出た状態だったら怖いんだけど……」


 純希は道子に言う。

 「冗談だろ? そんな怖いこと言うなよ」


 道子は本気だ。

 「冗談を言ったつもりないよ。ガチで心配しているの」


 光流が不安げに呟く。

 「嫌な予感がする……」


 心配した結菜が、明彦に顔を向けた。

 「いったん肉体に戻ろう!」


 明彦は結菜の意見にうなずく。

 「そうだな。自分たちの体を確認したあと、またここで落ち合おう」


 結菜は返事する。

 「わかった」


 綾香と健は、体を傷つけられる心配がない。


 綾香が一同に言った。

 「あたしたちはここで待ってる」


 結菜は、ジャングルで眠っている綾香と健の無防備な肉体の心配をする。

 「ふたりもいったん戻ったほうがいいよ」


 綾香は説明する。

 「洞窟を見つけたの。そこから意識をここに移動させたから大丈夫だよ」


 結菜は目をぱちくりさせた。

 「洞窟?」


 綾香は言った。

 「ジャングルに戻ったら案内する。それよりもいまは早く肉体に戻ったほうがいい」


 綾香の言うとおりだ。

 「そうだね」


 いまの類と斗真は別人だ。囁きに支配されているので、完全に正気を失っている。一同は自分の身を守るために、肉体に意識を移動させた。




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