【8】カラクリ
けたたましいアラーム音が響く―――
見慣れた校内にいた一同は一斉に瞼を開いた。薄暗い空と鬱蒼としたジャングルが視界に広がった。太陽が昇った時間帯に比べれば、ずいぶんと涼しい。
健はスマートフォンを手に取り、アラームを解除した。そのさい、画面に表示されている時刻を確認した。
<8月1日 火曜日 5:30>
類たちもスマートフォンの画面で時刻を確認した。教室の壁時計も五時三十分だった。もちろん全員がその時刻を記憶している。そして、全員が同じ夢の中にいることを確認するために、合言葉まで決めた。
奇妙な夢の内容を思い出しながら、スマートフォンを所持する一同は画面を見つめた。
気にならないと言えば嘘になる……夢と同じ時刻なのは偶然だ、と心の中で言い聞かせた。
しかし、由香里、道子、恵が、恐怖と危機感を煽る言葉を言い始めた。時間を確認する手段を持ち合わせていない由香里が、現在の時刻を言い当てた。
「いま五時半だよね」
道子が言った。
「教室の壁時計で確認したからまちがいない」
恵が言う。
「合言葉を言う約束だったね」
三人は同時に言った。
「鏡の世界―――」
道子たちの考えを否定していた類たちは、顔を見合わせた。
なぜ夢の中で決めた合言葉を? その疑問の答えは、全員が同じ夢を見ていた、ということ。
朝を迎えれば、奇妙な夢だった、と、ふと思い返す程度に考えていた類たちは鳥肌が立った。
由香里が類に顔を向けた。
「合言葉の確認をしたのは類だった。みんな適当に返事してたけど、これでうちらの頭がまともだってわかってくれたよね」
類は動揺した。それは類だけではなく、単なる夢だと思い込んでいた全員が同じ思いだった。
(ありえない……不気味すぎる……)
ひょっとしたら全員が同じ夢の中にいるかもしれない、と疑っていた光流は頭を抱えた。
「やっぱり……『ネバーランド 海外』が仕組んだゲームの中に俺たちはいるんじゃないだろうか……」
類でさえ気味が悪いと思った。
「ツアー会社が? そんなわけないよ……」
由香里は言った。
「あたしたち三人も光流の考えと同じだよ。類が登録したモニターツアーが関係しているような気がしてたまらないの。あってはならない危険なゲームに巻き込まれたんじゃないかって、そう思うのよ」
「馬鹿げてる」綾香が由香里に言った。「ゲームってなんのゲームよ?」
由香里は答える。
「ヤバい部類のゲームだよ」
由香里の考え方に綾香は顔をしかめる。
「ヤバい部類のゲーム? 意味わかんない」
道子が類に訊いた。
「本当に人間が運営してる会社だったの?」
類は答える。
「当たり前じゃん。尖がり耳の魑魅魍魎(ゴブリン)が運営してる会社じゃなくて、人間が運営しているふつうのツアー会社だよ」
純希も、この奇妙な一件とツアー会社との関連を否定する。
「異世界の生命体が、俺たちをこの島に送り込んだって言うのかよ? ありえないだろ、そんなの」
道子は言った。
「だったらなぜ、あたしたちだけが生きてるの? 不自然すぎるよ。全員が死んでもなんの不思議もない状況だった」
純希は言う。
「おかしな方向に考えすぎだよ」
類は三人に言った。
「きのうも光流に言ったけど、それが九死に一生を得るって意味なんじゃないの? つまり俺たちは奇跡の生存者ってこと。べつに不自然なんかじゃない」
道子は反論する。
「それが逆に不自然だって言っているの。縁起でもないことを言うかもしれないけど、たったひとりだけ生き残ったというなら、九死に一生そして奇跡だと思う。でも、うますぎる。全員生きてるんだよ」強調するかのようにもう一度言った。「十三人揃って全員ね」
類は強く否定する。
「だからって、そんな馬鹿げた話あるわけない」
類がなんと言おうと、道子は疑う。
「ツアー会社は絶対に怪しいよ」
綾香が言った。
「ツアー会社が人間以外の生命体なわけないじゃん。冷静に考えようよ」
道子が綾香に歩み寄った。
「受け入れられないってかんじだよね。でもこれが現実。怖いから現実から目を背けたいだけなんじゃないの?」
綾香は道子に言い返した。
「あたしはいつも現実を見ている。道子こそ現実を見てよ。ここはジャングル。あたしたちは救助隊を待つ生存者なの」
「やっぱり現実を見てないのは綾香のほうじゃん。あたしたちは飛行機が墜落したのと同時に、奇妙な世界に巻き込まれたかもしれないんだよ。もしかしたらここはミクロネシアじゃないかもしれない。もっと危機感を持べきなんじゃない?」
「ミクロネシアじゃないなら、ここはどこなのよ? 同じ夢を見ただけで、この島が現実じゃなくて異世界だとでも言いたいわけ? それこそ馬鹿らしい」
喧嘩腰のふたりに落ち着いてほしい。翔太が言った。
「もっといつもみたいに穏便に話そうぜ」
道子は、翔太に鋭い視線を向けた。
「翔太は黙ってて」
道子の強い口調に戸惑う翔太は、ため息をついて諦めた。
(夢の中でも喧嘩してたから、それが影響しているんだろうな。このままだとふたりの仲は悪くなる一方だ。ただでさえ最悪な状況なのに勘弁してほしいよ。道子も綾香も引かないところがあるから、一度喧嘩したらややっこしくなりそうだ)
翔太の言葉を聞き入れない道子は続けた。
「植物も異様に硬い。摘み取れない植物なんて、どう考えてもへんだよ。それに時差がないのも、よく考えるとおかしいと思う」明彦に目をやった。「明彦だって時差に関しては釈然としていなかったよね?」
明彦は、返事して考え込んだ。
「ああ……」
現実的にものごとを考えて、時差がないのはおかしいと思っただけだ。異世界だのパラレルワールドだの、そんな馬鹿げた話で時差に疑問を感じたわけではない。
硬質な植物に関してもそうだった……救助ヘリさえ上空を飛んでくれたら、自分たちは助かると思っていた。
そう……朝を迎えるまでは……。
だが……救助される前にとんでもないことが起きたらどうしたらいい?
そもそも、救助隊は来るんだろうか……。もし救助隊がこなくて、このままだったら、危険どころの騒ぎじゃない。
俺たちが見た夢は校内だったからまだよかったんだ。あの夢には感覚があった。つまり、痛覚だって存在するということだ。これが地獄に落ちた夢だったら最悪だった。
つまり……同じ夢を見たことも、硬質な植物も、無視できないということになる……。
俺は、非現実的なこの状況を受け入れたくないために、現実から目を背けているだけなんじゃないだろうか?
おそらく……この状況は思っているほど単純じゃない。それに嫌な予感がする。とてつもなく嫌な予感が……。
「たしかに何もかもがへんだ……」深刻な面持ちの明彦は言う。「そう……何もかもが……」
明彦とようやく意見が合った。道子はうなずく。
「だよね、そう思うでしょ?」
道子、由香里、恵以外は、明彦の意外な言葉に驚いた。
綾香が明彦に訊く。
「ここが異世界だとでも言うの?」
いつでも冷静な明彦らしくない考えに類は戸惑う。
「うそだろ?」
明彦は答える。
「もしかしたらの話だ。そうと決まったわけじゃない。だけど、いま言ったように、この島は何もかもがへんだ」
類は近くの植物に触れた。やはり、硬質で引きちぎれない。
(たしかに、ふつうじゃないよな……)
今後の行動が生死を左右することになるだろう。自分たちの身になんらかの危険が迫っている。明彦は真剣な面持ちで言った。
「俺たちは、まちがいなく奇妙な世界に巻き込まれていると思う。ここがミクロネシアなら、救助ヘリが上空を飛ぶ日が必ずやってくる。だっていまごろ、捜索活動が開始されているはずだから。ただし、何日たっても救助ヘリが飛ぶ音すら聞こえなければ、俺たちはかなりヤバい状況にいる。
もしここが現実世界じゃないとすれば、それこそツアー会社が関係しているかもしれないし、あるいは墜落した衝撃で偶発的にこの島にワープした可能性だってあるんだ。どちらにしても危機感を持ったほうがいい」
綾香は明彦の説明に顔を強張らせた。
「やめてよ……ありえない……」
道子は納得した。
「いろんなケースで物事を考えたほうがいいってことね」
明彦は道子に言う。
「念には念を」
類が明彦に言った。
「なんでも博士のお前に言われたら不安になるじゃん。そんな考えはお前らしくないよ」
「かもな。信憑性に欠ける話は興味ないし、非現実的なできごとは、ことごとく無視してきた。心霊画像を記念としてスマホの待ち受け画面にしちゃうようなお前らと同じだ。超常現象なんて馬鹿らしいとしか思っていなかったから」
明彦は、去年の夏に類と純希が廃墟に行ったさいに撮った心霊画像の話をした。この廃墟は、若者たちや周囲の住民のあいだで呪われていると噂が絶えない有名な心霊スポットだ。
また、廃墟のリビングルームに設置されている大きな鏡の前で衰弱死した若者の遺体が何度も発見されていることから、 ‟死神屋敷” と呼ばれている。
廃墟の元所有者は、再婚相手とその息子と実娘とともに、新居に引越していった芸術家だった。背の高い木々に囲まれた敷地には、三十年前まで売家と看板が立てられていたのだが、かなりの高額だったため買い手がつかず。
のちに、リビングルームに設置されている大きな鏡の前で衰弱死した義理の息子の遺体が発見された。それ以来、この売家は曰く付き物件となった。さらに不幸は続くもので、義理の息子が亡くなる数週間前に海外に行った娘も行方不明となった。
その後、元所有者は行方を定めずに妻と東京を離れた。そして、いつの間にか売家の看板も撤去され、廃墟となった。
現在、心霊スポットとなった廃墟の玄関の鍵は、肝試しに訪れた若者たちによって壊されているため、屋内への侵入は意図も容易い。
廃墟に侵入すると細長い廊下が続く。その正面にあるドアを開けると、リビングルームが広がっており、蜘蛛の巣と長年の埃が付着した大きな鏡が壁に設置されている。いまでは、鏡の中に若者たちの命を奪う死神が棲んでいるという噂が流れ、魔鏡(まきょう)と呼ばれるようになった。
心霊現象を信じていない類と純希は、何人もの若者が魔鏡の前で亡くなっているにもかかわらず、肝試しするために遊び半分で廃墟に侵入した。そして魔鏡を背に、ふざけたポーズで記念撮影を行った。
すると、ふたりの背景を占める魔鏡の中に、白いロングワンピースに身を包んだ朧げな少女の姿が映り込んでいたのだ。しかしふたりは、恐れるどころかスマートフォンの待ち受け画面にしてしまった。
現在は互いに待ち受け画面は異なるが、心霊画像は削除していない。というより……心霊画像を撮ったこと自体忘れていた。
だからどうしたと言わんばかりの類。
「懐かしい話題だけど、いまはそんな話どうでもいいだろ。論点がずれてる」
純希も思い出した。
「何かが鏡に反射して女の子の影に見えただけだよ。いるわけないじゃん、幽霊なんて馬鹿らしい。お前らしくない」
翔太が言う。
「俺も何かの影が重なって、たまたま女の子に見えただけだと思う。だって心霊写真のほとんどがそうだろ? それに魔鏡の前で衰弱死した連中の大半が家出した少年少女らしいじゃん。飲まず食わずで自殺したんだよ」
そのときの画像を見ている道子が、翔太に言った。
「でも、あの画像は絶対にガチ」
翔太は否定する。
「そんなわけないよ」
道子は説明する。
「だって、鏡に反射した光が壁を照らすと、そこにも死神の姿が映るって、ほかのクラスの子が言ってたもん」
由香里が言った。
「それが鏡の中に棲んでいる死神が見える瞬間なんだよね」
翔太は言った。
「見た目はふつうの鏡だけど、鏡面に光をあてて、その反射光を壁にあてると、鏡の内部に描かれた絵や文字が壁に映し出されるっていう、工芸品の魔鏡と同じ。つまり、死神屋敷の鏡が魔鏡って呼ばれるようになった由来だろ? そんなの全部が目の錯覚だよ。ばかばかしい。類の画像もそんなところだ」
道子は、魔鏡の中に死神が棲んでいると信じ込んでいる。
「ちがうよ。壁に映し出されるどころか鏡に映っていたなんて、ガチなやつを撮っちゃんだよ。まちがいなく、少女に扮した死神だよ」
何を言っても無駄なので、翔太は返事せずにため息をついた。
(なんで死神が少女に化けるんだよ……。思い込みが激しいんだよなぁ)
興味のない心霊スポットの話題を口にした明彦に、何かしらの考えがあるのだろうと思った綾香は訊いた。
「それで、いま置かれている状況と、あのときの心霊画像と何か関係してるの?」
明彦は答える。
「いや、もののたとえで言ったんだ。いままでの俺たちの考え方じゃ駄目だと思うから」
綾香は首を傾げる。
「どうゆう意味?」
明彦は考えを改めた理由を説明する。
「非現実的なできごとはすべて否定してきた俺らからしてみれば、心霊画像なんて単なる話のネタでしかない。だけど道子たちなら、呪われる前に元を絶つため、血相を変えて御祓いに行くはずだ。
この状況に置き替えてたとえれば、俺たちは呪われてから後悔するオチだ。つまり、後悔してから考えを改めては遅すぎる。
三人の視点でものごとを考えたほうが、謎の解決の糸口を掴めそうだし、危険を回避することにも繋がる」
明彦と同じように考えを改めた結菜が言った。
「あたしもいままで以上に慎重に行動したほうがいいと思う。大袈裟かもしれないけど、見て見ないふりを続けると、この先、命取りになるような気がする。だけど、構えてさえいれば、危険を回避できる。万が一、この島が異世界だったとしたらなおさらね」
動揺した綾香は、周囲を見回した。
「異世界……」
結菜は綾香に言う。
「もしもの話だよ」
類が呟くように言う。
「この先に待っている危険……」
(これから何が起きるかなんて想像できない。それこそ、さまざまなケースでものごとを考えるべきなのかもしれないけど……頭がついていかないよ……)
「ここでの危険は死に直結しかねない。あるがままの現実を受け止めてきちんと考えるべきだよ。心の準備ってやつね」と言った道子が、冷たい視線を綾香に向けた。「綾香もね」
「そうだね……」
道子と目を合わせずに返事した綾香は、そっけない態度をとった。たしかに道子の言うとおりかもしれない。それなのに、道子の顔を見て素直に返事できなかった。理由は、昨夜の夢の中で道子とのあいだに深い溝ができてしまったからだ。
“強情な誰かさん” と道子に言われて腹立たしさを感じた。あのときは単なる夢だと思い込んでいた。朝になればへんな夢を見た、その程度のものだと。
でも、ちがった。
現実のような夢。
あのとき、確かな感情があった。
きのう、類と光流そして翔太との言い争いが起きた。あのときは、十三人の絆を壊してはならないと必死だった。
けれども……自分と道子とのあいだには最初から絆なんてものはなく、上辺だけの友達だったのではないだろうか……。
いま思い返してみると、お弁当を食べるときも、道子と恵と由香里の三人グループ。そして自分も、結菜と美紅の三人グループだ。ときどき、一緒に食べることもあるけど……そう、ときどき。
話題も異なる二グループの同じ共通点は、ただひとつ。
全員が類と友達。
理沙ともよく喋る仲だが、それも類と繋がっている。
もしかしたら全員が類と繋がっていただけ? あたしたちは最初から友達じゃない? 友達だって思い込んでいただけ?
わからない。
この状況も、あたしと道子の仲も……。
もう、何がなんだか……。
友達ってなんだろう?
義務的な協調性でクラスメイトとの仲を保っている。ひとりになりたくないから適当にクラスメイトとつきあう。
夜になればハンドルネームで互いを呼び合う見ず知らずのネット友達とたわいないやりとり。案外クラスメイトとつきあうより気楽で楽しかったりする。
けっきょくはみんな上辺だけ。
個性的と “ダサい” は表裏一体。‟ダサい” と判断されたときは、一緒に歩くのが恥ずかしいという理由でグループから排除される。みんなとはかぶりたくないと言いながらも、けっきょくは色ちがいをまとっただけで同じ恰好をするまちがった仲間意識を持つ女子。
薄っぺらな友情。
みんな仮面をつけて生きている。学生も社会人も……。
それがこの状況のせいで仮面がはずれただけ。それだけのこと……。
社会のしがらみやストレスの中に生きるいまどきのあたしたち。ありのまま生きているひとって、世の中にどのくらいいるのだろう? ほんのわずかな気がする。
綾香は重苦しいため息をついて小声で呟いた。
「ばっかみたい……」
綾香に類が声をかけた。
「大丈夫か? 顔色が悪いけど」
「こんなところにいて顔色が優れているほうがおかしいよ」
子供のころから意地っ張りな一面を持つ綾香を心配した。
「たしかにそうだけど、なんとなく思い詰めた顔してたから」
「この状況で能天気でいられるわけないじゃん」
「そりゃそうだよな。俺でさえ何がなんだか……」
健が、類と綾香の会話の途中で、スマートフォンの画面を見つめながら言った。
「突然、電波とかあったりしないよな。ここがミクロネシアならそれなら、すぐにでも助けが呼べるのに」
類も電波がないと理解しながらも、つい電波アイコンを見てしまう。そして、圏外の電波アイコンから日付に視線を移した。
<8月1日 火曜日 5:48>
刻々と時間は過ぎていく。空が明るくなり始めている。水分補給して出発しなければ、すぐに太陽が昇る。
(これじゃあ、きのうと同じだ。炎天下を歩く破目になる。それに鉄屑同然の役立たずのスマホもきのうと同じ。けっきょくは全部、きのうと同じ……)
類は、スマートフォンの画面に表示されている日付に違和感を覚えた。
「あれ?」
(何か……おかしい……)
健は類に顔を向けた。
「どうかしたのか?」
日付を見つめる類は、はっとした。
(そうか、日付がきのうと同じなんだ!)
旅客機に搭乗した日付は、八月一日、火曜日。そして現在、スマートフォンの画面に表示されている日付も、八月一日、火曜日だ。だが、本来ならきょうの日付は、八月二日、水曜日だ。
(なぜ?)
故障が原因で日付変更されないとすれば、時間も止まったままのはずだ。または、どこに触れても操作不能か、電源が切れたときと同じ状態になるだろう。
しかし、類たちが手にしているスマートフォンは、電波さえあれば使用可能な状態であり、故障しているとは考え難い。
同じ夢を見たことも……何もかもが現実離れしている。
この流れで考えると、日付変更されない日付が、なんらかの重要な鍵を握るのではないだろうか?
明彦のように真剣に考えるべきなのかもしれない。ここが現実なのか異世界なのか、現時点では判断しかねる。だけれど……。
いまの自分はこの状況が怖いから、現実から目を背けているだけなのではないだろうか?
恐怖心に負けては駄目だ―――と、考えを改め直した瞬間、類は不安に駆られた。
「みんな、スマホの画面を見ろ!」類は一同を急かす。「早く!」
健は言う。
「電波でもあったのか? 期待させるなよな」
類は言った。
「ちがう、そんなじゃない! 日付がきのうのままなんだよ!」
健もスマートフォンの画面に視線を下ろした。
「そんな馬鹿な……」
ざわめく一同は、一斉にスマートフォンの画面に視線を集中させた。スマートフォンを所持していない道子たち三人も、男子が手にしているスマートフォンの画面を見て慄然とした。
「本当だ……」道子が言った。「日付がきのうと同じ……」
健も目を見開いた。
「マジかよ」
「どうなってるんだ……」明彦は類に言う。「日付変更がされないなんてありえないだろ?」
類は言った。
「でも故障はしてない」
結菜のスマートフォンの画面を見る美紅は、軽い眩暈を感じた。
「わけがわからないことばかり。なんなの?」
「ほんと……何が起きてるんだろう?」と、結菜も訝し気な表情を浮かべて、スマートフォンの画面を見つめた。
「時間はふつうに表示されているのに、どうして日付だけがきのうと同じなんだよ?」純希が明彦に顔を向けて訊く。「なんでも博士、俺にわかるように教えてくれよ」
明彦は純希に言った。
「なんでも博士って呼び方やめてよ。俺だって、この状況について何ひとつわからないんだ。考えを言ったところで、すべて憶測にすぎない」
純希は言う。
「だとしても俺の頭で考えるよりよっぽどマシだ」
明彦は首を横に振った。
「買いかぶり過ぎだよ」
類も明彦に訊く。
「マジでどう考えてるんだよ、なんでも博士」
「それってあだ名? 類までやめてくれよ。俺だって自分の考えに自信が持てないっていうのに」
結菜も明彦に意見を求めた。
「現段階でどう考えているの? みんな明彦の考えが知りたいのよ」
現段階で、と言われても……明彦は戸惑った。自分の考えが正しいのかなんてわからない。そこにはなんの根拠もない。日常生活において自分を必要としてくれるのは嬉しいが、いまは少し重く感じる。
「いますぐ答えを出すのは難しいよ。さっきも言ったように、俺たちは奇妙な世界に巻き込まれたとしか言いようがないんだから……」
曖昧な返事をした明彦は、考えを巡らせた。
全員が同じ夢を見る。不自然なまでに硬質な植物。どのように考えてもふつうの状況ではない。
きのうと同じ日付―――これにいったいどんな意味が隠されているのだろうか?
この状況から考えると最悪の場合、永遠に八月一日の繰り返し。
ここでは日の出と日没を繰り返しても、あしたがやってこない?
まさか……恐怖のタイムループ……。
だったら俺たちは何度もあの墜落した機体の中に戻ることになる。
いや……そんな馬鹿な話あるはずがない。
だとしたら……。
ここがミクロネシアかもしれない、俺たちのわずかな希望すら断たれてしまうことになる。
ああ、駄目だ……。
いまの俺の思考回路は、フリーズを起こしたパソコンみたいなものだ。カオスの坩堝に混乱した役に立たない脳みそだ。
どうなってるんだよ、くそ―――
(こんな安易な考えを口にしたら、みんなが余計に混乱する。黙っていたほうが無難だろう)
スマートフォンの画面の日付を凝視する類は、いつになく深刻な表情を浮かべていた。そして、いましがた明彦が考えていた “最悪の場合” と同じことを想像していた。明彦は口にしないつもりだったが、疑問はすぐに口に出す性格の類は言う。
「昨夜、全員が太陽を見て月を見た。一日の時間の流れを感じられても日付が変わらなければ、八月一日を毎日繰り返すことになる」一同に意見を求めるかのように、恐る恐る言った。「つまり……あしたがこないのと同じだと思うんだけど……。八月一日のタイムループってやつ……」
明彦は混乱を避けるために、類の話を止めようとした。
「安易な考えを言うのはやめたほうがいい」
明彦の想像どおり、一同は混乱し始めた。
そして、類の言葉に戦慄を覚えた光流が続けた。
「ということは……ここにいるかぎり俺たちは歳をとらないのか? いや、それに……タイムループならまた墜落した機内に戻ることになるよな?」
類は首を傾げた。
「いや……そこまでは俺にもわかんないけど。だから、どうなんだろうって考えたんだ」
恵が光流のスマートフォンの画面をタップしてみた。やはり表示されている日付に変化はない。
「あしたがこないんだから、そうゆうことでしょ? 墜落の時間になったらあの機体に戻っちゃうわけ? どうするの? あたしたち……」
光流が頭を抱えた。
「機体に戻らなくても、一生この島にいたら、俺たちは永遠に十七歳のままってこと?」
明彦は類の発言に補足する。
「とりあえず落ち着こう。もし、ここがミクロネシアじゃなくて、異世界だった場合のたとえだ。それも最悪の場合。類の意見は飛躍しすぎだと思うよ」
(俺も同じことを考えた。本当に飛躍しすぎなんだろうか……。もし、じっさいにそうだったら、どうしたらいいんだ?)
類は、自分から始めた話を切り上げようとした。
「気になったから言ってみただけで、みんなを混乱させるつもりはなかったんだ。ごめんな」
だが、怯える由香里が話を続けた。
「最悪の場合になっちゃったらどうするの?」
道子が言う。
「もしそうなったら、この島は最高のエイジレス島だね。だって十七歳のまま歳をとらないんだから。リアル版『ピーターパン』になっちゃうね、あたしたち」
恵が道子に顔を向けた。
「そのたとえわかりやすいけど、よく考えると怖いよ」
道子は続けた。
「ネバーランドは妖精が棲んでいる異世界。そこにいるかぎり歳をとらない。でも人間界に戻った瞬間、歳をとる。もしもここに百年いたと仮定して、ある日突然、人間界に戻れたとする。『ピーターパン』みたいに止まった年齢から歳を重ねるわけじゃなくて、十七歳から一瞬で百十七歳になって即死したらって考えるとゾッとするよね」
恵は顔を強張らせた。
「それ、ゾッとするどころじゃないよ」
道子は言った。
「だってこの島は、妖精が棲んでるっていうよりも、死神が棲んでるってかんじだもん」
「たしかに……大勢のひとが死んだからね」
由香里は慄然とする。
「ふたりともやめてよ。ただでさえ怖いのに」
類もふたりに言う。
「そのネタ笑えないし。てゆうか、そこまで言ってないから」
綾香が独り言のように嫌味を言う。
「話を膨らませるのが得意だから、妄想癖のある誰かさんは」
道子は眉根を寄せ、綾香を睨みつけた。
「言いたいことがあるならはっきり言ったら?」
「よせよ、道子」翔太が言った。「喧嘩してる場合じゃないだろ?」
道子は腹を立てる。
「だって、超ムカつく」
綾香は言い返す。
「もう無理」
道子も負けじと言った。
「あたしだって!」
翔太は道子に強く言えずにいるが、綾香と道子の不仲に苛立ちを感じた純希は、不快感をあらわにした。
世知辛い世の中―――加藤家は代々続く家業だった。しかし、中学校二年生の冬に会社が倒産した。社長だった父親も、いまでは他社に勤める安月給の平社員。
家業を継ぐはずだった純希にとって、それは幼いころから当たり前の未来であり夢だった。将来が絶たれた当初は、父親とともに途方に暮れていた。
大学への進学も諦めた。奨学金を受けて多額の借金を背負い、社会人になる自信もない。あまりにもリスクが大きすぎる。どうすればよいのかわからずに、今年の春まで漠然と日々を過ごしていた。そんなとき、アルバイト先の事業主に見込まれて、パートを含めた従業員の中から高校生の純希に白羽の矢が立ち、卒業後は正社員として雇ってもらえることになった。
倒産から年月が経過したいま、家族にも笑顔が戻り、以前のように毎日が楽しく感じられるようになった。両親もどちらかといえばポジティブ思考。そんな両親の遺伝子をしっかりと受け継いでいる純希も、別の方面で将来の目標をつくり、前向きに人生を歩んでいこうと決めたのだ。
とはいえ、思い描いていた未来ではない。
友達は進学コース。自分もそうなるはずだったが、再来年の春には社会人になる。スクールバッグを持ちながら脳天気に楽しく歩けるのはいまのうちだけ。
だからこそ、このツアーが最高の思い出になると信じていた。最悪の展開になってしまったが、必ず生還して絶対に新学期を迎えたい。そして卒業まで笑って過ごしたい。
いま自分が置かれている状況は、会社が倒産したあのころよりも窮地。それなのに綾香と道子は喧嘩。道子の『ピーターパン』のたとえも、 “ここに百年いたと仮定して” 。いますぐ帰りたいのに、ふざけるなと声を大にして言いたい純希の堪忍袋の緒が切れた。
「バトルなら日本に帰ってからにしろよ! いまそれどころじゃねぇし! もし、ここが異世界だとしたら救助隊なんかこないんだぜ! 新学期なんか夢のまた夢だ! わかってるのかよ、お前ら! へたすりゃ一生この島なんだ!」
純希のもっともな怒号が周囲に響くと、綾香と道子は身を強張らせた。
その直後、類は明彦の耳元に顔を近づけて小声で言った。
「あのふたり、互いに意地っ張りだから喧嘩が長引けば和解が難しくなりそうだ」
会話を交わすには、互いに距離が近い。なるべくなら男女がある程度の距離を保てる場所で解決策を練りたいので、明彦はひとことで返した。
「同感」
綾香を気遣う結菜。綾香の腕を掴んで小声で言った。
「純希の言うとおりだよ。いまは我慢して」
綾香は何も言わずにうつむいた。喋ると涙が出そうだった。嫌味を言ったのは自分が先。夢の中で言われた道子の本音に心を乱される。
道子の肩を持つ恵は言った。
「気持ちはわかるけど抑えて」
道子は、夢の中での綾香の態度に許せないものを感じていた。綾香とのあいだにできた溝は埋まりそうにない。
「わかってる……」と、恵に返事した道子の目にも涙が浮かんだ。
美紅と由香里は、困惑した表情を浮かべて顔を見合わせた。美紅は綾香と結菜に歩み寄り、由香里は道子と恵に歩み寄った。
互いにスイーツ好きの由香里と美紅は、学校でもよく喋る仲だ。綾香と道子を仲直りさせる方法はないものだろうか……と考えつつも二グループに分かれるしかなかった。
完全に仲違いした綾香と道子は、互いに距離を置いた。
気まずい雰囲気が漂う中、純希は気持ちを切り替えた。
「救助隊が来るにせよ来ないにせよ、途中で何が起きるかわからない。考えたくもないけど、この島が異世界なら、俺たちは出口を探さないといけないんだ。だからビビってばかりじゃいられない」
翔太が、道子と綾香にちらりと目をやった。
「きのうみんなで一致団結したじゃん。いまそれが最も大事なんだ。喧嘩どころじゃないだろ?」
ふたりは翔太の視線を無視した。
斗真が言う。
「俺ら男子は固い絆で結ばれているけどね」
男子は、斗真の言葉にうなずいた。
類がふたりに言った。
「そうだぞ、だから女子もよろしく頼むぜ」
綾香は、男子の意見を無視して話を逸らした。
「スマートフォンに表示されてる日付に頼れないから、自分たちで日付を覚えておかないとね」
結菜が綾香に言った。
「でも、ここにいる日数を忘れちゃうほど長居したくないから、救助ヘリが上空を飛ぶことを願ってる」
綾香はうなずいた。
「もちろん、あたしもだよ」
綾香に話を逸らされたが、類は愛するひとに逢いたい気持ちでいっぱいになった。
「俺もだ。だって理沙が待ってるから。俺たちは絶対に新学期を迎えてクソジジイになるまで生きるんだ」
類は空を見上げた。頭上では、高木の梢が重なり合っているので、それらが雲の切れ間から顔を出し始めた太陽を覆い隠している。
淡い光が射し込む大地。
どれだけ早く目覚めても、ここからでは曙光も見えやしない。吉日はまだ遠いようだ。
だけど、どうにかなる、なんとかなる―――
心の中で口癖を繰り返し、スマートフォンの待ち受け画面を見た。笑顔が可愛い理沙が映っている。
理沙が恋しい―――
不謹慎な考えかもしれないが、この旅行に理沙を誘わなくてよかった。
画面に映る理沙をいつまでも眺めていたいところだが、ジーンズのポケットにスマートフォンを収めた。そのとき、仰向けで地面に転がる昆虫の死骸に目が留まった。それと同時に疑問が湧いた。
(植物は異様に硬質だったけど昆虫はどうなんだろう?)
類は昆虫の死骸を指さした。
「こいつを踏んだらどうなると思う?」
一同は類が指さす先に目をやった。
ひとつずつじっくりと考えたい綾香が言った。
「いまは昨夜の夢と、日付が変わらないスマホの謎に集中したいんだけど。あれもこれも無理だよ」
類は言う。
「わかってるよ。でも気になるだろ?」
いつでもどこでも、どんな状況でも、幼いころから好奇心が旺盛なのはわかっている。綾香は類の好きにさせた。
「植物が硬いんだから虫も潰れないかもね」
光流も同じ意見だ。
「俺も潰れないと思う」
明彦は首を傾げた。
「わからない。なんとも言えない」
純希が類に言う。
「踏んでみればいいじゃん。そうすれば一目瞭然だろ?」
類は昆虫の真上に靴底を重ねた。
「そのつもり。ちゃんと見てろよ。ガチだからな」
一同が注目する中、類は昆虫の死骸を軽く踏んでみた。乾燥した翅(はね)が、まるでピーナッツの薄皮のように崩れていく。植物は摘み取ることさえできなかった。それなのに、昆虫の死骸はあっけなく潰れた。
類は靴底を大地に擦りつけて、付着した昆虫の体液を落した。人間が昆虫を踏めば潰れる、その当たり前の光景に安堵した。
「潰れた……」綾香が潰れた昆虫をまじまじと見る。「植物は異様に硬いのに、虫はふつうの虫なんだ」
光流が言った。
「虫まで石みたいだったらどうしようかと思ったよ」
結菜が明彦に言った。
「なんだか安心した。ふつうじゃないことばかり起きるから余計にね」
ふと疑問を感じた明彦は、樹木を這う鮮やかな色の昆虫に目をやった。
(生体はどうなのだろう?)
「どうしたの?」と、結菜は返事しない明彦に訊く。
明彦は樹木を這う昆虫を指さした。
「死骸は潰れたけど、生体も潰れるだろうか?」
「何言ってるの?」結菜は言う。「どっちも同じでしょ」
綾香が言う。
「その虫も潰れると思う。それより早く本題に戻りたいんだけど」
明彦は綾香に言った。
「そう焦るなよ」
綾香は言った。
「だって、どうせ結果は同じだもの」
結菜が言った。
「たぶん質感が硬いのは植物だけだよ」
疑問をいだく明彦に、類が言った。
「よし、やってみるか。俺が蹴るよ」
類の立ち位置のほうが樹木に近いので明彦は任せた。
「頼んだ。どうしても気になるんだ」
類は樹木に向かった。
「どうせわからないことだらけなんだ。このさい気になることは、とことん試してみたほうがいい。もちろん危険を伴わないかぎり」
せっかちな純希が類に言った。
「さっさとやってみろって」
「言われなくてもいまやる。見てろよ!」
一同は、合図を出した類を見つめた。勢いよく脚を上げた類は、樹木を這う昆虫をおもいっきり蹴り上げた。衝撃により幹と葉が揺れ動く。
普通であれば、人間の足の裏と樹木のあいだに挟まれた昆虫は、見る影もなく潰れているはずだ。だが、昆虫は何ごともなかったかのように樹木を這い続けていたのだ。
植物に続いて昆虫までも硬質。現実離れした光景に驚愕した。それならなぜ、死骸は潰れたのだろうか……と新たな疑問が湧いた。
ざわめく中、純希がポケットからジッポを取り出した。いったい何をする気なのだろう……と、一同は一斉に純希の手元に視線を集中させた。
純希はシダ植物の葉に、ジッポの火をゆっくりと近づけた。すると、葉が火を弾いたのだ。植物と昆虫が硬質であることよりも、葉が火を弾いたことのほうが驚愕。あまりにも衝撃的だったので、類は純希のジッポを奪って自分で葉を焦そうとした。だが、結果は同じだった。それでも葉を炙り続けてみた。火は点かずとも炙り続ければ熱が伝わり変色くらいするだろう、と考えたのだがそれすらなかったのだ。
昨夜、三人が旅客機の事故現場に引き返しているあいだ、純希たちが大地に落ちた枝や葉を集め、それらを薪(たきぎ)にして火を起こした。
大地には木々の燃え滓(かす)が残っている。焚き火をした確かな証拠。寝ぼけていたわけでも幻覚を見ていたわけでもない。
「どうなってるんだよ? だって、お前ら薪に点火したじゃん」驚いた類は目を見開き、純希に訊いた。「てゆうか……どうして急に葉っぱに火を近づけたんだ?」
純希は理由を説明する。
「地面に落ちた枝や葉を拾い集めて、俺たちは薪にした。けど、大地に根を下ろした植物の葉を摘み取ろうとしてもビクともしなかった。
そして虫に関しても、死骸は潰れるのに生体はまるで石。生と死に大きなちがいがあるような気がしたから試してみたんだ。でもまさか、植物が火を弾くだなんて考えもしなかったし、俺自身もガチでビビってる……」
類は、いましがた踏み潰した昆虫の死骸にジッポの火を近づけた。生体とは異なり、徐々に焦げていく。
生と死に関係する何か……。
つぎからつぎへと恐怖を孕んだ問題が浮上する……何がどうなっているんだ?
真剣な面持ちで純希にジッポを返した類は、旅客機の事故現場へと戻ったきのうを思い返してみた。そして明彦や光流も類と同じこと考えていた。
自分たちは、折れた椰子の木から椰子の実を収穫した。大地に根を下ろしていないのだから、生命線は断ち切られている。だから、簡単にもぎ取れたのではないだろうか……。
ここに根を下ろす椰子の木に登れたとしても、椰子の実は収穫できないだろう。庭先に生えているような雑草でさえ引き抜けないのだから。
つまり、生体はなんらかの力に守られているということになる。
踏み潰そうとした生体の昆虫も植物も、なんらかの不思議な力に守られている……。
だからこそ、あれだけ大破した機体の中で十三人は生きていた。
けれども、墜落した機体は大破してみんな死んだ。それって……俺たち以外の乗客は初めから死体だった?
ゾンビじゃあるまいし、そんな馬鹿な……。
だったらなぜ……墜落現場の椰子の木は、墜落時に薙ぎ倒されたのか……。
衝撃が強かったから?
いや、それでは単純すぎる……。
三人は、唇を結んで大地に腰を下ろした。その後、一同も腰を下ろした。
空が明るくなりつつある。いまさら急いで出発したところで意味はない。どうせじきに暑くなる。頭上を覆う樹木の葉が日除けになっているので、それならここで話し合おう。時間ならたっぷりある。
安易な思いつきを言うのは混乱を招くだけだと明彦に注意されていた類は、誰かが口を開くまでじっと待った。
三人と同じことを考えていた道子が、真剣な面持ちで言った。
「あたしたち以外、最初からみんな死んでいたのかも……。あれだけ大破した機体から、あたしたちだけが無傷で助かるだなんて、それしか考えられない。あたしたちは生体だから不思議な力に守られていたのよ」大地に根を下ろす雑草を引っ張り、強調する。「抜こうとしても抜けない、この雑草みたいにね」
類と明彦と光流は、何も言わずに道子の話に耳を傾ける。
(やっぱり道子も俺たちと同じことを考えていたのか……)
綾香が否定する。
「それは飛躍しすぎじゃない?」
道子は、一瞬、綾香を睨みつけた。
類たち三人が思う。
(この島では何が起こるかわからないんだ。ここは俺たちの想像を遥かに超える恐ろしい場所なのかもしれない……)
美紅も綾香と同じ意見だ。
「そうだよ、飛躍しすぎだよ。あたしと遊んでいた子供は死体だったっていうの? あの子の母親とも会話したし、飴まで貰ったのよ。どう考えても生きていた」
健がまなみと撮った画像を道子に向けた。
「死体なわけない。だって俺は、まなみちゃんと一緒に写メまで撮ったんだから」
由香里が恐る恐る道子に言った。
「あたしは人見知りするからほかの乗客とは関わってないけど、キャビンアテンダントさんとなら会話したし、ふつうにデザートも食べたよ。それって……つまり、死体が用意したものを食べていたってことになるよね?」
結菜が言った。
「死体がデザートを提供するだなんて、燃えない葉っぱやスマホの日付よりずっと怖いよ。ありえない……」
翔太が道子の意見を否定する。
「乗客全員がパスポートを確認されてから搭乗してるんだ。死体にそんなことができるはずない。それに死体が歩くわけないだろ。動かないから死体なんだ。
操縦室を確認したわけじゃないけど、パイロットが操縦するから飛行機が空を飛ぶ。死体じゃ飛行機を操縦できない」
「たしかに死体は動かない。でもそれって、あたしたちの常識じゃん。ここにはその常識が存在しない……」と言ったあと、旅客機に搭乗した直後を思い出した道子の顔が青褪める。「そういえば……座席に着いてから誰も乗ってない。あたしたちが最後の乗客だったような気がするんだけど……」
恵が恐る恐る道子に訊く。
「死のゲームは、飛行機に乗った時点で始まっていたってこと?」
道子はうなずいた。
「だろうね……」
全員、脊髄が一瞬にして氷水と入れ替わったかのように背筋が冷たくなった。思い返せば、自分たちが座席に腰を下ろしたあと、誰ひとり搭乗していない。
偶然か……それとも仕組まれていたのか……。
きのう類たち三人が旅客機の墜落現場に向かったあと、結菜が冗談交じりで、ツアー会社を死神とたとえた。それを思い出した道子は、結菜に言った。
「ガチで死神が関係しているツアー会社かもしれないよ。死神だったら時間の流れを自由自在に制御できそう。だから日付がきのうと同じなんだよ。それに、全員に同じ夢を見せることも可能なんじゃない? 死体だって動かせそうだし」
結菜は顔を強張らせた。
「死神って……やめてよ。あれはなんとなく口にしただけなんだから。どうかしてるよ、道子……」
朝を迎える前までは、ツアー会社が旅客機の墜落事故に関与しているはずがないと考えていた。だがいまは、完全に否定できない。類は戸惑いながら言った。
「『ピーターパン』のつぎは死神かよ……」
道子は類に言う。
「あたしはきのうの話の続きをしたの」
類には、道子と結菜の会話が理解できない。
「きのうの話の続き? どうゆう意味?」
明彦と光流も意味がわからない。明彦が訊いた。
「俺たちにもわかるように説明してくれないか?」
結菜が三人に教えた。
「明彦たちが墜落現場に向かったあと、あたしが言ったの。類がモニター登録したツアー会社は死神かもねって」
三人は道子の会話を理解した。
光流は身震いした。
「死神……」
明彦が言った。
「たとえツアー会社の仕業だったとしても……まさか……」
類も言う。
「そうだよ。冗談じゃない」
(心霊画像を待ち受けにしていたあのころの俺だったら、死神と聞いても鼻で笑っただろう。だけどいまは、その存在が怖い。きのう大勢の乗客が死んだんだ。俺は、まだ連れて逝かれるわけにはいかない。理沙を置いていくわけにはいかないんだ)
結菜は疑問を口にした。
「ねえ、死神って、ひとの魂を運んだり奪ったり、死を司る存在だよね? 時間の制御ができるなんて聞いたことないけど……」
美紅も言う。
「あたしもそんな話は聞いたことない。スマホの日付が変わらないのも、時間を操れないと無理だよ。同じ夢を見たことに関してもそう。死神の仕業とは思えない」
道子は、結菜と美紅に言った。
「それってあたしたちが知る、黒頭巾を被って鎌を持ったステレオタイプの死神じゃん。じっさいの死神を知るひとはいないでしょ?」
結菜は「ごめん、類」と謝りながら腰を上げ、スニーカーを脱いだ。そして、自分が履いていたサンダルに足をとおした。
死神―――元は自分で言った冗談。
しかし、いまは冗談にならない。
得体の知れない現実離れした世界―――超常現象をいっさい信じなかった結菜でさえ、死者の私物を身につけていることへの恐怖を感じたのだ。
類は「いいって、気にするなよ」と返事して、それ以上、何も言わなかった。
「死神か……。たしかに……じっさいの死神に会ったやつはいないよな」すべてを疑ったほうがよさそうだ。明彦は類に顔を向けた。「俺からもお前に訊きたい。登録した『ネバーランド 海外』のホームページに怪しい点はなかったか? よく考えてくれ」
類は答える。
「怪しかったら登録なんかしないよ。俺が疑ったのは、おんぼろホテルだったら嫌だなってことくらいだ」
明彦は真剣な表情で、もう一度、類に訊く。
「モニター登録した日をちゃんと思い出せ」
「思い出せって言われても……」
「大事なことなんだ」
「わかってるよ、俺だってそのくらい」
類は半年前まで記憶を遡った―――
インターネットの広告で見かけた六泊七日のサイパンツアー。それも、今回に限り、無料でサイパンに行けるモニターツアーの参加者を募集していた。しかも最大十三名様まで。
なんとも太っ腹な企画に “おお! すげえじゃん” とテンションが上がり、その広告をクリックしてホームページを見てみた。『ネバーランド 海外』は創業したばかりの小さなツアー会社で、ほかのツアー会社のホームページと似たり寄ったりの内容だった。
印象は、ふつう。
掲載されている画像も、現地のビュースポットや、先端を切り取った椰子の実に二本のストローを挿して美味しそうにココナツジュースを飲むカップルなど、はっきり言ってありきたり。とくに怪しいと思う点は見当たらなかった。
「ごくふつうのツアー会社のホームページだった。だから登録してみたんだ」
明彦は疑う。
「本当にふつうだったのか?」
「うん。あのときはふつうだと思ったんだ……」
道子が言った。
「一見、ふつうと見せかけて、ふつうじゃなかった。ガチで死神が運営するツアー会社に手を出しちゃったのかもよ」
「死神……。現実離れしすぎて俺の頭は大混乱だよ」深刻な表情を浮かべた類は、明彦に訊いてみた。「とりあえず……『ネバーランド 海外』がごくふつうのツアー会社だったとして、そしてこの島が異世界なら、墜落の衝撃が原因でワープしたことになるよな?」
明彦は答える。
「ツアー会社の運営者がふつうの人間で、なおかつこの状況が偶発的ならね」
類は明彦に訊く。
「同じような衝撃を肉体に与えれば現実世界に帰れるって展開、アリなのかな?」
明彦は類の質問に驚く。
「ずいぶんと突飛だな」
純希が言った。
「墜落と同じような衝撃って、断崖絶壁から飛び降りないかぎり無理じゃねえの?」
綾香が言った。
「危険すぎるよ。それにここがミクロネシアかもしれないっていう希望も捨てちゃうわけ?」
類は言った。
「いや、だからたとえばの話だよ。体に衝撃を与えたらどうにかなるのかなって……」
明彦は類に言った。
「生体がなんらかの力に守られているなら何をしても助かる、それも単なる仮説だ。なんの保証もない。たとえ話にしても危険すぎると思うけど」
純希は類に訊いた。
「それで、お前が崖から飛び降りてくれるの?」
「え?」その質問をされるとは思わなかった。「そんなことひとことも言ってないし」
純希は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「類が自ら人体実験を行うなら俺たちは見届けるぜ。お前が無事に現実世界に戻れたら俺たちも崖からダイブする」
明彦も冗談交じりに言った。
「ずいぶんと危険な賭けに挑戦するんだな。俺も見届けてやるよ。それこそ死神が迎えに来るかもな」
類は慌てた。
「ちょっと待ってよ、マジで死んだらどうするんだよ。絶対に人体実験なんかしないからな」
純希は笑いながら言った。
「馬鹿だな、本気にするなよ」
明彦は頭の休息が必要だと感じた。
「いったん話を切り上げよう。このままだと埒が明かない。話をまとめようとしても、異なる問題が多すぎてまとまりがつかない。もう少し時間がたてば何か閃くかも」
類も明彦の意見にうなずく。
「それもそうだな。あしたまで話し合っても答えは出ないだろうし、混乱した頭を一度すっきりさせたほうがいいよな」
明彦は言う。
「脳みそを休ませないとね」
「だな」と、明彦に返事してから、類は独り言のように言った。「巧みに仕組まれた島のカラクリを解くには、まだ時間がかかりそうだ」
明彦は言う。
「ずいぶんと厄介なカラクリを解く破目になったな。医学部の受験より難しそうだよ」
類は言う。
「医学部どころかどんな試験より厄介なんじゃないの?」
明彦は軽く笑って言った。
「言えてるな」
純希が言った。
「謎の共通点とかあればなぁ……」
類は純希に言う。
「共通点? そんなものないんじゃないの?」
類と純希の疑問に対して、明彦は自分の考えを言った。
「きっと……共通点が存在するはずだ。それがわかれば、すべての謎が明らかになると思う。そしてここが異世界の島なら、現実世界に繋がる出口も見つけられるだろう。
どっちにしろ、俺たちの常識では考えられないヤバい状況に巻き込まれていることだけはたしかだけどな。だからこそ、すべてにおいて慎重に考える必要がある」
「馬鹿はやらかさないよ」類は真剣な表情で言った。「だけどここが現実世界で、俺たちがぶっ倒れる前に救助隊が来てくれる、それが最高なんだけどね」
明彦も言う。
「たしかにそれが一番だ」
光流がぽつりと言う。
「今夜はいったいどんな夢を見るんだろう」
「さぁ……わからない」と光流に返事した明彦は、ボストンバッグのチャックを開けて、椰子の実を取り出した。
椰子の実は冷蔵庫に保管しているわけではないので、未開栓のお茶とオレンジジュースには手をつけずに、鮮度が気になるココナッツジュースを飲むことにした。明彦は、椰子の実に鉄屑の先端を突き刺した。
健が疑問を口にした。
「たとえ果実が実った木々を発見したとしても摘み取れないなら、食糧が尽きたときは何を食えばいい?」
明彦は唇を結んだ。浜辺に辿り着いたら海藻や魚介で飢えを凌ごうと考えていた。それなのに……腐った魚を見つけたところで食えないのだ。
類が言った。
「それはそのときに考えようぜ。いまは頭が混乱中」
健は類に言う。
「だけど、ある意味、一番大事なことだ。戦法の兵糧攻めで敵から勝利を勝ち取れるんだ。俺ら生体が奇妙な力に守られている保証はないんだ。ふつうの肉体なら食が尽きた時点で終わりだ」
類は顔を強張らせた。
「怖いこと言うなよ」
明彦も言った。
「健の言うとおりだよ。考えることがいっぱいありすぎて眩暈がしそうだな。山積みになった問題集よりもマジで厄介だ」
純希が、綾香と道子をちらりと見てから言った。
「兵糧攻めか……仲間割れが一番怖いんじゃねえの? 最後に残った椰子の実を巡る争奪戦が始まって、のちにデスゲームに発展するのかもな。それこそ、道子たちがビビってるラストだろ? もしくは空腹に耐え兼ねて、互いの肉を喰らい合うとか」
不快な表情を浮かべた道子は、語気を強めて否定する。
「肉を喰らい合うなんて、絶対にありえないから!」
綾香は、旅客機の墜落現場の大地を埋め尽くす死体が頭に浮かんだ。
「そうだよ! 言っていい冗談と悪い冗談がある!」
純希はふたりに言った。
「冗談で言ったつもりはないよ。明彦が何回も言ってるだろ? 常識では考えられないヤバい状況に巻き込まれたってな。何がきっかけで地獄と化すか、誰にもわからないんだよ」
男子を交えて話し合っても、綾香と道子の性格上、さらに仲がこじれるだけだ。鈍感な類も綾香とは長いつきあい。もちろん綾香の性格を熟知している。それに、喧嘩の原因は昨夜の夢だとわかっているので、類は余計な発言はせずに綾香に椰子の実をひとつ差し出した。
「物騒な会話よりも、いまは椰子の実を楽しもう。サバイバル生活なんだから、女子にもある程度の力仕事もやってもらう」
綾香は類から椰子の実を受け取った。
「うん。わかってる」
椰子の実を飲める状態にした明彦が、綾香に鉄屑を渡して冗談を言った。
「力はけっこう必要だけどコツを掴めば簡単だ。新学期を迎えたらクラスの女子に、筋肉がついた引き締まった腕を自慢できるよ。俺も引き締まった体になれるかも、なんてね」
綾香は口元に笑みを浮かべた。
「そうだね。いいかんじの腕になるかも」
結菜が言った。
「新学期はモデル体型だね」
斗真がすかさず言った。
「俺はぽちゃぽちゃした腕が好きだな。女の子らしくて可愛い」
純希も嬉しそうに言った。
「俺はモデルみたいな年上の美人が好き」
咳払いをした綾香は、ふたりに厳しい視線を向けた。
「好みを語るなら女子がいないところでして。それにいまは、それどころじゃないでしょ?」
斗真と純希は、気まずそうに綾香から目を逸らした。そのあと、純希が小声で謝った。
「すいませんねぇ……」
苦笑いした明彦は、綾香にストローを差し出した。
「俺らは豪快に回し飲みするから、女子が使っていいよ」
綾香はストローを受け取った。
「ありがとう」
明彦は解体した椰子の実を類に渡したあと、リュックサックの中を覗いてキャラメルを取り出した。未開封のキャラメルは十二個入り。ひとつ足りない。
どのように分けるべきかを考えていると、純希が首を横に振って顔を強張らせた。純希は甘い食べ物が大の苦手。もちろんみんな知っている。
「糖分は大事なのはわかってる。でも、それは無理だ。歯にくっついたときが最悪」
大の甘党の由香里が、純希に訊く。
「いいの? この先、食べたくても食べれないんだよ」
同じく甘党の美紅も、純希に言った。
「ジャンケンするべきだよ」
空腹でも食べたくない純希。
「ジャンケンしてまで食べたいと思わないし、むしろ勝ちたくないかな」
「美味しいのにね」と、声を合わせて言った由香里と美紅は、喧嘩しているわけではないのでふつうに会話したい。けれども綾香と道子が険悪なため、ちらりと目を見合わせてから顔を逸らした。
ぎこちない様子の由香里と美紅の胸中を察した明彦は、あえてふたりに話しかけずに純希にアドバイスした。
「でもチョコレートは薬だと思って食べるんだぞ」
純希は嫌々ながら返事した。
「努力する」
明彦は箱を覆っているビニールを開封して、個包装されたキャラメルを一同に差し出した。椰子の実を解体している綾香も、作業を中断してキャラメルに手を伸ばした。
類もキャラメルを手にしたあと、念のために純希に確認した。
「食べちゃうぞ」
どれだけお腹が空いても欲しいとは思わない。
「それを口に入れた瞬間、俺の寿命が縮むだけだ」
類は言う。
「じゃあ遠慮なく」
甘い香りがするキャラメルを口に入れた。慣れ親しんだ味が舌の上で安堵をもたらした瞬間、思わず笑みが零れた。とくに由香里と美紅は、恍惚とした表情を浮かべて味わっていた。
類はキャラメルを食べながら、教室の中で机の位置が近い由香里と友達になったきっかけをふと思い出した。
「そういえば、入学当時、授業中に腹が鳴ったとき、どこかともなくキャラメルが飛んできたんだ。誰かと思ったら由香里。こいついっつも授業中に何か食べてるんだぜ。先生に見つかったら怒られるぞ」
由香里は言い訳するつもりはない。
「だってお腹が空くんだもん」
痩せ型の類と由香里に、恵が言う。
「いいよね、ふたりとも食べても太らない体質で。あたしは食べた分だけ身になるから気をつけないと、すぐに体重が増加しちゃう」
由香里は恵に言った。
「でもぜんぜん太ってないじゃん」
恵は悩みを打ち明ける。
「お母さんも太りやすいの。体質は遺伝だから気をつけてるもん。自己管理は大事だからね」
明彦が言った。
「俺も太りやすいから夜食は控え気味」
類は言う。
「体重なんか気にしたことないから、夜食にカップ麺を食べるのが好き」
明彦は気になるお腹をさすった。
「太らない体質が羨ましいよ」
リュックサックの中に手を入れた純希が、ハーフサイズのポテトチップスを取り出した。食糧はかぎられている。少しくらい節約しても近いうちに底が尽く。昨夜から何も食べていないので、ココナッツジュースだけでは足りやしない。それに女子が険悪な雰囲気だからこそ、みんな大好きないつもの味が精神安定剤のような役割を果たしてくれそうな気がした。
「ココナッツジュースを飲みながらポテトチップスなんて南国らしいだろ」
綾香が純希に訊く。
「いま食べちゃっていいの? まだ我慢したほうがいいと思うんだけど」
純希は言った。
「お腹が空いてるとイライラするし、食べたら少しは気持ちが落ち着くと思うよ」
純希の考えが読めた明彦が笑みを浮かべた。
「俺が好きなコンソメ味だ。みんなで食べよう」
(綾香と道子のピリピリした雰囲気も少しはマシになるといいんだけど)
純希の考えはさておき、類もポテトチップスが大好き。
「いいねぇ、俺も食べたいって思ってたところ」
由香里も目を輝かせた。
「美味しそう」
純希は言った。
「どうせならビッグサイズが欲しかったけど、しかたないよな」
明彦は純希に言った。
「これを持っていたひとは死んだんだ。俺たちに食わせようと思って機内に持ち込んだわけじゃない。わずかな量でも感謝しよう」
純希は、いましがた言った言葉を反省する。
「そうだよな……感謝しないとな」
類は言った。
「さぁ、食べようか」
健が、椰子の実に悪戦苦闘している綾香に目をやった。
「大丈夫?」
綾香は、ちょっとした嫌味を言う。
「ありがとう。おやつに夢中な類より優しくて男前なのね」
健は笑う。
「いまさら。気づくの遅すぎ」
類は綾香に言い返す。
「モデルなみの腕で新学期を迎えたいんだろ? じゃあ頑張れ」
綾香も類に言い返した。
「言われなくても頑張ってる。あともう少しなんだから」
結菜が綾香に手を差し出した。
「交代するよ」
何かに集中していたほうが余計なことを考えなくて済む。心を疲れさせるよりも、ふだん使わない筋肉を疲れさせたほうがまだましだ。
「いいの、もうすぐ終わるから。それこそ、素敵な腕になれそう」ようやくココナツジュースが飲める。「超、疲れたぁ」
類は、綾香に割り箸を放り投げた。
「おめでとう、ほら」
割り箸を受け取った綾香は、手順どおり椰子の実にストローの挿入口を作り、喉を潤せる状態にした。ストローを口に含み、ココナッツジュースを飲む。
「美味しい」
女子の回し飲みが始まった直後、純希がポテトチップスの袋を開封した。そしてそれを輪になって座る全員の中心に置いた。空腹の一同は、一斉にポテトチップスに手を伸ばした。
軽いサクッとした歯触りと豊かな味わい。ほんのいっときだけでも、いまを忘れられる気がした。いつも食している味だからこそ気分が落ち着く。だがそれと同時に、日常生活が恋しくなってしまう。
温かいお風呂に入りたい。柔らかなベッドで眠りたい。美味しい家庭料理が食べたい。教室でたわいない会話をしていた夏休み前の日々が遠い過去のように思えた。
(理沙に逢いたい。あと何日寝たら俺たちは救われるのだろうか?)
類はポテトチップスを口の中に運んだ。ハーフサイズは十三人で食すには少ない。わずかな量でも死者に感謝しなければ、と純希に言ったばかりだが、食べ盛りの類の空腹は満たされない。救助ヘリさえ上空を飛んでくれたら、お腹が満足するだけの食にありつける。もっといっぱい食べたいと思いながら、最後の一枚に手を伸ばした。
「食べてもいい?」
純希が言った。
「俺らよりもお前と一緒に墜落現場に戻った明彦と光流に訊いてみろよ」
綾香も言った。
「そうだよ、ふたりに訊いてみなよ」
類が訊く前に、明彦と光流はうなずいた。そして明彦が言った。
「ムードメーカーには元気を出してもらわないとね」
ふたりの優しさに感謝した。
「ありがとな」
類がポテトチップスを食べた直後―――
青天の空が鈍色に染まり、雨が降ってきた。まるで水を張ったバケツをひっくり返したかのような土砂降りに驚く。
一斉に頭上を見上げた一同は、樹木の葉の合間から覗く光景に息を呑んだ。大地を照らす太陽の代わりに稲光が空を制して駆けゆく有様は、あたかもドラゴンのような迫力だ。その直後、大地が揺れるようなすさまじい轟音が響いた。
体を濡らす雨水が砂埃や血液を含んで赤褐色に染まり、大地に滴り落ちた。ようやくだ、と待ち望んでいた雨に笑みを浮かべた。
純希は体に付着した汚れを落しながら言った。
「やっと降ってきた。だけど、スコールって午後から発生するんじゃなかった?」
周囲の植物が雨に打ちつけられ、激しい雨音が周囲に響く。類は声を張り上げて説明した。
「朝からスコールに悩まされたって、海外旅行が好きな親戚の叔父さんが言ってたから、午前中から降ることもふつうにあるみたいだよ」
純希は納得する。
「ここが現実世界なら、雨季だから雨降りが当たり前だよな。きのうみたいに晴天が続く日は滅多にないってことか」
そのとき光流が、天気とスマートフォンの日付についてはっとする。
「八月一日の繰り返しなら天気だって同じはず。だったら、どうして雨が降るんだ? きのうは雨なんか降ってない」
明彦が光流に言った。
「この島が現実であれ異世界であれ、俺たちがこの時間帯の天気を知るはずがないだろ? だって、きのうのいまごろは、まだ自宅なんだから」
よく考えてみればそうだ。
「飛行機が墜落したのは午後だったな」
類は光流に顔を向けた。
「細かいことを考えるのはあとだ。とりあえず体の汚れを落そう」
光流は類の真似をして腕を擦る。体にこびりついた汚れが流れ落ちると、心なしか気分が落ち着いた。ついでに、顎を上げて雨水で顔を洗った。
「超気持ちいい」
頭上を見上げた綾香が言った。
「いままでは葉っぱがいい日除けになっていたけど、雨除けにはならないみたいね。だったらここに留まる意味がない」
美紅も言う。
「雨の中を歩くのもいいかもね。汚れを落しながら先に進もうよ」
「そうだな」類も綾香と美紅の意見に賛成した。「浜辺を目指したほうがよさそうだ」
翔太が類に言う。
「さっさと歩こうぜ」
道子も類に言った。
「行こう。海も荒れてるかもしれないけど、ここよりマシだよ」
全員の意見が一致したので、荷物をまとめて進むことにした。きのうは旅客機の墜落現場に戻った類たち三人にすべてを頼っていたので、お菓子や飲料を収めたリュックサックは健が背負った。
純希が、残り三個の椰子の実をまとめてボストンバッグに詰めて肩に掛けた。そのあと、余ったボストンバッグを大地に放置して類に訊いた。
「いらないだろ?」
類は答えた。
「いらない。荷物になるだけだもん」
純希は足を踏み出した。
「じゃあ、行こうぜ」
「うん」と純希に返事した類は、雨が降ってからうつむいたままひとことも発しない結菜を心配した。「どうかしたの?」
結菜は両手で顔を覆って、重苦しいため息をついた。
「…………」
類は結菜に顔を向けた。
「具合でも悪いの?」
綾香も結菜の体調を心配する。
「大丈夫?」
結菜の様子を見ていた綾香以外の女子は唇を結んだ。
綾香は女子たちに顔を向けて訊いた。
「何? どうしたの?」
すると美紅が、結菜に優しく言った。
「誰も気にしないよ」
いったい何を言っているのか……綾香と男子にはさっぱりわからない。だが、美紅たちは結菜の “何か” を知っているようだ。
結菜は顔を覆い隠していた両手をゆっくりと下ろした。そして、覚悟を決めて顔を上げた。二重瞼にする化粧品アイプチが雨で流れ落ちて、一重瞼に戻ってしまったのだ。気まずそうな表情を浮かべた結菜は、一同に打ち明けた。
「バレちゃった。あたしのコンプレックス。美紅たちは知ってたんだね」
美紅は口元に優しい笑みを浮かべた。
「あたしにもコンプレックスはあるよ。自信に満ちた女の子に憧れるけど、それって難しいことだから」
由香里が言った。
「結菜みたいに背の高い女の子が羨ましい。あたし、小さいから」
結菜は言った。
「あたしは由香里みたいに目のぱっちりした子が羨ましいよ。だっていっつもアイプチだもん」
メイク後の顔はちがうものだろうと男子なりに想像していたものの、明彦以外は見慣れない結菜の素顔に若干の戸惑いを覚えた。とはいえ、明彦も結菜の素顔は初めて見る。だが、まったく抵抗はなかった。
そして、細かいことは気にしない性格の類が自分の頭を指さした。
「ほら、俺なんか天パだ。雨に打たれても無駄にすごい形状記憶」
「ぜんぜん可愛いよ。理沙も類の天パが可愛いって言ってたし……」と類に言った結菜は、自分の顔がコンプレックスになってしまった原因を打ち明けた。「中学のころ好きだった同級生に、勇気を出して告白したらふられちゃったの。あとでひとづてに聞いたんだけど、目のぱっちりした女の子が好きで、あんなブスはタイプじゃないって言ってたみたい」
「俺を見てみろよ、超小さい目だぜ」明彦が結菜に言った。「そんな男、むしろふられてよかったじゃん。ひとを外見で判断するなんて最低だと思う。それに結菜はブスじゃない。俺が保証する。可愛いから安心しろよ」
結菜は明彦の言葉に驚く。
(あたしが可愛い? うそでしょ?)
「そのままの結菜でいいんだよ。そんな奇妙なボンド……」化粧品に疎い明彦は言い直した。「アイプチだっけ? 必要ないじゃん」
母は言う―――安心して、あなたは可愛い。そのままの結菜でいいんだよ。すべてのひとが同じだったら、そこにはなんの価値もない。異なるからこそ価値がある。そしてその価値を個性と言うのよ、と―――
大きな目も小さな目も、高い鼻も低い鼻も、すべて個性だ。母に言われたとおり、子供のころはそう思っていた。私は私、みんな同じじゃつまらないもの。
でも、世間は容姿も才能のうちと言う。だからこそ余程の才能がないかぎり、容姿が重要視される世の中に嫌気が差す。成長するにつれ、母が言ってくれた言葉が頭の中から消えていった。どうしても周囲の子と比べてしまう、つらい劣等感。
私だって可愛く生まれてきたかった……。
ずっと容姿が劣れば損をすると思ってきた。じっさい、幾度となくそのような場面に遭遇してきたのだから……。
容姿が原因でつらい失恋をしたからこそ、自分を磨く努力を怠らなかった。髪型や化粧や洋服で可愛く見せるための研究をして、化粧が崩れていないかを確かめるために鏡ばかり気にしていた。
前向きに頑張ろうとしても、いつも鏡の前でコンプレックスと向きあうたびに思うことがある。お世辞ではなく、あのころの母と同じ言葉を本心から誰かに言ってほしい。もし、好きな異性に言ってもらえたらどんなに幸せだろう。
安心してもいいって―――
可愛いって―――
そのままの結菜でいいって―――
心に受けた傷が人生を構築するひとつの要素となりうるなら、それはトラウマとして乗り越えなければならない障害となってしまう。どれだけ努力しても癒えることのない失恋のトラウマに、長いあいだ苦しんでいた。
けれども―――コンプレックスを含め、ありのままの自分を受け入れてくれる優しい明彦の言葉に救われた―――
トラウマが癒されていく―――まるで、降りしきる雨が、体にこびりついた汚れを洗い流してくれるかのように―――
「明彦……」
明彦は結菜に歩み寄り、ショルダーバッグを拾い上げて差し出した。
「ほら、忘れ物。スマホも入ってるんだろ?」
ショルダーバッグを受け取り、肩に掛けた。
「うん、ありがとう」
胸が高鳴った結菜の目から涙が零れ落ちそうになったとき、類が明彦の背中を軽く叩いてふたりを冷かした。
「俺たちがいるのに告るなよ。水が滴るがり勉ナイスガイだな」
赤面した明彦は慌てる。
「告ってないし! てゆうか、がり勉ナイスガイってなんだよ!」
一同の笑い声が周囲にこだました。
美紅が、結菜と明彦に言った。
「ふたりだけの世界に行っちゃって」
結菜は顔を紅潮させた。
「ちょっと、かんちがいしないでよね」
そう言いつつも、結菜と明彦は目を合わせて照れ笑いした。完全に両想いのふたり。ひとはどんな状況下でも恋をするものなのだろう。ふたりも類と理沙に負けない “ラブラブ” なカップルになるはずだ。
胸が温まる光景に一同の顔にも自然な笑みが零れた。
綾香以外は―――
結菜と明彦の仲を心から祝福するけど……心から笑えなかった。
結菜とはなんでも打ち明けられる親友だと思っていたのに……自分だけが彼女のコンプレックスを知らなかったなんてショックが大きい。
なんでも話せる……親友……。
なんでも?
本当になんでも話せていたのかな?
あたしも誰にも言えない秘密がある。
それは、絶対に知られたくない過去の想い。
類に目をやった綾香の頬に、雨水とはちがう水滴が流れ落ちた。
類は綾香に顔を向けて、「どうした?」と訊いた。
うつむく綾香は答えた。
「泣き笑いだよ……」
「だよな、カップル成立。しかもこんな場所で」類は嬉しそうに笑ながら、綾香から一同に視線を移した。「よし、みんな。盛り上がったところで出発だ。いろいろな問題がありすぎて頭が痛いところだけど、いまは浜辺を目指すことだけを考えよう」
気持ちを切り替えた明彦が言った。
「この先、何があるかわからない。絶対に油断するんじゃないぞ」
類は一同に出発の声をかけた。
「行こう!」
放たれた矢のような雨と、分厚い鈍色の雲に覆われた空。視界が悪いので、足場に気をつけながら前進した。だが、どれだけ懸命に歩いても、似たような景色に取り囲まれている。自分たちは無事に浜辺に辿り着けるのだろうかと不安を覚えた。相変わらず険しい道が続くうえに、雨もまだ収まりそうにない。
人間とは贅沢なものだ。あれだけ望んだ雨も体に付着した汚れが流れてしまえば、もう不要だと感じてしまう。それに、どれだけ雨が降ってもTシャツまでは綺麗にならない。
(せっかくのプレゼントだったのに汚しちゃってごめんな)
類は、理沙への想いを巡らせながら歩き続けた。次第に天を突き抜けるような高木の本数が減り、低木や下草が茂る道へ出た。遥か頭上を覆っていた樹木の葉が無くなったのと同時に、稲光が光る空が広がった。
周囲にはそれなりに背の高い樹木がちらほらと見えるが、視界を遮るような高木から解放されたおかげで見通しが利く。それから、雷は高い場所に落ちる性質があるので、少しだけ安心した。けれども心とは対照的に足場が悪い。
類は、息を切らして歩く女子の体力を心配した。険しい道はどこまで続くのだろう、と目を凝らして遠くを見渡した。すると、視線の先に、植物に埋もれたかたちで軽飛行機が墜落しているのが見えた。驚いた一同はざわめいた。
類は後方を歩く明彦に確認してみた。
「どう見ても軽飛行機だよな?」
明彦は目を凝らしてじっと見る。
「うん。軽飛行機だ」
由香里が怖々と言った。
「でもどうして、こんな場所に……」
類は一同に言った。
「どうせ進む方向にあるんだ。行ってみよう」
植物が足場を邪魔しているため、女子の体力を考えて、歩行速度は上げずに歩を進めた。なるべくなら体力の消耗を最小限に抑えたい。
一同は厳しい雨風に負けじと歩いて、軽飛行機に辿り着いた。
機体は墜落の衝撃で大破しており、乗降口の扉と折れた翼が大地に落ちていた。その周囲には、墜落時に薙ぎ倒された木々が重なり合っている。
倒木を跨いだ一同は、内部を覗いてみた。構造は六人乗り。擦り切れた全座席には、血痕と思われる赤褐色の染みが目立つ。
生体が守られているなら、この軽飛行機に乗っていたひとたちも生きていたはずだ。しかし、この赤褐色の染みがすべて血液なら致死量に達している。
やはり―――墜落の衝撃で異世界にワープしたのだろうか―――
それとも―――ミクロネシアのどこかの島なのだろうか―――
軽飛行機の周囲に視線を巡らせながら、ゆっくりと歩く類の爪先に硬質な何かが当たった。気になったので、大地を覆う葉を捲ってみると、つる性植物が巻き付いた悍ましい髑髏(どくろ)が転がっていたのだ。
悪趣味な植木鉢と化した髑髏に驚いた類は、墜落現場で椰子の木の羽状複葉を捲ったさい目にした幼い子供の前腕が頭をよぎり、後退りした。
「なんなんだよ……この島は。気味が悪い」
明彦が言う。
「頭部から分離した体は、野生動物の餌になったみたいだな」
純希が言った。
「ほかに乗っていたやつらも餌ってことか……」
そのとき、由香里が取り乱した。
「餌って、人間が餌だなんて! どうして! どうして、そんなに冷静なの! みんな、どうして悲鳴も上げないのよ! 髑髏が転がってるんだよ! 座席にだって血の痕がいっぱい!」
日常生活で髑髏を発見すれば、まちがいなく悲鳴を上げていた。肢体から分離した血の滴る生々しい頭部に比べたら……そんな考えが脳裏をよぎること自体ふつうではないのかもしれない、と思った恵は、ため息をついてから、由香里の肩に手を置いて宥めようとした。
「落ち着いて、由香里。大丈夫だから」
旅客機の墜落現場に落ちていた頭部も救助隊がこなければ野晒しになる。炎天にさらされた肉は朽ち果て、やがてはここに転がる髑髏と同じになる。もしかしたら、自分たちもこの髑髏のようになるかもしれない。怖い想像をした由香里は、恵の手を振り払った。
「何が大丈夫なの! もういや! もういやなの! ここは妖精が棲むネバーランドじゃない! 死神が棲む呪われた島なんだよ! あたしたちは新学期なんて迎えられないんだ! 何年たってもこの島から抜け出せずに、十七歳のまま死んじゃうんだよ!」
類が由香里に声を張った。
「俺たちは絶対に新学期を迎える! たとえここが異世界だろうと、お前が言うように死神の島だろうと、俺たちは出口を見つけて脱出する!」
由香里は類の声を無視して、駆け出した。それも進もうと考えていた方向ではなく逆の方向へ。
由香里を引き止めようとした類は、声を張り上げた。
「どこに行くんだよ!」
恵も声を張り上げた。
「危ないから落ち着いて!」
健が類に言った。
「そう遠くまでは行かないと思う。気持ちが落ち着くまでひとりにしてあげたほうがいい」
類は心配する。
「だけど……」
美紅も健と同じことを言う。
「少しだけ由香里に時間をあげたほうがいいんじゃない?」
類は、すぐにでも由香里を連れ戻したい。
「かもしれないけど、危険だから心配なんだ。何かあってからじゃ遅い」
恵も、美紅と健の意見に反対する。
「あたし由香里を慰めてくる。ひとりで泣くよりも話を聞いてあげたほうがいいと思うの」
そのとき、綾香が、由香里が走る方向に違和感を覚えた。
この先の大地が途切れている……。
旅客機の墜落と同じ衝撃を肉体に与えて現実世界に戻る話は、あくまでたとえ話だ。なんの保証もない。万が一、断崖絶壁だった場合、大変なことになる。
綾香は、由香里を呼び止めようとした。
「由香里、危ない!」
突然、綾香が大声を上げたので、一同は驚いた。
大地の途切れに気づいた結菜が、慌てて前方を指さした。
「あの先は崖かもしれない!」
類たちは結菜が指さす前方を見て驚愕した。だが、泣きながら走っている由香里は気づいていない。
「由香里! 崖だ!」
大声を張り上げた類は、由香里を呼び止めようとした。しかし、大きな雷鳴によって声が掻き消されてしまう。声が届かないのだから走るしかない。類が一歩足を踏み出した瞬間、いままでで一番大きな稲光が空を駆け抜けた。その直後、すさまじい衝撃音が聞こえた。そして轟音が周囲に響いた。どうやら旅客機の墜落現場に雷が落ちたようだ。一同は、そちらの方向に気を取られた。
(大破した機体か樹木にでも落ちたのだろうか?)
ここにも金属の塊がある。落雷があっては大変だ。立ち止まっている場合ではない。早く先に進むべきだ。由香里を連れ戻して、この場から立ち去りたい。
類は、危険を知らせるために全力疾走で駆け出した。そのあとに一同も続いた。百メートルを十一秒台で走る類には敵わないが、由香里を心配する気持ちは同じ。
懸命に走る類は、由香里に向かって腕を伸ばし、華奢な体を抱きしめた。間に合ったと安堵した瞬間、泥濘に足を取られ、由香里を抱えたまま転倒した。
その直後―――一同の視界から類と由香里が消えた―――
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