【7】奇妙な夢と鏡の世界
きょうは心身ともに疲れた。
いつもよりずいぶんと早い就寝時間だというのに、一同はあっという間に眠りに落ちた。
だが……眠るのが早すぎたのだろうか、類が目覚めてしまう。
そこは緑が生い茂ったジャングルではなく、非常灯と火災報知機の赤ランプの光が目立つ夜の校内だった。
正面には横長の鏡が設置された水飲み場があり、女子トイレと男子トイレがある。その向かい側は自分たちが通う二年三組の教室だ。
掲示板には文化部が作成したポスターや、学生に必要な情報が掲載されたビラが貼られている。何もかもいつもどおり見慣れた校内の光景だ。珍しくもなんともない。むしろ落ち着くくらいだ。
類は掲示板から自分に視線を移した。白半袖のワイシャツに黒いズボン、夏の制服を着ていた。
(なるほどね。ここは夢の中か。どうせなら理沙と一緒にいる夢が見たかったな)
ふたたび掲示板に目をやった。
夏休み前と同じポスターとビラ。
けれども何かがちがう……。
首を傾げて掲示板を見つめた。「文字が反転してる」と、後方から綾香の声がしたので振り返った。すると全員が廊下に立っていた。
類は、綾香から掲示板に視線を戻した。
「違和感があったのは、文字が反転していたせいだったのか……」
夢にしてはやけに現実味を帯びている。しかし、現実であるはずがない。ここは夢の中。全員が揃って同じ夢を見るはずがないので、綾香との会話もさほど気にしなかった。もちろん反転した掲示板の文字も然り。朝を迎えれば忘れているか、奇妙な夢だったと思う程度だろう。真剣に考え込んでも意味がない。
「制服を着たみんなと一緒にいる夢を見るなんて……」明彦が独り言を言う。「疲れているのにレム睡眠なんだな。脳が日中の記憶の整理をしているなら、サバイバル系の夢を見るはずなのに。まあいいや、どうせ夢だし。それにしても、夜の校内だなんて、ずいぶんと平和な夢だ。現実もこうだと最高なのに」
類は、理屈っぽいところまで現実と同じだと思った。だが、夢の中だからといって、ピエロの姿をした明彦がおどけていたら、反転した文字よりも奇妙だ。
「まともなお前でよかった」
明彦は首を傾げる。
「まともな俺? まともじゃない俺ってなんだ?」
綾香はいつものセーラー服を見つめて言った。
「血塗れの衣服よりいいけど本当にへんな夢。でも夢なのにリアル」
類は綾香に顔を向けた。
「言えてる、リアルだよな。マジでお前といるみたいだもん」
「やめてよ。同じ夢の中にいるわけないじゃん。非現実的な話は嫌いだって、いつも言ってるでしょ」じっさいに類と会話しているような気がした。しかし、絶対に起こり得ないので頭を切り替えた。「夢の中の類にマジになってどうするの? 馬鹿らしい」
「俺とお前が同じ夢の中いるなんてありえない」
「そうだよ、そのとおりだよ。調子が狂うから話しかけないで……」
(マジで調子狂うなぁ。へんな夢……)
類と綾香が奇妙なやりとりをしていたとき、斗真と翔太が頭を触り合っていた。チクチクした短髪の毛が互いの指先に伝う。
翔太は首を傾げた。
「へんなの、なんだか気持ち悪いな」
斗真は自分の両手を見つめて、握ったり開いたりを繰り返してみた。
「感覚がある……」
光流も、恵の肩にそっと触れてみた。すると、じっさいに触れているかのような感触が指先に伝わった。驚いた光流は、恵の肩から手を離した。
「本当に恵が目の前にいるみたいだ……」
恵も言った。
「あたしの肩にも感覚があったよ。みんな同じ夢の中にいるんだよ」
“『ネバーランド 海外』が仕組んだ罠なのでは?” と、ふたたび嫌な妄想に取り憑かれそうになった光流は動揺した。
「ありえないよ。俺と恵が同じ夢の中にいるなんて……」
掲示板に歩み寄った由香里が、近くにいた純希に訊いた。
「なんだか、鏡越しに見てるみたいだね。反転した文字を見てどう思う?」
純希は、由香里に適当な返事をした。
「べつに何も思わないよ」
(体に疲労が蓄積されてる。だから奇妙な夢を見る。それだけのことだ)
由香里は周囲を見回した。
「何もかもが現実の学校と同じだね」
由香里を無視した純希は、自分に言い聞かせるために独り言を言った。
「これは俺が見ている夢なんだ。朝になって目覚めた由香里は、デザートを食べた夢を見たって言うに決まってる」
由香里はぽつりと言う。
「純希もこの夢が怖いんだね……」
純希は返事せずに、床に腰を下ろした。
(じっさいに話しかけられてるみたいで頭が混乱する)
そのとき、自分の顔が気になっていた結菜が、水飲み場の鏡を見た。だが、顔どころか影すら鏡に映っていなかったのだ。みんなの姿も映っていない。
「あれ?」驚いた結菜は、鏡を覗き込んだ。「どうして?」
明彦は結菜に顔を向けた。
「どうしたの?」
結菜は鏡を指さす。
「へんだよ。誰も映ってない」
「だって夢だから」明彦は鏡を覗き込んだ。「たしかに夢にしてはリアルだけど……そう、これは俺の脳が見せているくだらない夢」
結菜は、姿が映らない鏡を見ながら思った。
(そうだよ、これは夢。朝になって、この奇妙な夢をみんなに話したら笑われちゃうよね。あたしってば、よっぽど鏡が気になるのね)
類たちも結菜と明彦のそばに歩み寄り、自分たちの姿が映っていない鏡を覗き込んだ。
そして綾香が、姿が映らない鏡と、文字が反転した掲示板のポスターやビラを確認した。
「なんだか……鏡の中から現実世界を覗き込んでいるみたいな夢だね」
道子が綾香に訊いた。
「それって、あたしたちが鏡の中にいるってこと? それなら全員が鏡に映らない理由も説明がつく」
綾香は、真剣な面持ちの道子の鼻を人差し指で軽く突いて冗談を言う。
「パラレルワールドってやつね」
真剣に訊いたのに、からかわれた道子は怒った。
「みんな同じ夢の中にいるんだよ! もっと真面目に話し合うべきだよ! 奇妙な世界に迷い込んだのよ、あたしたちは! すべて『ネバーランド 海外』が仕組んだ罠だよ!」
綾香は道子の声に驚いた。
「熱くならないでよ。『ネバーランド 海外』って単なるツアー会社じゃん。意味わかんない」
(本気で怒られているみたいで不快なんだけど)
「真剣に考えてほしいだけ! 怖いんだよ、あたしは! 夢がリアルすぎる!」
「真剣に考える……とはいえ、いまの道子に真剣になってもね」
(そうよ、これは夢)
「これはガチなの! どうしてふざけるの!」
「ふざけてるのはそっちじゃん」
(なんなのよ……イラッとする夢だな)
「学級委員長だからってえらそうに」
「べつにえらそうしてないけど。自分の意見を主張してるだけ」
(そうだよ、現実の道子があたしにこんなこと言うわけないじゃん)
険悪な雰囲気だったので、類がふたりのあいだに割って入った。
「喧嘩はやめようよ」
(これは夢だ。でも喧嘩する夢は好きじゃない)
綾香は、壁に背をつけて床に腰を下ろした。現実では長距離を歩いて疲れている。せめて夢の中くらいゆっくりしたい。このままでは、いくら寝ても心が休まらないので喋るのをやめた。
(じっさいに言われてるみたいでマジでムカつく)
綾香と同様に気の強い道子。綾香と対照的な考えを持ちながらも、同じ苛立ちの感情をいだく。
(超ムカつく、こっちは真剣なのに)
類は道子に言った。
「喧嘩はよくないし、とりあえず座ろうよ」
( “現実っぽい夢” っていうより、現実みたいだ……。奇妙すぎる……)
道子は、類の肩を掴んで前後に揺さぶった。
「類、お願い、信じて。あたしたち大変なことになっちゃうよ!」
類の顔が強張る。
「おい、道子、やめろって」
(気味が悪い。本当に揺さぶられてるみたいだ。どうなってるんだよ、まったく)
現実の教室で喧嘩が起きているわけではない。他人ごとの結菜と美紅は、綾香の隣に腰を下ろした。そして結菜が道子に毒突く。
「夢の中まで冗談きつい」
真剣な道子は、結菜に言い返す。
「冗談なんか言ってない」
ジャングルを歩くのも疲れるが、言い争いはもっと疲れるので、結菜は、それ以上、道子を相手にしなかった。
それを見た恵が、結菜と綾香と美紅に言った。
「目覚めれば信じるよ。みんな同じ夢の中にいるってね。もしも異世界だったら、元の世界に戻れる保証はないんだよ。だからうちらは真剣なのに……」
由香里が言う。
「こんなにもリアルなのに疑いようがないよ」
道子は一瞬だけ綾香に目をやった。
「強情な誰かさんはきっと目覚めても信じないよ」
道子に不快感を覚えた綾香は眉をひそめた。しかし、真剣に取り合うだけ時間の無駄だ。
「あたしってば超疲れる夢を見てるかんじ。目覚めは最悪ね」
(あしたはまたジャングルを歩くんだ。こんなところで疲れてなんかいられない)
綾香の言葉に、美紅もうなずく。
「ほんと、言えてる」
類も同感だ。
「だな……」
夢なのに異様に疲れる……。
現実世界において、綾香と道子が争うことなどいままでなかった。個性が強いふたりだが、類が知るかぎり仲は良いはずだ。去年は理沙を交えてみんなでキャンプも楽しんだ。理沙は隣のクラスだが綾香や道子とも友達だ。
みんな仲良しなはずなのに……。
(夢だからだよな。目覚めればみんないつもどおりだ。協力しあって浜辺を目指す)
けれども、類の考えとは異なり、しまいには泣き出す道子。
「信じてよ」
夢だとわかっていても女子の涙に弱い。
「まいったなぁ」
翔太は、想いを寄せる道子の涙を見て辛くなる。
「本当に目の前で泣かれてるみたいだ……」
道子は翔太に言った。
「みんな同じ夢の中にいるって、何度も同じことを言わせないで」
道子の慰め役は翔太のほうが適任だと感じた類は、我関せずの明彦や健の隣に腰を下ろした。そのとき、光流が水道の蛇口を捻ろうとした。だが、どれだけ力を入れても蛇口は回らない。それを見た類は、光流に訊く。
「水が出ないの?」
首を傾げる光流。
「うん。どうしてだろう?」
恵が光流に言った。
「何をしても無駄だと思うよ。ここは鏡の中の世界なんだよ。あたしたちは透明人間みたいな存在なのかも。だから何ひとつ動かせない」
光流は蛇口から離れた。
「透明人間……そのたとえ、怖いよ……」
恵は類に言った。
「ねえ、合言葉を決めない?」
類は理由を訊く。
「合言葉? なんのために?」
恵、道子、由香里は、全員が同じ夢の中にいると確信している。しかし、自分たちの意見を誰も聞こうとはしない。それどころか、頭がおかしいとさえ思われている気がしたので、恵は合言葉を決めることにしたのだ。
「全員が学校の夢を見ていた証拠になるでしょ?」
類は馬鹿らしいと思ったが同意する。
「いいけど」
恵は言う。
「簡単な合言葉がいい」
黙っていた明彦が口を開いた。
「だったら鏡の世界でいいんじゃないの?」
恵はうなずく。
「鏡の世界ね、それはいいかも」
類が一同に確認する。
「みんな、目覚めたら合言葉は鏡の世界だ。いいな?」
道子、恵、由香里、光流以外は、適当に返事した。同じ夢の中にいるはずがないのだ。真面目に取り合う必要がない、そう感じていた。
しかし、夢なのにとても現実味があるからこそ、頭が混乱しそうになっていた。これ以上、疲れたくない。なるべく互いに口を利かないほうがいいだろう。
道子たち三人は廊下を右往左往して、落ち着かない様子だったが、類たちは横になり、目を瞑って時間がたつのをひたすら待った。
雰囲気が悪いせいなのか、退屈な古典の授業よりも時間が経つのが遅い気がした。現実世界でも寝て、夢の中でも寝る。こんなにも奇妙な夢を見たのは初めてだ。
しばらくして腰を上げた類は、教室の引き戸の硝子窓から壁時計を確認した。やはり、文字盤の数字も反転していた。
<5時28分>
(いまからココナツジュースを飲んで、きょうの予定を話し合ったあと出発したら、ちょうどいい時間だ)
「みんな」類は一同に声をかけた。「もうそろそろ起きよう」
明彦は思わず笑いそうになった。
「夢の中なのに現実と時間が同じなわけないじゃん。スマホのアラームをセットし忘れたから勘で起きないとな」
健が言った。
「俺の夢の中にいるお前らに言うのもへんだけど、日の出は六時くらいだって言ってたから、五時半にアラームをセットした。三十分あれば出発の支度ができるがら、一応余裕を持って」
「ナイス」類は健に言う。「俺も夢の中にいるお前に感謝しちゃって、どうかしてるよな」
「頭の混乱から解放されたい」健は苦笑いする。「さっさと目覚めたい気分だよ」
類も苦笑いする。
「俺も」
「ここの時間は現実と同じだと思う」と、類に言った由香里は確認する。「訊いてもいいかな? 合言葉は?」
類は呆れた表情で答えた。
「鏡の世界」
由香里はうなずく。
「はい、正解。目覚めても覚えてるよ」
壁時計を見続けていた純希は時間を告げた。
「五時半分だよ」
類は一同に目覚めの声をかけた。
「それじゃあ、起きよう」
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