【18】人体実験
雨が降りしきる浜辺で待機する一同は、生体の謎を解くための実験を試みようとしていた。海を泳ぐ生魚を捕獲するのは難しいので、土の中から掘り起こした乳白色の幼虫を使うことにした。日本では見たことがない大きさだ。もしかしたら、田舎の山奥になら同等の体長の幼虫が生息しているかもしれないが、都会育ちの一同は驚くばかり。
翔太は、斗真が手のひらに載せた幼虫を見つめた。
「でけぇ……」
健もまじまじと見る。
「くそでけぇ……」
翔太は健の言葉を繰り返す。
「くそがつくほどでけぇ……」
斗真は、見入っているふたりに言った。
「くそでかい幼虫の鑑賞はそれまでにして沈めるぞ」
綾香が親指を下に向けた。
「さっさとやっちゃって」
斗真は、綾香の言葉に顔を強張らせた。
「これが現実世界なら血も涙もない台詞だな」
綾香は斗真に言い返す。
「でもここは現実世界じゃない」
「そうですね、女王様」と適当に返事した斗真は、幼虫を浅瀬にゆっくりと沈めた。
海水に浸かる幼虫は、体を蠢かせたあと静止した。ふつうなら窒息死するはずだ。一同は幼虫の様子を窺う。動かないので死んだのかと思いきや、また体を蠢かせた。
なぜ生きていられるのだろう? と視線を集中させた。目を凝らしてよく見てみると、幼虫は透明の膜に覆われて、命を守られていたのだ。
もし、このまま波打ち際に放置したら、波にさらわれたのち、絶命せずにどこまでも流れていくのだろうか……。
こんどは幼虫を握ってみた。どれだけ力を入れても変形すらしない。この島限定の現象だ。現実世界ではありえないことだ。類が言っていた小夜子が行った実験の話を思い出した斗真は、砂浜に幼虫を置いた。
「そういえば……火の中に魚を放り投げても、海水に覆われて生きていたって言ってたよな?」
綾香は言った。
「うん。さまざまな生体に適した環境で生命を保護しているみたい」
光流が言った。
「すべての生体は守られているってことなのかな?」
翔太が言った。
「試してみようぜ」
光流は翔太に訊く。
「どうやって? 無理だろ、そんなの」
斗真も翔太に言った。
「試しようがない」
そして道子も翔太に言った。
「誰かが犠牲にならないとできない実験だってわかってるでしょ? 危険なことはしたくないし、してほしくない」
健が言った。
「試せる方法があれば試してみたいけど、俺も道子と同じ意見だ」
結菜が言った。
「みんなの命を危険にさらすわけにはいかないよ」
全員に反対された翔太は、どのような実験をするのか説明する。
「そこまで危険じゃない。海に潜って息を止める。俺たちが守られているなら、幼虫みたいに守られるはずだ。生き残った者と死んだ者とのちがいを確かめたい。それに俺は、どう考えても十三人全員がゲームの駒だから助かったとしか思えないんだ」
晴れてさえいれば全員が賛成するだろう。しかし、天気が悪く、海も荒れている。もし、高波に足を取られしまったら溺れてしまう。何が起きるのか予測できないからこそ、危険を伴う行動は避けたい。
道子が翔太を引き止めようとした。
「やめときなよ、危ないよ」
光流も言った。
「俺も反対」
恵も言う。
「そうだよ。雨が上がってからでいいじゃん」
斗真や健も反対した。そして健が言う。
「俺もそう思う。わざわざ危険を冒さなくても……マジで死神に足を引っ張られそう」
翔太は、力強い眼差しを一同に向けた。
「俺はいますぐ試したい。俺の体が不思議な力に守られているなら、この目で確かめてみたいんだ。それに類たちは、危険を覚悟で墜落現場に向かってる。俺らだって何かしないと」
俺たちの体に何が起きたのかを知りたい―――それを突き止めて、彼らに伝えたい―――
あえていますぐ実験を行う必要がないと考える一同とは対照的な翔太は、日常生活では無茶はしないほうだ。
類たち三人は豪雨にさらされながら小型金庫を探しているというのに、自分たちにはカラクリについて話し合うことしかできないもどかしさを感じていた。
初日に旅客機の墜落現場に戻ってくれたのも類と明彦だ。苦労を押しつけているようで嫌だった。いまこそ自分にできることがしたい。
倉庫に集まる時間までにカラクリを解く糸口を探して、どうしても類たちに伝えたい。島の生体のように、自分たちの体も不死なのかを知る必要がある。
「大丈夫、心配しないで」と、反対する一同に言った翔太は、荒れた海へ向かって駆け出した。こんなにも単純に確かめられる方法があったというのに、いままで思いつかなかったとは馬鹿みたいだ。そう考えると居ても立ってもいられなかったのだ。
「危ないからやめて!」と、道子が翔太を引き止めようとした。
しかし、聞き入れることなく海へ入っていく。翔太をひとりで行かせるわけにはいかない、と光流があとを追った。臆病な性格の光流では頼りがいがないと考えた斗真が足を踏み出したとき、恵がふたりを止めた。
「あいつ、中学時代は水泳部だったんだ。だからここにいる誰よりも泳ぎが得意なの。へたに斗真たちが行っても溺れちゃうだけ。心配だけど光流に任せよう」
斗真が言った。
「水泳部? それは知らなかった」
十三人が通学する高校に水泳の授業はない。光流の特技を初めて知った。それでも海とプールでは環境が異なるため、気が気ではない。
不安げな表情を浮かべる一同の視線の先に、高波が押し寄せる海へ入っていく翔太と光流の後ろ姿が見える。
小さくなりゆく翔太の背を見つめながら道子は呟く。
「ほんと……ありえない……」
斗真が道子に訊く。
「もしかして別れたくなっちゃったとか?」
ため息をついて答えた。
「かもね」
訊かなければよかったと後悔する。
「マジか……」
ふたりの後ろ姿を見つめる恵が、祈るような気持ちで言った。
「光流、翔太……気をつけて」
心配する一同の視線を感じたが、振り返ることなく波を掻き分けて前進する。翔太は進行方向に顔を向けたまま、後方にいる光流に言った。
「溺れたら困るし、泳ぎは得意なほうだから俺ひとりで大丈夫だ」
「元水泳部をなめるな」
光流の意外な返事に驚く。
「そうだったの? だったら心強い」
荒波に負けじと歩を進め、胸の位置まで水位が達したとき、息を止めて潜水した。ゆっくりと目を開けて、自分たちの体に視線を這わせた。だが、守られている様子もなく、息も苦しい。
(やっぱり……俺たちは守られていないのか? だったらなぜ、大破した機体の中で生きていられたのか。ほかの乗客はみんな死んだのに、俺たちだけが生きていた。それも無傷で。あまりにも不自然すぎる……)
水中で互いに目を合わせたふたりは同時に浮上して、息を切らした。そして光流が言った。
「俺たちは守られてないみたいだ。みんなが心配してるから戻ろう」
翔太は真剣な面持ちを光流に向けた。
「戻る? もう? 俺たちはまちがいなく墜落の瞬間は守られていた。そうじゃないと生きてるはずがない」
「だけど、いまの見ただろ? 幼虫みたいに生命を守るための不思議な力に守られることはない」
「それは命の危機を感じていないからだ」
「どういう意味だよ?」
「墜落した機体の中で俺たちは命の危機を感じていた。いまの俺らはどうだ? 命の危機を感じているか? いないよな?」
「ほかの乗客だって泣き叫んでいた。彼らも命の危機を感じていた。俺たちだけじゃない」
「それは俺たちが『ネバーランド 海外』のゲームに必要な駒だからだ」覚悟を決めた。「命の危機を感じるまで溺れないとわからないかもな」
「馬鹿なこと言うなよ。小夜子は殺人を犯したから鏡の世界に幽閉されたって類が言ってたじゃん。それって命の保証はないってことだよ。なるべくなら危険は避けたほうがいい」
「俺ひとりでかまわない」
翔太はふたたび泳ぎ始めた。本気で溺れるつもりなのかと焦った光流も、慌ててあとを追う。穏やかな波の日に遊泳する海水浴場とはちがう。自分たちの命が守られている保証はないのだ。
(あいつ、何考えてるんだよ!)
光流も必死に泳いだ。沖を目指す翔太を追うのは容易ではない。進めば進むほど水位が深くなり、やがて海底に足がつかなくなった。
息が苦しくなり浮上した翔太が、目の前に迫った波に呑み込まれ、思わず息を吸ってしまった。鼻孔に入った海水が沁みて痛い。溺れた翔太は、いましがた自分で言った命の危機に直面する。
慌てた光流は、咄嗟に翔太を引き寄せた。これで翔太は命の危機を逃れた。自分たちは不死身なのか、結果はわからずじまい。だが、本当に苦しかったので光流の行動に感謝した。
助けられた翔太は咽返った。
「あ、ありがとう」
光流は、咳き込む翔太に辛辣な言葉を言う。
「この馬鹿。だから言わんこっちゃない」
謝る翔太は、張り切って陸地を離れたのに情けないと思った。
「ご、ごめん。本当にごめん……」
「戻るぞ。俺に助けられたから答えが出なかった、なんてあとで言うなよ」
「言わないよ……」
ここではゆっくりと呼吸を整えられない。それに翔太を支え続ける自信がない。光流は、すぐさま一同が待つ浜辺へ顔を向けた。
天気も悪く距離もあるので、それぞれの表情は見えないが、心配している不安げな様子がこちらにも伝わってくる。
穏やかな海なら、翔太を抱えて泳ぐのも容易いだろう。だがいまは、かなりつらい。それでも光流は、懸命に浜辺を目指して波を掻き分けた。
激しい雨のせいで水位が上昇しているように感じた。きっと気持ちの問題だ、と心を強く持って浜辺まで泳ぎきった。力尽きた光流は、翔太とともに砂浜に倒れ込んで息を切らした。
恵が光流に手を差し出した。
「大丈夫?」
「ありがとう」恵の手を取った光流は、翔太に顔を向けた。「なんであんな無茶したんだよ?」
翔太が光流の質問に答える前に、道子が歩み寄った。恵のように手を差し出すのかと思いきや、力いっぱい翔太の頬を張った。
一同は道子の行動に驚いた。
斗真が小声で言う。
「ついにキレたか」
道子は泣きながら翔太を怒号した。
「何考えてるの! どれだけみんなが心配したかわかってるの! 自分勝手すぎるよ! どうしてこんなときに無茶するの!」
斗真は道子に言った。
「気持ちはわかるけど落ち着けって」
道子は言い返した。
「落ち着けるわけないじゃん!」
道子の強い口調にびっくりした斗真は、「俺に怒るなよ」と言ってから翔太に目をやった。「お前のせいで道子が怒り心頭だ。大事な彼女に心配かけてどうするんだよ。現実世界に戻る前にカップル解消だなんて笑えないからな」
頬を押さえる翔太は、道子やみんなに謝り、無茶をした理由を言った。
「ごめん……ほんと、ごめん。だって、だってさ、あいつらが必死で墜落現場に戻ってるのに、俺たちはここで何やってんだよ! ぜんぜん役に立ってないじゃん! カラクリを解くためにも、俺たちの体に起きた変化を知りたかったんだ!」
道子は翔太に言った。
「だからって危険な真似をしても類たちは喜ばない」
「かもしれないけど……」
綾香が、生徒に説教する先生のように厳しい言葉を言った。
「けっきょくあたしたちが不死身なのかどうなのかわからずじまい。光流まで危険な目に遭わせただけ。これからは無鉄砲な行動を慎んでもらわないと困る」
結菜も言った。
「もっと、あと先考えて行動してよね」
恵が言った。
「本当に心配したんだよ」
美紅も言わせてもらった。
「小夜子は殺人を犯したから永遠に鏡の世界に幽閉されて死神になった。それって、うちらの命だってどうなるかわからないってことじゃん」
そうだ……女子の言うとおりだ。危険を冒してまで試みた実験だった。それなのに、何ひとつわからなかった。馬鹿をやっただけ。みんなに心配をかけただけ。返す言葉もない。翔太は肩を落した。
「光流にも同じことを言われたよ」
光流が翔太に言った。
「気持ちはわかるけど、お前に何かあったら類たちが悲しむだけだ」
由香里も言った。
「あたしたちは十三人揃ってないと駄目なんだからね」
翔太はうつむいて謝る。
「本当に……すまなかった……」
翔太が自分勝手な行動を反省したので、道子は気持ちを切り替えて斗真に訊いた。
「けっこう時間がたっちゃったけど、いま何時なの?」
斗真は腕時計に視線を下ろした。
「正午から五分過ぎてる」
道子は言った。
「もうそんな時間なんだ」
斗真は言う。
「眠らないと」
道子は斗真に言った。
「この土砂降りの中、どうやって? 浴室でシャワーを浴びながら眠るようなものだよ」
斗真も稲光が目立つ空を見上げた。どこか遠くで轟音が聞こえる。雨もまだ上がりそうにない。だが、眠らなければ類たちに会えない。
斗真は言った。
「いつも眠気とは無関係に、鏡の世界に意識がぶっ飛ぶかんじだよな」
道子は言った。
「まぁ……たしかにそうだね。この島で眠気を感じたことなんてない」
綾香が提案した。
「だったら、試してみようよ。みんな一緒に意識を集中させるの」
道子は首をかしげた。
「意識を集中させる?」
綾香は道子に言った。
「寝ようと思うと難しい。だから倉庫を想像して意識を集中させるの」
道子は理解する。
「なるほどね。それならできると思う」
光流は軽く嫌味を言う。
「綾香のアイデアは翔太の実験とちがって安全だ」
道子も翔太を見やった。
「言えてる」
耳が痛い。翔太は、一同から目を逸らした。
「もう無茶はしないって」
綾香は言った。
「それじゃあ、実験開始」
膝を抱えて座った一同は、学校の倉庫を想像して意識を集中させようとした。だが、雷鳴と激しい雨のせいで集中できない。
「なんていうか……」結菜がぼやく。「あたしたちって、ずっとずぶ濡れ。もう最悪」
道子が皮肉交じりに言った。
「あたし乾燥肌だからくっそ嬉しい。天然の化粧水はミネラル豊富なのかな?」
結菜は言った。
「濃厚な酸性雨だったりして」
道子は言った。
「それは素敵なピーリング効果がありそう。税金すらかからない無料サバイバルエステ。学校で流行るかも」
綾香はふたりに顔を向けた。
「お願い、笑わせないで」
斗真が笑った。
「ウケる。サバイバルエステってなんだよ」
斗真につられて、みんな笑った。
恵が、結菜と道子に言った。
「ふたりのせいで集中できない」
由香里も言った。
「ちゃんと真面目にやろうよ」
健が言った。
「みんな、ちゃんと集中しよう。じゃないと鏡の世界に移動できそうにない」
道子はため息をついた。たったいま言った冗談とは異なる本心を口にした。
「わかってるけど不安なの。きのうはこの状況を楽しんでやるって決めたけど、このまま島から脱出できなかったらどうしようって……気持ちが不安定になっちゃうの。本当に精神安定剤が欲しいくらい」
健は道子に言った。
「そんなもの必要ないじゃん。最高の精神安定剤は俺たちの友情だ。みんな揃ってるんだから大丈夫」
「健の言うとおりだよ。あたしたちは大丈夫」自分にも言い聞かせるように由香里が言った。「絶対に大丈夫」
翔太が道子の手を握り締めた。気が強い道子だが、心配性で臆病な一面もある。気の利いた言葉は言えなくても、手を握り締めたことで “俺がついている” と伝えたつもりだ。
「どんなときも一緒だよ」
綾香も道子に声をかけた。
「みんなで頑張ろう」
目に涙を浮かべた道子はうなずいた。
「うん。ありがとう」
一同は一斉に目を瞑り、校内を想像して、倉庫に意識を集中させた。まるで滝に打たれているかのような雨に気が散りそうだ。だが、次第に周囲に響く雨音や波音が静かになっていった。ゆっくりと瞼を開けると、倉庫の床が見えた。ずぶ濡れの体は乾いており、制服を着ていた。鏡には、こちら側を覗き込むような体勢で座っている理沙の姿が見えた。
斗真が言った。
「類たちはまだみたいだな」
「明彦はいいとして、類と純希だからねぇ。あのふたりの集中力は微妙だもん」斗真に返事した綾香が、「理沙に到着を知らせるよ」と、鏡に息を吐きかけて文字を書いた。
《来たよ 綾香》
鏡に綾香の文字が現れると、理沙は満面の笑みを浮かべた。
「待ってたよ」
由香里が言った。
「理沙、ひとりで寂しいだろうね」
綾香は由香里に言った。
「もう少しの辛抱だよ。多少遅れても新学期を迎えるんだから」
由香里は微笑んだ。
「そうだね」
理沙には一同の話し声すら聞こえない。それでも鏡の向こう側にみんながいるとわかっているので、教室にいるときのように明るく振る舞う。
「類から聞いたよ、三組のカップルが成立したって。道子と翔太、恵と光流、結菜と明彦、おめでとう」
島のことで頭がいっぱいだった。それでも寂しい思いをしている理沙に心配をかけたくない。名前を上げられたカップルは、鏡に息を吐きかけて返事を書く。
《ありがとう! 道子》
《道子は最強! 翔太》
理沙は文字を見て吹き出しそうになった。
「ちょっと待ってよ。まさか、もう喧嘩?」
翔太は返事を書く。
《ちょっとだけね》
理沙は笑みを浮かべて言った。
「仲良くしなきゃだめだよ」
《うん》
道子は翔太に訊く。
「てゆうか、道子は最強ってどういう意味?」
翔太は道子から目を逸らした。
「だってビンタが痛かったし、道子には敵いそうにない」
道子は悪戯っぽい笑みを浮かべて、翔太の顔を覗き込んだ。
「だから手に負えないかもって言ったじゃん」
翔太は道子の髪を撫でた。大好きな道子と念願のカップルになれたのだ。嬉しいに決まっている。
「そうだね」
髪を撫でられると、大切にされているような気がする。嬉しく感じた道子の顔が自然とほころんだ。
猫のような性格の道子に目をやった結菜は、口元に笑みを浮かべて理沙に返事を書いた。
《あたしからもありがとう 結菜》
続いて光流も書く。
《おれからもありがとう! 光流》
そして恵が書いた。
《理沙と類に負けないラブラブなカップルになるからね 恵》
理沙は首を傾げた。
「あれ? 明彦はまだなの? 類もまだなんだよね?」
旅客機の墜落現場に戻る話を事前に類から聞かされているだろうと考えた結菜が、鏡に息を吐きかけて文字を書く。
《ここに集まることになってるんだけどまだ来てない 類と純希もまだ》
「集合時間は決まってるの?」
結菜は教える。
《正午 16時 21時》
「大丈夫なのかな? 心配」
《大丈夫 もう少し待とう》
「うん。早く類に逢いたいな。結菜も明彦に逢いたいよね?」
《もちろんだよ》
「なんだかダーリンを待つ会みたいで、やだやだ」ふたりのやりとりを見てつまらなさそうに言った綾香が、ひとがひとり通れるくらいの間隔で開いているドアに目を転じた。
その様子を見た結菜は、綾香に訊く。
「どうかしたの?」
「ちょっと、気になることが……」と言った綾香は、ドアを見つめた。
意識を集中させれば、ジャングルから倉庫への移動が可能だ。しかし、それを聞かされていなかった理沙は、十三人が困らないようにドアを開けっぱなしにしていた。
もしかしたら、ここなら意識を集中させるだけで異なる教室にワープが可能なのでは? と考えた綾香は理沙に頼んだ。
《ドアを閉めて》
ドアを閉めたら出入りができない。理沙はジャングルにいる三人を心配する。
「類たちがここに入れないじゃん」
綾香は返事を書く。
《大丈夫》
結菜は綾香にもう一度訊く。
「何する気?」
「まぁ、見ててよ」
「何? その自信ありげな表情は」
「鏡の世界だとエスパーになれちゃうかも」
綾香のことだから何か面白いことを思いついたんだろう、と一同は顔を見合わせた。期待した結菜は冗談を言った。
「なんだか明彦二号みたい。あたしたちは見物ということで」
「がり勉なんでも博士ってあだ名だけはやめてよ」
立ち上がった理沙は、「じゃあ本当に閉めちゃうよ」と確認してからドアを閉めた。
現実世界のドアを閉めたのと同時に、こちら側の世界のドアも閉まった。綾香はドアに歩み寄り、意識を集中させた。その数秒後、綾香の体が透きとおるように忽然と消えたのだ。
一同が驚きの声を上げた瞬間、「やった! 思ったとおり大成功! みんなもやってみなよ!」と、廊下にいる綾香の明るい声が聞こえた。
結菜は目をぱちくりさせた。
「すごい。瞬時に廊下にワープしちゃった。マジでエスパーじゃん」
斗真が綾香の行動に興味を持った。
「俺らもやってみようぜ」
光流が言った。
「綾香のやつ、面白いこと思いついたな。いまは夏休み中だから生徒は倉庫の前を通らないけど、もし偶然ここを通りかかった先生に理沙が見つかったら怒られちゃうから、ドアはいつも閉めておいたほうがいいかもしれないね」
健が光流の意見にうなずく。
「ここは俺たちが現実世界に戻るまでのあいだ集合場所に使わせてもらうから、先生に見つかると厄介だもんな」
一同の様子がわからない理沙は訊く。
「ねぇ、何してるの? あたしにもわかるように説明して。仲間はずれはなしだよ」
恵が、理沙にこちらの様子を教えた。
《廊下に移動してる》
理沙は驚く。
「ドアを閉めた状態で?」
《そうだよ》
鏡の中に別世界がある。十三人とともに鏡の世界を知ったのだ。ひとの意識だけが入れる奇妙な世界。現実世界からでは彼らの声すら聞こえない。実体がないのに鏡に文字が書ける。理沙はどこかスピリチュアルなものを感じた。
この不思議な生活も、彼らが学校に戻ってきたら思い出話に変わるだろう。それに、自分たちの絆を強くしてれるはずだ。類とも、みんなとも、いままで以上に仲良くなれる。心配しすぎはよくないので、理沙は笑顔で言った。
「ワープができるなんて楽しそう。あたしは参加したくてもできないから類が来たら教えてね」
《うん》
返事を書き終えた恵は、不安げな表情を浮かべた。
「それにしても類たち少し遅いと思わない? あたし心配になってきちゃった」
斗真が言った。
「土砂降りだから意識を集中させるのが難しい。だから遅れてるだけだと思う」
「でも心配」
「気持ちはわかるけど、心配しても俺たちは迎えに行けないんだ」
「それもそうだけど」
斗真は、目を瞑って廊下に意識を集中させた。数秒後、ゆっくりと目を開けてみると、廊下に移動していた。正面には難しい顔をした綾香が立っていた。
「本当にエスパーになったみたいだな。眉間に皺なんか寄せて、どうかしたのか?」
綾香は言った。
「ジャングルにいても意識を集中させるだけで鏡の世界に移動できる。だから自由自在にどこにでも行けたらいいのにって思ったの。試しに行きつけの美容院に意識を集中させてみたんだけど、やっぱり駄目だった」
「そりゃそうじゃん。思い出深い場所限定なんだから」
「類は校内から出られないって言ってたけど、自分で試してみたい」
「それに関してはみんな同じ意見だと思う。類たちが到着してからやってみようぜ」
「うん」
倉庫からワープした一同が廊下に揃った。実体はここにないとわかっていながらも、超能力者になったかのような気分だ。
由香里は楽しそうに言った。
「現実世界でもこんなことができたら超すごいね。想像しただけでわくわくしちゃう」
綾香は言った。
「それを言うならジャングルでも使えたらいいのに。だって類たちが必死に歩かなくても済むもん」
「俺もジャングルでその能力を使いたいよ。マジで疲れたぁ」と後方から明彦の声が聞こえたので、一同は一斉に振り返った。
だが、廊下に立っているのは明彦と純希だけ。肝心な類がいない。
不安になった綾香はふたりに訊く。
「類は?」
(まさか集中できなくて、まだジャングルに?)
ふたりは倉庫のドアを指さし、同時に声を発した。
「理沙のところ」
「あっそう」
(心配して損した)
なんだ倉庫にいるのか、と一安心した。だがいつもの類なら、まずはみんなの前に顔を出してから理沙の許に行くはずだ。類が魔鏡から抜け出した直後は、精神的に追い詰められた状態から平常心を取り戻すためにも理沙の愛が必要だった。あのときの恐怖心は克服できたはずだ。現実世界に戻ったら思う存分に愛し合える。いまはここにいるカップルたちのように、島からの脱出に集中してほしい。そうしなければ現実世界に戻れないのだ。だが、あえてそれを口に出さなかった。
いますぐ知りたい情報は、類がいなくても訊ける。校外に出る実験も然り。綾香は類の存在を無視して、単刀直入にふたりに質問した。
「リーフレットは?」
結菜が緊張を孕ませた表情を浮かべて、明彦を見据えた。
「どうだったの?」
明彦は答えた。
「偶発的に島にワープしたわけじゃない。『ネバーランド 海外』が仕組んだ罠だ。やつらの……死神のゲームの中に俺たちはいる」
浜辺で待機している一同は息を呑んだ。
おそらく『ネバーランド 海外』が関係しているだろうと考えていた。覚悟を決めていたものの、恐怖を孕んだ不気味な報告を聞かされて産毛が逆立った。
綾香は鳥肌が立った腕をさすった。
「やっぱりね。ツアー会社は黒。あたしたちはツアー会社によって、意図的に島に落されたってわけか……」
結菜は言った。
「つまり、三十年前から『ネバーランド 海外』は存在していたってことね」
「案の定だったね」道子が言った。「小夜子と状況が被りすぎてるもの。だけど、それがはっきりしただけでもよかった。これで少しは島の謎が解きやすくなるんじゃない?」
翔太が道子に顔を向けた。
「たしかに被りすぎてるけど、ひとつだけちがう。ツアー会社に関係している俺たち以外の乗客はみんな死んだ。けど、三十年前はツアー会社とは無関係の小夜子が生き残って、操縦士だけが死んだ。俺たち全員はゲームの駒で、小夜子は死神の都合でゲームの駒にされたんだよ」
「ゲームの駒……そればかり言うけど、そんなに単純な理由なのかな? どうしてもしっくりこないんだよね」と言った道子は、翔太の無鉄砲な行動をふたりに教えようとした。「そうだ、翔太ってば、生体の謎の追究するために、すごい無茶したんだよ。本当にどうかしてるくらい」
純希が訊く。
「俺らも無茶しっぱなし。それで、翔太は何をやらかしたんだよ?」
道子は説明する。
「荒波に向かって飛び込んだの。でも溺れる寸前で光流が助けたから、あたしたちが不死身かどうかは不明のままだけどね」
純希が翔太に言った。
「お前、ばっかじゃねぇの? 生体が守られている保証なんてないんだ。それこそ最悪のゲームオーバーだ」
翔太は言った。
「どうしても試してみたかった。それに、お前らばかりに負担を押し付けてるみたいで嫌だったんだ。俺だってみんなの役に立ちたい」
明彦は言った。
「墜落現場で見たものといえば、大破した飛行機の残骸と乗客の死体だけだった。カラクリを解いて、自分の目で答えを確認したいんだ。負担になんて思ってないよ」
純希も言う。
「俺も類も負担だったらやらない。俺らの性格、知ってるだろ?」
「もちろん知ってるよ」そして翔太は、無茶をしたもうひとつの理由を言った。「それに……自分たちの体がどうなっているのか、俺自身が知りたかったんだ。どうしても知りたかったんだよ……」
明彦は言った。
「頭さえ無事なら十七歳のまま徘徊できるのかもしれないし、食糧さえあれば十七歳のまま永遠に生きれるのかもしれない。確かめようがないんだからしかたない。
もちろん知りたくないって言ったら嘘になる。だけど、それを知るために無茶をしても、いいことなんてない。いまの俺たちにできることは、自分の体を大事にすることだ」
純希も言った。
「滅茶苦茶になった機体に乗っていた俺たちが、無傷で生きていられたこと自体が不思議だ。それこそ不死身じゃないかぎりありえないと言われたら、たしかにそうだろうけど、小夜子は殺人を犯したから鏡の世界に幽閉されてしまったんだ。つまり誰かが小夜子に殺されたということになる。
三十年前に何が起きたのかはわからないけど、もし仲間内で殺人が可能なら、俺たちは不死身じゃないってことになるんだ。だから明彦の言うとおり、体を大事にしたほうがいいとしか言えない」
ふたりの言うとおりだ。うつむいた翔太は返事した。
「うん……」
明彦は言った。
「俺らは負担に思ってないし、無茶は禁物だよ」
翔太は謝った。
「わかったよ……ごめん」
「ところでみんな」翔太との話を切り上げた明彦は、真剣な面持ちで一同に訊いた。「軽飛行機の近くに転がっていた髑髏を覚えているよな?」
もちろん全員が覚えている。髑髏を見た瞬間に取り乱した由香里が言った。
「あれが原因で急勾配から滑り落ちちゃったんだよ。一生、忘れられない。現実世界に戻っても夢に出てきそうだもん」
「だよな、忘れるはずないよな……」
由香里は明彦に訊く。
「あの不気味な髑髏がどうかしたの?」
「じつはさ……あの髑髏、操縦士のものかと思いきや、小夜子のだったんだ」
明彦の返答に一同は騒然とした。
驚愕した由香里が言った。
「え? うそでしょ? どうゆうこと? だって死んだのは操縦士のはず……」
「なるほどね」綾香が言った。「おそらく操縦士の死体は、野生動物に持っていかれた。そして、殺人を犯した小夜子の意識は鏡の世界に幽閉された。そのあと、ジャングルに横たわったままの肉体は野生動物に喰われた……てことだよね? やっぱり、あたしたちは守られてないのかな? どういうことなんだろう?」
純希が綾香に言った。
「俺も同じことを考えた」
明彦は綾香に言った。
「島の生き物は不思議な力に守られているわけだし、いまは確かめようがないけど、もしかしたら生体の俺たちも守られているのかもしれない。だとしたら小夜子たちも守られていたはずだ。
だけど、小夜子が鏡の世界に幽閉された理由は殺人だと類は言うけど、俺としてはそれに関しても、もう少し慎重に考えたい。すべてにおいて先走らないほうがいいと思うんだ。それこそ、三十年前に何があったのかはっきりするまでは」
綾香は納得した。
「そうね」
「怖いんだけど……」由香里は慄然とする。「どうして不気味なことばかり起きるの?」
綾香は由香里に言った。
「死神の島にいるからだよ」
由香里はうつむいた。
「あたしたちは意図的に島に突き落とされたんだよね。ほかの乗客は殺されたも同然だよ……」
翔太が言う。
「だから言ってるじゃん、俺たちはゲームの駒だから生き残ったんだよ」
道子が、駒にこだわる翔太に言った。
「それだと、なんか単純なんだよね。すべてが複雑なのにそこだけ単純」
翔太は言う。
「かもしれないけど、俺ら十三人だけが生かされた理由って、それ以外考えられないじゃん」
道子は言う。
「あたしはちがうと思う」
純希も、翔太の意見を否定した。
「俺もちがうと思う」
道子は、純希の言葉にうなずく。
「だよね」
純希は、会話の途中で倉庫のドアに目をやった。学校に集合するのはミーティングのためだ。もちろん理沙も大事な友達だ。それはわかっている。しかし、リーダー的存在の類に、やるべきことに集中してほしいと思った。
「あいつ、いつまで理沙とイチャついてるんだ? 理沙が恋しいのはわかるけど、もうそろそろこっちに顔を出してもいいころじゃん。みんな真剣に話し合ってるのに」
同感の綾香も言った。
「あたしもそう思う。試したかった実験は、類なしでもできるからほっといても差し支えないけど、ちょっと長いよね」
倉庫を指さした結菜が、明彦に訊く。
「本当に類はいるの?」
明彦は答える。
「いるよ。類ひとりをジャングルに置き去りにするほど白状者じゃないよ」
結菜は言った。
「だって、ぜんぜん顔を出さないから」
斗真が昇降口に目をやった。扉が開いているうちに試したい。
「もういいよ。類はほっといて、さっさと実験を始めようぜ」
綾香も言った。
「賛成。時間がもったいないからそうしよう」
明彦はふたりに訊く。
「実験って何を実験するの?」
斗真が教えた。
「学校の外に出られないのか自分で確かめたいなって、さっき綾香と喋ってたんだ」
明彦も単純な実験に賛成する。
「それは俺も試してみたい。やっぱり自分の目で確かめてみないとね」
純希もうなずいた。
「俺も試してみたい」
斗真は一同に訊く。
「どうする? エスパーのまねごとで行ってみる?」
純希が返事した。
「歩くのめんどくさいし、そうしよう。肉体はここにないんだから疲労感なんてあるはずないんだけど、目覚めると疲れてるんだよなぁ」
斗真は純希に言った。
「意識がはっきりしすぎてるからじゃない? 眠った気がしないもん」
「いつもの爆睡が恋しい」
「野宿じゃなくてベッドの上でね」
「ふかふかの布団にダイブしたいよ」
会話の途中で「早く!」と綾香に呼ばれたので、ふたりがそちらに顔を向けると、昇降口から手招きしていた。
斗真は軽く笑った。
「せっかちな女」
綾香を見た明彦は、ワープにも何か理由があるのではないだろうかと考えた。実体がないというばかりではなく、もっと複雑な何かがあるような気がした。
謎のひとつひとつに意味がある。そして共通点がある。共通点に気づいて、謎がひとつにまとまったとき、真実が明らかになり、ゲートが見える。
だが……どう考えてもひとつにまとめようがない。どうやってひとつにまとめる? 何をひとつにまとめればいいんだ? 答えはひとつ。それがゲートを見る鍵。
小夜子と一緒にいたアメリカ人は、何をきっかけにしてカラクリの答えを導き出せたのか?
真実が見えたとき、ゲートを見ることができる。
真実を見て、現実を受け入れる。
そもそも真実ってなんだ?
何が真実で、何が現実?
俺たちはジャングルを歩き、墜落現場に向かっている。眠れば現実の学校とリンクした鏡の世界にいる。
それがいま俺たちの身に起きている現実じゃないのか?
小夜子は何を伝えようとしたのだろうか?
「俺たちも行こうぜ」と、純希が明彦に声をかけた。
考えごとをしていた明彦は顔を上げて返事した。
「ああ」
「なんか閃いたの?」
「いや、ぜんぜん」
「明彦の頭の中に閃きと発想の神が舞い降りること願ってるよ」
「俺自身も舞い降りてくれることを願ってる」
意識を集中させた明彦と純希は、昇降口へワープした。豪雨に打たれながら意識を集中させるのは難しい。だが、快適な校内ではジャングルと異なり簡単だ。
「超余裕」純希は言った。「この調子で女子更衣室にでも行ってみようかな」
明彦は言った。
「お前、そうゆうの好きだよね」
健が言った。
「この状況でよくそんな冗談が言えるよな……」
呆れたような表情を浮かべた美紅が、純希を見る。
「残念だけど女子更衣室に鏡はないよ。だから女子の着替えを覗こうと思っても無駄」
純希はつまらなそうに言う。
「女子更衣室は男の夢だ。叶えられなくて残念だよ」
美紅はあんぐりする。
「どんな夢よ……」
斗真は言う。
「せっかく気分は透明人間なのに超がっかり」
純希は言った。
「透明人間かぁ。現実世界の連中からしてみればそうだよな。だって、俺らは鏡を見れば覗きができるようなものだから」
美紅は言う。
「馬鹿じゃないの? あたしには女子更衣室の魅力がわからない」
明彦が、純希と斗真に訊く。
「変態的な会話は済んだ?」
純希は、明彦に真顔で言った。
「幸福な人生を歩むのは、少しばかり変態な人間である」
明彦は、純希の発言を無視して話を進めた。
「全員で外に手を出してみよう」
純希はつまらなそうに言う。
「シェイクスピアに匹敵する俺様の名言、フル無視かよ」
冗談を交わしていた純希と斗真も真剣な面持ちで挑む。息を呑んだ一同は、同時に扉の向こう側に手を伸ばしてみた。
扉は開いている。それなのに、硝子がもう一枚あるかのように指先ひとつ外に出せない。何度試してみても弾かれてしまう。ここは、完全に校内に閉じ込められた世界だ。納得した一同は腕を下ろした。
綾香が言った。
「無理みたいだね。でも、気になっていたからすっきりした」
斗真が言った。
「学校の外に出たいならゲートを通って現実世界に戻るしかないってことだな」
光流が言った。
「だけど残念だな。もしかしたらって期待もあったし、早く家に帰りたいから」
「大丈夫だよ」綾香は笑みを浮かべた。「そのうち帰れるもん」
前向きな恵が、島からの脱出後を前提として自宅に招く。
「そうだ、こんどママが作ったポテトグラタン食べに来てよ。世界一美味しいの」
空腹の一同は、恵の誘いに目を輝かせた。以前ごちそうになったことがある光流が言った。
「本当に超美味かった」
食べることが大好きな由香里は、とろけたチーズを想像した。
「楽しみ! ポテトグラタン大好きだもん」
「俺も楽しみにしてるよ」と笑みを浮かべて明彦も言った。仲間との会話も楽しいが、先に進みたい。必要なことはすべて伝えた。「さてと、そろそろ肉体に戻ろう」
結菜が明彦に言った。
「もう少しゆっくりしたら?」
「そんな余裕ないよ」明彦は首を横に振った。「いくら考えてもカラクリが解けそうにない。墜落現場に到着する前に、ジャングルに戻って答えを考えたいんだ」
結菜は言った。
「あたしは少し休みたいかな」
結菜が女子たちに目をやったので、男子から離れて会話がしたいんだなと理解した。それなら男子には関係ない。島に戻りたい明彦は純希に言った。
「ジャングルに戻ろう」
純希もまだ歩きたくない。
「目覚めがすっきりしないから休んだ気になれないけど、適当に足の疲れくらいはとれそう。類もまだ理沙といるみたいだし、もう少しだけ座っていたい」
ともに歩く純希が休憩をとりたいというならしかたない。
「そうだな、少し休むか」
倉庫を見ながら翔太が首を傾げた。
「類、マジでこっちに顔を出さないけど何やってるんだろう?」
苛立ちの表情を浮かべた純希が言う。
「さあな。毎回この調子だと困るよな」
斗真が冗談を言った。
「エッチでもしてたりして、なんてな」
結菜と明彦は、斗真の言葉に顔を紅潮させた。
「理沙は現実世界にいるんだから、そんなことできるわけないじゃん」と斗真に言った結菜は、女子に顔を向けた。「トイレ行かない?」
「いいよ」と女子はうなずいた。
結菜は男子に言った。
「と、いうわけで、あたしたちトイレにいるから用があったら呼んで」
斗真が返事した。
「トイレで女子会ね。わかったよ」
結菜たちは廊下に歩を進めた。職員室の向かい側の水飲み場に設置された鏡に目をやると、廊下を行き交う部活動の生徒が見えた。十三人とは交流がない生徒ばかりで、その表情は楽しそうだ。
自分たちがこんなにつらい目に遭っているのに、と腹立たしく思った綾香は鏡に近づいた。そのとき、ジャージ姿の女子が水飲み場に歩み寄り、蛇口を捻って水を出した。
(あたしなんか雨水しか飲めないのに)
綾香は息を吐きかけた鏡に、力強く手のひらを押し当てた。現実世界にいる女子は、鏡に映し出された綾香の手形を見て、訝し気な表情を浮かべた。そして綾香の手形を拭き取ろうとした。だが、手形は拭えない。
「何これ……」水を飲む直前まではなかった手形に恐怖を覚えた生徒は後退る。「気味悪いんだけど……」
笑いが込み上げる綾香。
「超ビビってる」
美紅が、綾香の子供じみた行動を止めようとした。
「ちょっと、やめなよ」
美紅の言葉をまったく聞こうとしない綾香は眼鏡をはずしてから、ふたたび鏡に息を吐きかけて横顔を押し当てた。
突如、鏡に映し出された横顔に驚いた生徒は、悲鳴を上げて逃げていった。
「けっこう楽しいかも」と、言いながら眼鏡をかけた。
綾香は満足げな表情を浮かべていたが、みんな呆れてしまった。
あんぐりする美紅は、綾香に言う。
「類に感化されてきたんじゃない?」
綾香は言った。
「類と一緒にしないで。あいつ、未だにガキなんだから」
水飲み場を横切った綾香たちは女子トイレに入った。結菜は、女子トイレの鏡に目をやった。たとえ鏡に生徒が映っていたとしても、こちらの会話は聞こえない。それでも内緒話をしようとしていたので、誰もいない空間に安心した。
斗真が顔を出さない類に対して、 “エッチでもしてたりして” と冗談で言ったのはわかっている。明彦との夜をみんなに打ち明けようとしていた結菜は、内心どぎまぎした。男子がいない場所に移動したのもそれが理由だ。
「なんか……」頬を染める結菜。「大人の女になっちゃったかんじ……」
いつか打ち明けてくれると思っていた女子は、明彦と過ごした夜をあえて訊かずにいた。いま本人の口から聞けたので、綾香が「おめでとう」と言ってあげた。もちろん全員が心から祝福している。
結菜は笑顔で言った。
「ありがとう」
恵が言った。
「あたしも現実世界に帰ったら光流とエッチしちゃうかも」
全員が、大胆な発言の恵にびっくりした。
由香里が羨ましそうな表情を浮かべた。
「いいなぁ。みんな大人の女になっちゃうんだね」
恵は由香里に言った。
「でも焦ってしちゃダメだよ。最高に好きなひととしなきゃ意味ないもん。男子は一度エッチしたら、そのことで頭がいっぱいになっちゃうんだから」
「わかってるよ」由香里は言った。「大好きなひととするもん」
「そうそう、男子は一度エッチしたらそのことで頭がいっぱい」と、恵が言った言葉を繰り返した道子が、冗談交じりで結菜に訊く。「明彦は大丈夫かな?」
軽く笑いながら結菜は答えた。
「大丈夫だよ。だって、現実世界に戻ったとたん受験勉強で忙しくなるから」
道子は納得する。
「それもそうか」
こんどは結菜が道子に訊いた。
「道子はどうなの? やっぱり翔太としちゃうの?」
少し考えてから答える。
「もしするとしても、じらすつもり」
美紅と由香里は顔を見合わせた。そして、由香里が言った。
「あたしたちは、純希たちと合コンして彼氏をつくるんだ」
結菜は、恋愛の話が盛り上がるとついていけなくなる綾香に話を振る。
「綾香は進学したら彼氏つくるんでしょ? 期待してる」
笑いながら綾香は言った。
「期待していいよ。超イケてる彼氏つくるんだから」
恋愛の話が一区切りついたところで、由香里が幼いころの不思議な体験を語ろうとした。いままで忘れていたのだが、ゲートが金色の光に包まれいると聞いて過去の記憶が甦ったのだ。だが、過去の体験と、この一件が関係しているとは思っていない。なんとなく言っておきたかった、単純にそれだけのことだ。
「ねえ、みんな。あたし、霊感が強いでしょ。強くなったきっかけを思い出したんだ」
綾香が言った。
「きっかけ? 元から強かったんじゃないの?」
由香里は答える。
「ちがうよ。ある体験からなんだよね」
綾香は訊く。
「どんな体験をしたの?」
由香里は説明した。
「子供のころ、階段から転倒して意識不明になったの。そのときに不思議な夢を見たんだ。煌々と光り輝く入り口があって、中を覗くと綺麗な花畑があったの。そこには死んだお祖母ちゃんが立っていた。久しぶりの再会が嬉しくて、お祖母ちゃんに抱きついたのを覚えてる。
そのあと、お祖母ちゃんがあたしに言ったの。さぁ戻りなさい、ここは由香里には早すぎる。お母さんが待ってるわって。
気がつくと病院のベッドの上だった。お祖母ちゃんが言ったように、泣きながらあたしの顔を撫でるお母さんが見えたんだ。それからなんだよね、霊感が強くなったのは」
綾香よりも先に、道子が言った。
「それって臨死体験ってやつじゃない?」
変わった夢を見たんだな、綾香はその程度で聞いていた。死神のゲームに巻き込まれる以前は、非科学的なできごとを絶対に信じようとしなかったので、スピリチュアルな話には疎い。
「聞いたことあるかも」
恵が由香里に言う。
「生死を彷徨ったひとが見るんだよね?」
由香里は答える。
「そうだよ。三日間も意識不明だったんだ」
綾香は由香里に訊く。
「でも、どうして急に思い出したの?」
由香里は答える。
「ゲートは金色に光ってるって類が言ってたから思い出したの。あたしが見た光もすごく綺麗だったから、あの不思議な体験が頭に浮かんだんだ」
道子が突飛な発言をする。
「もしかしたら……あたしたち臨死体験の中にいるんじゃない?」
由香里は思わず吹き出した。
「ずいぶんとヘビーな臨死体験だね。言ったでしょ、あたしが見た景色は綺麗な花畑だった。激しい雨風とは無縁の素敵な場所だったよ」
美紅が悪戯っぽい笑みを浮かべて道子に言う。
「この中で一番臆病なのは由香里、想像力が豊かなのは道子だね」
「馬鹿にしてるでしょ?」
「その豊かな想像力が将来の編集部で役に立つかもよ」
「絶対、馬鹿にしてる」
由香里は、夢で見た亡き祖母の朗らかな表情を思い出した。
「でもさぁ、天国って神様が創ってくれた本当の楽園なんだと思う。この世にはない楽園。すごく綺麗な場所だったもん」
綾香は言った。
「天国が楽園だろうとなんだろうと、まだ逝くわけにはいかない。由香里のお祖母ちゃんが言うように、十七歳のあたしたちには早すぎる」
由香里は言った。
「当たり前じゃん。あたしだって、まだまだお祖母ちゃんのところに逝く気ないもん」
そのとき、廊下から女子を呼ぶ斗真の声が聞こえた。
「おい! そろそろ目覚めるぞ!」
女子は廊下に出た。男子は倉庫の前に腰を下ろしていた。だが、そこに類の姿はなかった。
綾香は首を傾げた。
「いつもの類なら、いい加減みんなの前に顔見せてるよね?」
由香里は言った。
「でも、類と理沙ってラブラブだから学校でも休憩時間とかふたりでいるじゃん。きっと、触れられないと思えば思うほど恋しくなっちゃうんじゃないの?」
綾香は言った。
「かもしれないけど、なんかいつもとちがうような……」
今回は類がいなくても問題なかったので、由香里は大目に見る。
「綾香の考えすぎだよ」
結菜が綾香に言った。
「あとで明彦と純希から類に言うんじゃない? とくに明彦は口うるさいところがあるから」
綾香は言った。
「そうだね。あのふたりに任せておこう」
明彦が倉庫のドアを強くノックして、類に集合の合図をした。
「ジャングルに戻るぞ」
返事がないので、しびれを切らした純希がドアを蹴った。
「聞こえないのか!」
ドア越しから類が答えた。
「ごめん! 聞こえてる」
純希は苛立つ。
「だったら返事くらいしろよな」
結菜は明彦を見た。旅客機の墜落現場までの道のりは長いので心配だが、いまの自分には応援しかできない。
「明彦! 頑張ってね」
「うん」明彦は返事する。「結菜も怪我するなよ」
「ありがとう、明彦もね」どんな状況でも気遣ってくれる明彦に感謝した結菜は、浜辺で待機している一同に言った。「うちらも起きよう」
斗真が目覚めの合図を出した。
「よし! みんな、起きるとするか」
廊下に腰を下ろして目を瞑った一同は、それぞれが横たわる場所へ意識を集中させた。
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