【9】鏡の世界と再会

 不幸中の幸いは、転落した場所が急勾配で断崖絶壁ではかったことだ。類は由香里が怪我を負わないように、しっかりと抱きしめて放さなかった。だが、大量の雨水によって斜面が滑り易くなっていたため、立ち上がれずにどこまでも滑り落ちていった。


 斜面を落下し続ける制御不能の体の下には、植物が茂っている。ふたり分の体重がのしかかっても体が通過するとすぐに元の形状を取り戻す。


 落下の速度が増していく中、類は後頭部に強い衝撃を感じた。植物が異様に硬質なせいなのか、それとも石にでもぶつかったのか、徐々に意識が遠のき始めた。


 由香里を守りたい。それなのに腕から力が抜けていく。そして類の腕から抜け落ちた由香里は、止まることなく滑り落ちていった。


 そのとき、ようやく急勾配の手前に辿り着いた一同は、ふたりを確認するために斜面を見下ろした。すると、長い急勾配を過ぎた先には平地があり、その向こう側には川が流れていたのだ。


 予想外の光景に驚いた明彦は息を呑んだ。

 「すごい……まるでアマゾン川みたいだ」


 「いまはそれどころじゃないでしょ」不安に駆られる綾香は、大声で呼びかけた。「類! 由香里!」


 結菜と美紅も、大声でふたりを呼んだ。

 「類! 由香里!」


 不安に駆られた恵が、道子に訊く。

 「ねえ、ふたりはどこに行っちゃったの?」


 「あたしに訊かれてもわかんないよ」恵に言った道子は、大声で呼びかけた。「ふたりともどこなの! 返事して!」


 急勾配を見下ろす一同は、ふたりの名前を呼び続けた。その直後、平地に茂った植物のあいだから、ひょっこりと顔を出す由香里の姿が見えた。


 背を起こした由香里は、心配する一同に顔を向けるよりも先に、川に目をやった。

 「すごい……」


 綾香が、声を張り上げて由香里に訊く。

 「類は? 類はどこなの!」


 「転落したときは類が守ってくれてたんだけど」綾香に顔を向けた由香里は、急勾配の中間を指さしながら説明した。「その辺りで類の腕から抜け落ちて、そのあと、あたしひとりで滑り落ちたの」


 類を探そうとした綾香は、急勾配に足を踏み出した。そのとき、明彦が綾香の腕を掴んで引き止めた。


 「ここは俺たち男子に任せて。斜面は雨水で滑りやすい。捻挫でもしたら大変だ」


 「でも……」


 純希も綾香に言った。

 「明彦の言うとおりだ。俺たちが類を見つけるから大丈夫だよ」


 不安げな表情の綾香に目をやった道子がふと思う。

 

 (やっぱり……綾香って類が好きなんじゃ……)


 恵が言った。

 「あたしたちはここで待ってる。このヒールだと捻挫して迷惑をかけるのがオチだもの」


 結菜が言った。

 「明彦もみんなも足元に気をつけてね」


 明彦が返事した。

 「うん」


 男子は肩から荷物を下ろした純希と健とともに、周囲の植物を掴んでバランスをとりながら、急勾配へ足を踏み出した。慎重に下りていくも、明彦が泥濘に足を取られて尻もちをつく。頑張っているものの、体を動かすことが苦手。


 健が明彦に声をかけた。

 「大丈夫か?」


 「平気だよ」返事する明彦。「このくらいなんともないよ。ちょっと足が滑っただけだ」


 「そっか、気をつけろよ」


 「うん。ありがとう」


 由香里が指さした位置に辿り着いた純希が、植物の大きな葉を捲って、その下を見てみた。類がいないので由香里に訊いた。

 「本当にここ?」


 類がいるはずの位置なのだが……由香里は首を傾げた。

 「そこだと思ったけど……」


 純希は言った。

 「だと思った、じゃダメじゃん」


 由香里は言った。

 「だって似たような草ばかり生えてるし、あたしの記憶ではその辺りなの。なんでだろう? おかしいなぁ」


 明彦が恐る恐る言った。

 「もしかして……川に落ちたとか言わないよな?」


 光流が焦る。

 「ここが異世界なら俺たちの世界の図鑑に載ってないような、モンスター級の生き物が川に棲んでるかもしれない。喰われてたらどうしよう」


 明彦は光流に言う。

 「やめろよ、縁起でもない」


 この流れの川に落ちたらいくら類でも……。純希も不安に駆られた。

 「だけど、もしそうだとしたらヤバいんじゃねえの?」


 由香里は否定する。

 「それはないよ、絶対にない。途中まではしっかりと支えてくれてたの。まちがいなく斜面のどこかで気絶してる。植物が邪魔して類が見えないだけ」


 「それならいいけど」純希は、由香里から男子たちに顔を向けた。「とにかく、この辺一帯を探そう」


 男子は、植物の葉を捲って類を呼び続けた。



 類―――


 類―――



 (みんなの呼ぶ声が聞こえるような気がするけど、気のせいかな……)


 気絶していた類がゆっくりと目を開けると、一定の間隔を置いて蛍光灯が設置された校内の天井が見えた。


 (昨夜の夢と同じ、学校の夢だ……)


 十三人が通う教室の向かい側の水飲み場……目覚めた位置も同じ。しかし、ちがいがひとつ。昨夜の夢は夜の校内だったが、いまは明るい日光が射している。


 類は背を起こし、立ち上がった。教室の引き戸の硝子越から壁時計を見上げた。文字盤の数字は反転している。


 (夢と現実の時間は同じ。十一時四十分か。ずいぶんと歩いたんだな)


 早く目覚めて先に進みたいところだが、気絶してここにいるのだ。


 (どうせなら散策してみよう。いつもの学校とのちがいを発見できるかもしれない)


 まずは、教室の引き戸を開けようとしてみた。昨夜の水飲み場の蛇口と同様に微動だにしないので諦めた。その直後、まるで自動ドアのように引き戸が開いたのだ。


 驚いた類は無人の教室を覗いてみる。幾つかの机が勝手に移動して、お昼ご飯を食べるときのように向かい合わせになった。


 そして、ふたたび引き戸が閉まる。そして、また開く。


 昨夜の夢では物が勝手に移動することなどなかった。不気味に感じて後退った、そのとき、後方から生徒のざわめく声が聞こえた。


 後方は水飲み場だ。廊下には自分だけ……。


 恐る恐る振り返って見てみると、自分の姿すら映し出さない水飲み場の鏡に、部活動の生徒たちが行き交う姿が映っていたのだ。


 (なぜ、鏡に生徒が?)


 教室には、昼食をとる補習の生徒が席に座っている。生徒が教室から出たり入ったりを繰り返すたびに、こちら側の無人の引き戸が何度も開く。


 類は水飲み場に歩み寄り、鏡に手をついて、その光景を訝し気に凝視した。自分が通う二年三組の教室の中を歩くのは、いつもの見慣れた同級生だ。昨夜の夢で “鏡の中から現実の世界を覗いているような夢” と綾香が言っていたのを思い出す。


 (俺は現実世界の校内を鏡の中から覗いているのか?)


 ここには、自分意外、誰も存在しない。現実世界の生徒が物を移動させると、鏡の世界でも現実と同じ物が同じように移動する。


 「鏡の世界と現実がリンクしているとしか考えられない」独り言を言い、必死に考える。「信じられないことばかりだ」

 

 通常の夢は脳が見せる。けれども島では、眠っているときや気絶しているあいだ、現実とリンクしている鏡の世界に意識だけが移動する。


 つまり、肉体はジャングル、意識はここ。そして、この鏡の向こう側はおそらく……現実の学校だ。


 ジャングルだとスマートフォンの日付は八月一日のまま。しかし、鏡の向こう側に広がる現実世界は八月二日なのだろう。


 (俺たち十三人の身に何が起きたんだ?)

 

 類は鏡の向こう側にいる生徒たちを見ながら考える。


 (あいつらの声が聞こえるなら、こっちの声も向こうに届くだろうか?)


 「おい!」鏡を叩いて、腹から声を張り上げた。「おい! 聞こえないのか!」


 類の声に反応することなく生徒たちは行き交う。現実の校内に、こちら側の声は届かないようだ。姿は見えなくても会話が可能であれば助けてもらえる気がした。期待がはずれた類は肩を落す。


 「やっぱり無理か……」


 落胆してうつむく類の視線の先にある水道の蛇口がひとりでに回り、飲み口から水が流れ出てきた。鏡にはジャージを着た部活動の男子生徒ふたりが映っている。


 蛇口を捻った生徒が飲み口に口を寄せ、水を飲んだ。すると、こちら側の世界の蛇口から流れる水も捩れていった。類も蛇口に口を寄せて水を飲もうとしたが、口腔内に水は入ってこない。


 この世界にあるすべての物を動かせないのと同じで、食糧があったとしても胃袋を満たせないんだ、と理解した類は蛇口から口を離した。


 鏡に映っている生徒は首を傾げて、もうひとりの生徒に言った。

 「なんかいま、誰かに顔を押されたような……」


 もうひとりの生徒が言った。

 「誰がお前の顔を押すんだよ」


 「それもそうだけど」


 鏡越しに映る二年三組の教室を見て、生徒は悲しそうな表情を浮かべた。

 「三組のクラスの連中が乗った飛行機が墜落したニュース見た?」


 「どのチャンネルもそのニュースだろ。かわいそうにな」


 ふたりの会話に目を見開いた類は、自分の声が現実世界に届かないと理解しながらも、訊かずにはいられなかった。

 「捜索は開始されているのか! 頼むから教えてくれ!」

 

 偶然、類の問いかけに答えるかのように生徒が会話を続けた。

 「捜索が難航してるみたいだけど、海に墜落してたら死んでるだろうな」


 類は声を張った。

 「海じゃない! 陸地に墜落したんだ! 俺たちがいるジャングルが現実の世界ならミクロネシアのどこかの島に墜落したんだよ!」


 もうひとりの生徒が言う。

 「ミクロネシアの……島の名前は忘れたけど、その一帯を中心に捜索してるみたいだぜ。それにしても十三人って、不吉な数字だよな」


 「俺も旅行に行くときは十三人で行かないようにする」


 「お前、友達少ないんだからどっちにしても無理じゃん」


 「ネット友達ならいっぱいいるけどね。どこの誰かは知らないけど」


 笑いながら会話するふたり。ひとはこんなものなのか……自分さえよければそれでいいのか。悲しくて目に涙が浮かんだ。


 「生きてるのに……俺たち十三人は生きてるんだ。不吉な数字なんかじゃない。みんな友達だ」おもいっきり鏡を叩いた。「好き勝手言いやがって! 生きてるのに! 生きてるのに!」何度も “生きてる!” と声を張り上げたあと、静かに言った。「誰か助けて……」


 ふたりの生徒が水飲み場から立ち去ると、こんどはジャージ姿の女子生徒ふたりが女子トイレに入っていった。


 少しばかり気が咎めたが、類は女子トイレに足を踏み入れた。洗面所の鏡の前に立った女子生徒は、長い髪を一本に束ね始めた。


 「三組の生徒が乗った飛行機が墜落したんだってね」


 自分たちが通う学校の生徒が航空事故に遭ったのだ。当然、ここでも旅客機の墜落事故の会話が始まる。


 「二組に友達がいるんだけど、菅井理沙って子の彼氏も乗っていたらしくて、憔悴しきってるみたいだよ。かわいそうにね」


 落ち込みやすい性格なのは子供のころからだ。生きている―――それを伝えることさえできれば、理沙に元気が甦るはずだ。


 類は鏡に手をついた。

 「勝手に殺すなよ……」


 もうひとりの生徒が言う。

 「あたしも彼氏が乗ってたらって想像するとつらい。気が気じゃないと思う」


 「無事だといいけど、絶望的ってかんじ」


 「飛行機事故は生存率が低いからね。海に墜落してたら死んでるよ」


 「俺たちは生きてるのに……墜落したのは海じゃない陸地だ」類は頭を抱える。「どうしたら、それを理沙に伝えられるんだ?」


 突然、話が飛ぶ生徒。

 「あ、そうだ。そういえば、うちの近くに新しいイタリアンレストランがオープンしたの。こんどランチ食べに行かない? 超美味しいみたいだよ。ママが絶賛してたもん」


 「いく。パスタ大好き。食後のデザートはもちろんジェラートで決まり」


 「当然、ジェラートははずせないでしょ」


 「そろそろ部活に戻ろうか。先輩がうるさいし」


 「そうだね」


 トイレから廊下に出た女子生徒ふたりも他人ごと。


 だが、鏡に映る生徒たちは、なんとなく顔を知っている程度だ。喋ったことはない。


 類には、ほかのクラスにも他校にも友達がいる。どれだけの友達が本気で自分たちを心配してくれているだろうか?


 友達だと思っていたひとたちが自分をどう思っているのか……いままで考えたこともなかった。‟楽しければそれでいい” そう思っていた。


 両親が共働きでひとりっこの類は、幼いころいつも寂しく過ごしていた。保育園の空きもなく、気がつけば特技はテレビゲームでひとり遊び。


 働き詰めの母親は、お昼の休憩時間に必ず自宅に帰ってきては、類と一緒に昼食をとって、また職場へと戻ってしまう。だが、ようやく念願が叶って、保育園の空きが見つかった。


 たくさんの友達をつくる、それが類の目標だった。ひょうきん者の明るい類は、すぐにその目標を達成した。ひとりぼっちは嫌だ。できるだけ多くの園児たちと仲良く遊んだ。


 保育園に通い始めて数ヶ月後、真っ直ぐな前髪が特徴的なおかっぱ頭の綾香が入園してきた。小児喘息持ちの綾香も人見知りしない性格で、髪型をからかっているうちに自然と仲良くなっていった。


 大勢の友達の中で一番の仲良しが綾香だった。恋愛感情はなく、大事な親友だ。小学校、中学校、そして現在も、綾香とは親友。それにいまでも友達が多い。


 浅く広い遊び仲間を含めて、綾香も明彦たちも、本当のところ俺をどう思っているのだろう……。


 「テンション落ちるよな」


 重苦しいため息をついた類は、頭を切り替えた。いまは友好関係を気にしている場合ではない。自分たちの生存をどうにかして理沙に伝えなければならない。


 「そうだ……」類ははっとした。「そうだよ! 校内に留まる必要はないんだ。学校から出ればいいじゃん!」


 急いで女子トイレから出て、廊下を走って、その先にある階段を駆け下りた。一階に降り立ち、職員室の向かい側に設置された水飲み場の鏡とトイレを突っ切って昇降口へ向かった。


 外に出たいが、扉が閉じていれば、いまの自分には開けられない。祈るような気持ちで視線の先にある昇降口を見ると、偶然、扉が開いていた。類は閉め忘れた学生に感謝して、心の中で “ガッツポーズ” をした。


 「よっしゃ!」


 全力疾走で扉の向こう側に広がる校庭を目指す。しかし、下駄箱を通過して、扉の手前に辿り着いた瞬間、見えない力に押し返されるように跳ね飛ばされたのだ。類は勢いよく転倒した。


 (うそだろ? 学校から出られない?)


 腰を上げて、もう一度、試してみる。同じように扉の外に向かって手を伸ばしてみた。やはり、弾き返されてしまう。校内から指先ひとつ出せない。同極の磁石が反発し合うように、指先が弾かれる。  


 (理沙に逢えないのか? 生きているって伝えたいのに!)


 肩を落して廊下を歩く類は、生徒たちが行き交う姿が映し出された水飲み場の鏡を見た。


 この鏡を割ったら現実の世界に戻れるだろうか……救助隊なんかこない気がする。きっと異世界に突き落とされたんだ。


 けれども……本当は、ミクロネシアのどこかの島に墜落したと思いたい。希望を捨てたくない……でも……。


 ため息をついたそのとき、昇降口の方向からやってきた理沙の姿が鏡に映った。どれだけ泣いたのだろうか、いつも見慣れた澄んだ瞳が赤く充血していた。


 「理沙! 理沙!」声が届かないとわかっていても、声をかけずにはいられない。「俺だ、類だ!」


 帰宅部の理沙がどうして学校に来たのか不思議だった。だがいまは、その理由を知るよりも、理沙がどこに向かおうとしているのかを知りたい。


 懸命に鏡を覗く。映っているのは廊下の途中までだ。その先は途切れている。理沙の行き先は勘に頼るしかなさそうだ。


 廊下の突き当りの奥まった位置に、白い塗装が施されたスチール製のドアがある。現在は倉庫になっているが、以前は演劇部の衣装部屋だった。そのため、大きめの姿見が壁に設置されている。貴重品を保管しているわけではないので施錠はされておらず、誰でも自由に出入りができる。


 理沙とふたりっきりになりたいときは、密かにここを利用させてもらっていた。もしも勘が正しければ、理沙は倉庫に入るはずだ。なぜならふたりにとって特別な場所だからだ。


 廊下を走る類は、倉庫の手前に立った。数秒後、ドアが開いた。類はドアが閉じないうちに、倉庫に足を踏み入れた。歩を進めて鏡を覗き込むと、膝を抱えて泣く理沙の姿が映っていた。勘が当たってよかったと安堵する反面、どのようにして自分たちの生存を伝えればよいのか、その手段に悩む。


 理沙は、左手の薬指にとおした指輪を愛おしそうに頬に寄せて泣いていた。婚約指輪が唯一の心の支えになっているようだ。


 類は、胸が張り裂けそうになる。

 「理沙……泣かないで」


 理沙は、泣きながらスマートフォンの画面を見つめる。類からの着信もなければ、LINEの受信もない。

 「類、帰ってきて。お願いだよ……」


 類は鏡を叩きながら、理沙に向かって声を張った。

 「俺はここだ! ここにいる!」


 鏡に顔を寄せ、何度も声を張った。そのとき、息がかかった鏡が白く曇ったのを目にする。類はもういちど鏡に息を吐きかけた。そして、一か八か祈るような気持ちで、右手の人差し指を曇った鏡に押し当て、理沙の名前を書いてみた。


 《りさ》


 (頼む! 俺の書いた文字が現実世界の鏡に反映してくれ!)


 もし、理沙から文字を確認できれば、反転して見えるはずだ。なるべく単純明快に書いたほうがよいだろう。


 「顔を上げて鏡を見るんだ!」


 類の気持ちが届いたかのように、理沙は顔を上げて鏡を見た。

 「ひどい顔……」


 類は鏡に息を吐きかけて、根気強く名前を書き続けた。


 《りさ》


 理沙は、鏡に映し出された反転した文字に気づく。

 「何これ……あたしの名前?」


 「そうだよ、理沙」

 (よかった! 文字が見えてる!)


 《おれだ! 類だ》

 

 作戦は成功したというのに、理沙は怯えた表情を浮かべて腰を上げた。突然、鏡に文字が現れたのだ。誰だって怖いだろう。それでも類は、根気強く自分の存在を伝えようとした。せっかく逢えたのに、どこにも行かないでほしかった。


 《生きてる!》


 後退りする理沙に、どうすればわかってもらえるのか。


 類は閃いた。理沙が好きだと言ってくれた口癖を書くしかない。

  

 《なんとかなる》


 また息を吹きかけて文字を書いた。


 《なんとかなる! だから 泣くなよ》


 理沙は目を見開き、勢いよく鏡に両手をついた。

 「うそでしょ! 類!」


 「そうだ、俺だ!」


 やっと気づいてもらえた! これで自分たちの生存を伝えられる! 安堵した類は、鏡に息を吹きかけて、ふたたび文字を書いた。


 《おれたちは生きてる 安心しろ》


 「ちがう……類じゃない……」理沙は泣き崩れた。「やっぱり、類じゃない……類なわけない」


 類は頭を抱えた。

 「本当に俺なんだよ。信じてくれ、理沙」


 口頭で伝えられたらてっとり早いのにと思う。その都度、鏡に文字を書かなければ伝わらない。まどろこしいがこの方法しかない。理沙に理解してもらうまで何度も書くしかないんだ。


 《類だ! おれたちは生きてる! 信じられないかもしれないけど 生きてる!》


 「本当に類なの?」


 信じられなくて当然だろう。それでも信じてくれなければ困る。十三人の生存を伝えなくてはならない。


 《本当だ!》


 涙を拭った理沙は、訝し気な表情を浮かべて、類が書く文字を凝視した。


 墜落した旅客機に搭乗していた類が、なぜ学校の鏡の中にいるか……。


 類以外の何者かが、本人の口癖を書くはずもなく……お世辞にも上手とは言い難い特徴的な筆跡。鏡の向こう側で文字を書いているのは、まちがいなく類だ。


 理沙は、動揺する気持ちを抑えて冷静に状況を訊こうとした。こんなときこそしっかりしなくてはいけない。


 (あたしは類の彼女なんだ。類を支えなきゃ)


 「類……どうして鏡の中にいるの? 何が起きたの?」


 やっと信じてくれて嬉しい。しかし、どのように説明すればわかってもらえるだろうか。自分でさえ、自分が置かれている状況がわからないのだ。


 (きっと、俺たちが迷い込んだジャングルは現実世界じゃないんだ。道子たちは完全に異世界だと思い込んでいる。でもそれは、思い込みじゃなくて、あの島は本当に……。俺たち十三人は、飛行機が墜落したのと同時に異世界に迷い込んだんだ―――)


 あの島を異世界だと認めることが怖かった。異世界だと百パーセント認めてしまえば、救助への望みが完全に断たれてしまう。それが怖かったのだ。だが、そろそろ覚悟を決めなくてはならない。


 (受け入れないとな、すべてを―――)


 《飛行機が落ちて そのとき おかしな世界にワープした たぶん異世界》

 

 「異世界!」目を見開き驚く。「どういうこと!」

 

 どのように説明すればよいか悩む。

 「どういうことって訊かれても……」


 もしも現実世界にいるのが綾香なら、細かい説明が必要だったかもしれないが、理沙の頭は柔軟だ。非現実的な超常現象に関しても、科学では解明できない何かがあるんだろうね、と受け入れてしまうタイプだ。


 「それって……」理沙は少し考える。「バミューダトライアングルの伝説みたいなことが起きたってこと?」


 バミューダトライアングル―――魔の三角地帯。フロリダ半島の先端、大西洋にあるプエルトリコ、バミューダ諸島を結んだ三角形の海域で、ここを通った船や飛行機が忽然と消えてしまうという奇妙な伝説がある。もし、墜落の衝撃で異世界にワープしたとすれば、バミューダトライアングルの伝説に近いものがあるだろう。


 《そんなところだ 肉体はジャングル 眠るとなぜかここにいる》


 「眠ると鏡にの中に? どうして?」


 それはこっちが知りたいくらいだ。

 《わからない》


 「でも、そこにいるんだよね?」


 《りさも見えるし 声も聞こえる》


 「あたしから類は見えない」窓硝子を覗くように鏡を見る。「この室内と、あたしだけが映るふつうの鏡……」


 《おれの字が見えるじゃん》


 「そうだけど、寂しい」


 《すぐに会える》類は訊いた。《どうして学校に?》


 「落ち着かなくて、なんとなく学校に……」


 居ても立ってもいられなかったのかと、理沙が学校に足を運んだ理由を理解した類は、スマートフォンの日付が気になった。現実世界の日付は、まちがいなく八月二日だとわかっている。それでも念のために確認しておきたかった。


 《スマホ見せて》


 類とお揃いの待ち受け画面を鏡に向けて訊いた。

 「スマホがどうかしたの?」


 待ち受け画面に表示された反転した日付は、<8月2日 水曜日 12:30>と思ったとおり本来の日付。


 「やっぱり、八月二日か……」と、呟いた類はスマートフォンの画面を確かめた理由を教える。


 《ジャングルにいると日付がきのうのままなんだ》


 理沙は訝し気な表情を浮かべた。

 「どういうこと? 日付がきのうのまま? それってずっと、きょうの繰り返しってこと? 飛行機が墜落したときにスマホが壊れちゃったんじゃないの?」


 理沙が言うように、最悪の場合はきょうの繰り返しかもしれない。十三人は永遠に十七歳のまま……たとえそうだとしても心配させたくない。


 《なんとかなる》


 どんなときでも優しい類が恋しい。理沙は、逢いたい気持ちで胸がいっぱいになった。


 「こんなにも不思議なことが起きるなんて信じられない。でも、生きててよかった。本当に心配したんだよ」とめどなく溢れる涙を拭った。「類の顔が見たい。逢いたい」


 おもいっきり息を吐きかけた鏡に、手のひらを押し当てながら思いを口にした。

 「俺も逢いたいよ」


 幾度となく繋いできた類の手形が鏡に映し出された。大好きな類の手。長い指。まちがうはずがない。理沙は類の手形に自分の手のひらを重ねた。類の体温は感じられず、冷たい鏡だった。それでも、変わらない想いと愛を感じとることができた。


 「類、愛してる。誰よりも愛してる」


 類は指先に想いをこめた。

 《おれも愛してる》


 「本当に生きてるんだよね?」


 《信じろ》


 類の言葉を信じた理沙は安堵の涙を流した。

 「よかった。本当に、生きててよかった。ずっとここで待ってる。類とみんなをここで待ってるから」


 自分たちの生存を伝えられた類も安堵した。そして、いつも理沙が倉庫で待っている。すごく心強く感じた。


 《夜にまたくる みんなもいるから》肝心なことを伝える。《ドアを開けておいて ここからだと何も動かせないんだ》


 「わかったよ。何時ごろ来るの? 先生に見つからないように隠れてる」


 理沙に逢えるなら今夜も早い時間に就寝だ。みんなも疲れているだろうから、反対はしないはずだ。

 《9時》


 「待ってる、ずっと、ずっと」類の手形が消えていたので、鏡に手をついたまま言う。「もう一度、類と手を合わせたい」


 類は鏡に息を吐きかけて、理沙の手のひらに、自分の手のひらを押し当てた。すると理沙が、鏡にそっと唇を押し当ててきた。理沙の桜色の唇に、類は自分の唇を押し当て、目を瞑った。手のひらを合わせたときと同様に、互いの体温は感じられない。


 鏡なんかなくなればいいのに―――

 

 大好きだ、理沙―――


 冷たい水滴が額に落ちたのを感じた類は、ゆっくりと瞼を開けた。目の前にいた理沙が消えて、代わりに緑色の葉っぱが見えた。そして、みんなの声も聞こえた。


 (肉体に意識が戻ったのか。もう少しだけ理沙といたかった)


 類が背を起こすと、正面に立っていた明彦が驚きの声を上げた。

 「うお! ビビったぁ! そんなところにいたのかよ!」


 一同は、類の姿が見えたので安心した。


 綾香が急勾配の上から類に声をかけた。

 「みんな心配したんだよ!」


 類は綾香に顔を向けて、軽く手を挙げて応えた。安心して微笑んでいる一同とは対照的な表情の類。学校の鏡の世界で起きたできごとを真剣に伝えなければならないのだ。笑える心境ではない。


 「大丈夫だ」


 綾香は、いつになく真剣な面持ちにただならぬものを感じた。こんなとき、いつもの類なら、とびきりの笑顔を見せてくれるはずなのに……。

 (どうしちゃったんだろう?)


 純希は類を見て首を傾げた。

 「さっきお前がいる場所を見たのに。おかしいなぁ……」


 明彦は純希に言った。

 「似たような植物ばかりだから、見たようで見てなかったんだよ。純希の確認不足とかんちがい」


 純希は独り言のように言う。

 「へんなの。絶対に見たはずなのに」


 腰を上げた類は、純希に言った。

 「俺はずっとここに転がっていた。だって気絶してたんだから」


 腑に落ちない様子の純希。気絶していた人間が大地を這って移動するはずがない。見落としていただけだったんだな、と頭を掻いて誤魔化した。

 「川が流れてたんだ。びっくりだろ」


 類は川に目を転じた。

 「ああ」


 目に涙を浮かべた由香里が、泥まみれのTシャツを脱いで川へと歩を進めた類に駆け寄った。

 「ごめんね。怖くて取り乱しちゃって」


 「いいんだ」由香里の髪の毛をくしゃくしゃと撫でた。「女子は服が泥だらけになっても脱げなくて大変だな。けど、海に辿り着くまでの辛抱だ」


 「うん」類の表情が暗かったので、由香里は訊いた。「気絶しているあいだ、もしかして……またリアルな夢を見たの?」


 健も類に訊く。

 「俺たちにとって大事なことなんだろ? お前の顔を見たらわかる。どんな夢だったんだよ?」


 「新たな疑問と進展だ」類は答える。「それを話す前にTシャツを洗わせてくれない? 泥だらけで気持ち悪いから」


 「うん」健もTシャツを脱いで雨水を絞った。「俺も脱いじゃおうかな」

 

 男子は濡れたTシャツを着ている必要はない。全員、Tシャツを脱いでタオルのように首に掛けた。


 中肉中背でややふっくらしている明彦は、男子たちの上半身に目をやってから、自分のお腹を見つめた。

 「備えあれば憂いなし。蓄えあれば飢餓はなし。新学期は人生初のスリムな俺だな」


 斗真が明彦に冗談を言う。

 「空腹でデスゲームが起きたら真っ先にお前を喰う」


 明彦は苦笑いする。

 「俺なんか喰っても不味いし、腹壊すと思うよ」


 斗真は軽く笑った。

 「たしかにゲリしそうだな」


 類は、川の水でTシャツを洗った。やはり血液は落ちなかった。これ以上、洗っても綺麗にならないので、みんなと同じように首にTシャツを掛けた。


 「雨はいつ上がったの?」


 健が類の質問に答える。

 「お前が目覚める十五分くらい前」

 

 類は空を見上げた。青天のきのうとは対照的などんよりとした鈍色の雲に覆われた空。


 はたして、晴れるのだろうか……。


 だがいまは、その疑問を考えるよりも、学校でのできごとについて考えなくてはならない。落ち着いて話すためにも、まずは女子がいる場所に戻ったほうがよさそうだ。


 「上まで登ろう」


 男子と由香里は、周囲の植物を掴みながら急勾配を登り始めた。乾いた大地なら一気に駆け上がれそうだが、足元が滑りやすい。慎重に歩を進めて急勾配を登りきった。


 由香里は申し訳なさそうに謝った。

 「みんな心配かけてごめんね」


 道子が由香里の体を心配する。

 「怪我してない?」


 「大丈夫だよ。類が守ってくれたから」道子に微笑んだ由香里は、類に礼を言う。「本当にありがとね」


 類は口元に笑みを浮かべた。

 「うん、気にしないで」


 由香里は念のために訊いた。

 「類も怪我はしてないよね?」


 類は答える。

 「平気だよ」


 健は、真摯な面持ちで類に言った。

 「あのさ、さっきの話の続きなんだけど、夢の中で起きた新たな疑問と進展について早く教えてほしい」


 明彦も類に訊く。

 「進展ってことは、少しは期待していいんだよな?」


 「まあな」明彦に返事した類は、一同に言った。「気絶してるあいだ、また学校の鏡の世界にいた。地獄絵図みたいな場所なら最悪だけど、この先もずっと学校の鏡の世界に行くことになると思う」


 一同はざわめいた。


 明彦は訊く。

 「学校? どうして? 根拠は?」


 類は答えた。

 「根拠はない。なんとなくそんな気がするんだ」


 健が言った。

 「眠るたびに鏡の世界の夢ってことか。奇妙だけど、苦痛がないからいいよ」


 明彦も健と同じことを言う。

 「学校の夢で本当によかったよ。それこそ、地獄絵図みたいな夢を見たら大変なことになるって心配してたんだ」


 類はふたりに言う。

 「じつは、その夢なんだけど、夢であって夢じゃないんだ」


 健は目を見開く。

 「どういう意味だよ?」


 明彦は訊く。

 「それがお前の言う新たな進展ってやつなのか?」


 「そうだよ」と明彦に返事した類は、結論を先に言う。「昨夜から今朝にかけて、鏡の中から校内を覗く奇妙な夢を見た。そう……俺たちは夢だと思い込んでいた。だけど、ちがった。鏡に映っていたのは現実世界の校内だったんだ。つまり、鏡を見れば現在の校内の様子を知ることができる」


 類の話を聞く一同は、驚きの表情を浮かべた。


 明彦は類に訊く。

 「ちょっと待ってくれ。それって……鏡の世界と現実世界がリンクしているってことなのか?」


 「そういうこと。そして外部との接触も可能だ」


 「外部との接触って……現実世界のやつと?」


 「うん」


 「マジかよ」


 「鏡には、部活動や補習の生徒が行き交う姿が映っていた。現実世界にいる生徒が周囲の物を移動させると、鏡の世界でもそれと同じ物が移動するんだ。それから、俺の声は現実世界に届かないけど、彼らの声はふつうに聞こえる」


 「俺らの声が届かないのに、どうやって接触するんだよ?」


 「鏡に息を吐きかけて文字を書くと、現実世界の鏡に反転した文字が映し出される。偶然、学校に来ていた理沙と倉庫の鏡でやりとりしたからまちがいないよ。少しまどろっこしいけど、やりとりできる手段があってよかった」


 「そんな方法があったのか……よく思いついたな」接触する方法を見つけた類に感心したあと、肝心な日付について訊いた。「それから、もうひとつ質問なんだけど、現実世界は八月二日なのか?」


 「理沙にスマホの画面を見せてもらったけど、思ったとおり八月二日。本来の日付だった」


 「やっぱり、そうか……」


 こんどは綾香が類に訊く。

 「学校の外には出られないの?」


 類は答える。

 「学校の外に出ようとしたけど、見えない力に弾き返された」


 類の言っていることが理解できなかったので、綾香は訊き返す。

 「見えない力?」


 類は、体験したことをそのまま伝える。

 「うまく説明できないけど、とにかく弾き返されてしまうんだ。俺たちは学校の外には出られない」


 「そうなんだ……残念」綾香は言った。「でも、どうして学校の鏡なんかに意識が移動しちゃうのかな? 学校と鏡になんの意味があるんだろう?」


 類は言った。

 「その意味がわかれば苦労しないよ」


 綾香はぽつりと言う。

 「そうだよね……」


 健が類に訊く。

 「お前が言う、新たな疑問と進展だけど、進展はとりあえず理解した。で、疑問は?」


 類は答えた。

 「鏡の向こう側が現実の学校なら、鏡を割ったらどうなるんだろうって考えたんだ。だから、いっそうのこと鏡を割ってみたいんだ」


 健は類の考えに首を傾げた。

 「鏡を? そんなことしてどうなるんだよ」


 明彦も言った。

 「そうだよ。鏡を割って現実世界に戻れるならラッキーだけど、けっきょくのところ肉体はここなんだ。精神だけが現実に戻っても意味がない」


 由香里が言う。

 「肉体と精神が分離してる状態なんだから幽体離脱と変わらないじゃん」


 道子も由香里と同感だ。

 「言えてる」


 みんなに意味がないと言われても、類はどうしても気になる。

 「そうかもしれないけど、鏡を割ったらどうなるのか試してみたいんだ」


 翔太も言った。

 「割れた鏡の破片が足元に散らばるだけで何も起きないんじゃない?」


 明彦は類に訊く。

 「つまり、単純に実験がしたいってこと?」


 類はうなずく。

 「そういうこと」


 一同は納得した。明彦は言った。

 「わかったよ、なるほどね」


 綾香が類に確認した。

 「倉庫には理沙が待機してるんだよね?」


 類は答える。

 「うん。先生に見つからないように倉庫に隠れてる」


 思い立ったらすぐ行動に移す性格の綾香も試してみたい。

 「だったら今夜、決行するべきよ」


 純希が言った。

 「その実験面白そうだし、俺も賛成」


 健が純希に言った。

 「面白そうって、理科の実験や遊びじゃないんだぜ。俺たちの運命がかかっているんだ。もっと真剣に考えないと」


 純希は言った。

 「俺は真剣だよ。思い詰めても結果は同じだ。それに、前向きに考えないとやってらんないじゃん。こんな状況だからこそ、前向きに考えないと。思いついたことはやってみようぜ」


 「純希の言うとおりだよ」類も言った。「俺……らしくないことに落ち込んだんだ。でもさ、落ち込んでもしかたないし、だから覚悟を決めた」


 純希は類に訊く。

 「覚悟?」


 類は言った。

 「この島で起きることのすべてが現実世界では絶対にありえない。ここがミクロネシアなら俺だって嬉しい。でも……すべてを受け入れようと思ったんだ。

 だって、どう考えてもふつうじゃない。学校の鏡に意識が移動するなんて絶対にへんだよ。硬すぎる植物も虫も、ここで起きている何もかもが現実離れしている」

 

 純希は類の言葉にうなずいた。

 「ここが異世界だと思ったほうがいいってことだろ? 俺も同じ考えだ」


 類は綾香にも訊いた。

 「お前はどう考えてる?」


 綾香は言った。

 「あたしも純希と同じ考えだよ。非現実的だと否定し続けても、何も解決できそうにないからね。あたしだってここが現実世界なら嬉しい。でもそれを期待しすぎても、あとあと落胆するだけ。だったら、ここで覚悟を決めたほうがいい」


 意外だった。純希と綾香は、この島がミクロネシアだと言い張ると思っていた。だからこそ、墜落した旅客機の捜索活動が開始されていることをあえて伝えなかったのだ。

 

 純希は一同に訊く。

 「みんなもそうだろ?」


 全員が、この島は現実世界ではないだろうと考えていた。


 明彦が言った。

 「ここがミクロネシアのどこかの島ならありがたいけど、その可能性は薄そうだしな」


 綾香が明彦に顔を向けた。

 「可能性なんて関係ない。あたしたちは絶対に生きて帰る。でしょ?」


 明彦はうなずく。

 「もちろんだよ」


 綾香は類に言った。

 「それぞれ覚悟ができてるよ。だってこの島はふつうじゃないもん」

 

 全員の考えが一致した。それなら、島から抜け出すための手段を模索しよう。


 類は真剣な眼差しを一同に向けた。 

 「俺たちはどんな状況でもなんとかしてみせるし、なんとかしなきゃいけない」


 「なんとかしなきゃいけない、じゃなくて、なんとかなる、だろ?」純希は類の口癖を言った。「死神の島だろうとネバーランドだろうと、そんなのどっちだっていい。とにかく、みんなでこの島から脱出する、それだけだ」


 気の小さい由香里も覚悟を口にした。

 「さっきは取り乱しちゃったけど、もう大丈夫だよ。恐怖や不安に負けたら終わりだもの。みんなと一緒に頑張りたい」


 類は由香里の言葉にうなずく。

 「うん、頑張ろう」


 真剣な面持ちで光流が言った。

 「不安要素が多いけど、みんなで力を合わせれば大丈夫だ」


 純希は言った。

 「同級生も俺たちの帰りを待ってる。絶対にこの島から脱出してやる」


 鏡に映る生徒は、いつもどおりの表情で補習を受けていた。部活動の生徒も同じだった。


 墜落した旅客機に乗っていた十三人の悲劇を先生から聞かされたはずだ。悲しみの表情を浮かべたのは、そのいっときだけなのだろう。


 ふだんはポジティブで明るい類でも考えてしまう。みんなは、いつまでも自分たちを待っていてくれるのだろうか―――


 「同級生か……」と、類はぽつりと呟いた。


 うつむいた類に、純希は訊く。

 「どうかしたのか?」


 「いや……なんでもない」


 類は、心の乱れがすぐに表情に出てしまうタイプだ。鏡の世界に移動していたあいだ、この場では言いにくいできごとがあったのだろう、と純希は察した。そのうち類から言ってくるだろう。いまは何も訊かずにいよう。


 (ムードメーカーがしょんぼり。だったら俺が、その代役を引き受けてやろうじゃないの)


 「浜辺に辿り着いたら鍋が入った宝箱でもないかな、なんてな」無理してしまったのか、頓珍漢な冗談を言ってしまった。


 類は訊く。

 「宝箱? どうして鍋なんだよ」


 純希は答える。

 「だって煮沸させたら川の水が飲めそうじゃん」


 明彦が言う。

 「それを言うなら、真水が出てくる摩訶不思議な蛇口が入ってるほうがいいな」


 純希は明彦に言った。

 「いいね、それ。俺も欲しい」


 明彦は純希の冗談につきあったあと、真剣な面持ちで言った。

 「あのさ、宝箱の話よりも今夜の話をしたいんだけど、いいかな?」


 「今夜?」純希は首を傾げた。「さっき話し合ったじゃん。理沙に鏡を割ってもらうんだろ?」


 明彦は説明する。

 「それだけじゃない。ツアー会社についてもっと調べてみたいんだ。もしかしたら、途中で見かけた軽飛行機の謎も解けるかもしれないじゃん」


 納得した純希。

 「たしかにそうだな。理沙にネットで検索してもらえば、なんらかの手がかりを得られるかもしれないよな」


 類が言った。

 「ここにあるのは役立たずの圏外のスマホだけなんだ。それが一番だな」


 明彦はうなずく。

 「頼みの綱は理沙だけだからね」


 綾香が言った。

 「救助ヘリが空を飛ぶ展開が欲しいけど、現実はそう甘くなさそう。だからこそ、ひとつひとつ謎を解決していこう」


 結菜がため息をつく。

 「ずいぶんと厄介なことになったよねぇ……。うちらに解けるのかな?」


 綾香は結菜に言う。

 「解けなきゃ困るよ。謎が解けないかぎり、あたしたちは島から脱出できないんだから」


 結菜はうなずく。

 「そうだね、解けなきゃ困るよね」


 頭上を見上げた綾香は、類と光流が疑問に感じていた天気について言った。

 「そういえば……きのう純希がみんなに向けたスマホの時刻は、十三時十五分だったよね? もうそろそろ島に墜落している時間帯だよ」


 類はスマートフォンの画面を確認した。


 <8月1日 火曜日 13:08>


 全員が頭上を見上げた。一向に変化のない空。灰色の分厚い雲に覆われ、太陽が隠れている。晴れるどころかもう一雨降りそうだ。


 永遠に八月一日の繰り返しなら天気も同じだろう、と全員が同じ考えだった。だが、ちがったようだ。


 『ネバーランド 海外』―――単純にこのツアー会社の会社名ネバーランドについて、それぞれに考えてみた。


 『ピーターパン』に登場する妖精が住む国とされているネバーランドは、人間界とは別の場所に存在する異世界だ。たとえ人間界の天気が大荒れでも、ネバーランドには影響しない。またその反対も然り。そしてネバーランドでは歳をとらない。ネバーランドにいるあいだは、日の出から日没へと時間が経過しても、年齢は止まったままだ。


 スマートフォンの画面に表示された日付は、変わらぬ年齢を示唆しているはずだ。


 そして正常に機能している時間の表示が、この島の時間の流れを意味するとしたら……八月一日を繰り返しているのは自分たちの肉体だ。そう……十三人の肉体は、永遠に十七歳のままということになる。


 それに、ツアー会社が関係していようがいまいが、自分たちの年齢が止まってしまったかのように感じた。


 日付の表示が変更されないだけで大袈裟な考えかもしれないが、自分たちはこのまま歳をとらないように思えたのだ。

 

 そして、その理由を追究してはならないような気がした。

 

 なぜだかわからないが……そんな気がしたのだ……。


 類は、変化のない日付の表示にはあまり触れずに話を進めた。

 「八月一日の無限ループは……俺たちの体ってことなのか……」


 綾香は類に言った。

 「だけど、あたしたちはまだ十七歳。きょうあすで老いを感じられる年齢じゃないし、それを明確にするのは難しい。でもそんな気がする……」


 結菜が言った。

 「どっちにしても長居はヤバい島よ」


 明彦も言った。

 「俺も長居はしたくない」


 「道子じゃないけど、ガチでツアー会社が絡んでいるような気がするよ」光流が言った。「すべてにおいて用心深くいこう」


 純希が道子と綾香に目をやった。早く道子と仲直りしろと言いたい。

 「信じられるのは俺たちの友情だけだ」

 

 ふたりは純希の視線を無視した。そのとき、ふたたび豪雨が降り始めた。一同は、激しい土砂降りに顔を歪めた。


 「またかよ……」類はうんざりする。「この島では霧雨みたいに優しい雨は降らないんだろうな」


 斗真が言った。

 「スコールが発生するたびに豪雨だな」


 類はため息をつく。

 「毎日降るんだろうなぁ」


 純希が言った。

 「しゃあねえだろ。このさい楽しくいこうぜ」


 明彦が疑問を言う。

 「でも……ここが異世界なら、この雨はスコールじゃない。だって熱帯雨林気候じゃないもん。だけどマジでスコールみたいだ」


 類は明彦に言う。

 「お前は細かいことを気にしすぎる。このさい、異世界スコールってことでいいんじゃないの?」


 「異世界スコール……」首を傾げる明彦。「それってありなの?」


 純希も類と同じことを言う。

 「雨風の呼び方なんてどうでもいいじゃん。異世界スコールで問題ない」


 明彦にはもうひとつ疑問がある。

 「それに……周囲の植物も現実世界と変わらないように見える。椰子の木とか……シダ科の植物とか……」


 類は言う。

 「俺たちが想像する異世界は、あくまで人間が考えた空想の世界にすぎない。つまり、リアルな異世界を知るやつはいないってこと」


 明彦は言う。

 「まぁ、たしかにそれはそうだけど」


 綾香が明彦に言った。

 「そんなことよりジャングルで野宿する羽目になる前に、浜辺を目指したほうがいいんじゃない?」


 「そうだな」綾香の言うとおりなので明彦はうなずいた。「またここで野宿は嫌だし、浜辺に向かおう」


 軽飛行機に目をやった類は、落雷の可能性を懸念する。

 「ここは危ない。さっさと行こう」


 純希と健は荷物を背負う。そして純希が言った。

 「あとどのくらい歩いたら浜辺に着けるのかな? 救助ヘリから発見されやすいように浜辺を目指していたけど、その希望もなさそうだし……」


 健が純希に言う。

 「希望の問題じゃないよ。ジャングルにこもるよりも、海のほうが気分的にいいじゃん。それに雷が落ちたら危険だ。とにかく歩こう」


 「そうそう、ここにいるよりマシ。緑色の葉っぱは見飽きた」類も純希に言ったあと、足を踏み出した。「行くぞ!」


 一同は類を先頭にして先を急いだ。突風が荒ぶ厳しい天気だ。雷鳴も聞こえる。たとえ何日過ごしても、稲光が走る空とすさまじい轟音に慣れそうもない。


 事故で生き残ったのが自分ひとりだったら……そう考えると、仲間がいるだけでなんて心強いのだろうと思った。しかし、綾香と道子は互いに頑固者。仲直りするつもりは、いまのところはない。


 黙々と歩き続ける一同の前方に、背の高い植物が茂った光景が広がった。 “またかよ……” とため息をついた直後、雨が上がった。鈍色の分厚い雲に覆われていた空が明るくなり、大地を燦々と照らす太陽が現れ、周囲は静けさを取り戻した。そのとき、待ちに待った音が聞こえた。


 それは、澄んだ波の音。


 海だ―――

 

 前方の樹木の合間から、輝く海面が見えた。自分たちが進んできた方向はまちがいではなかった。歓喜の声を上げた一同は、安堵の胸を撫で下ろした。


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