【10】浜辺到着

 旅客機の墜落現場から懸命に歩いて、ようやく浜辺に辿り着いた一同は、砂浜に立って海を見つめながら深呼吸した。心地よい潮風に癒される。


 東京の海水浴場よりも透明度が高い青い海は息を呑むほど美しく、死神が棲んでいるとは思えない。とても幻想的だ。


 類は、ずぶ濡れの前髪をかきあげてから女子に顔を向けた。ジャングルから砂浜へと張り出すように植物が茂った場所がある。類はそちらを指さして言った。

 

 「女子も濡れた服を脱ぎたいだろ? あそこだったら気にしないで服を脱げる。俺たちも意識しなくて済むから」


 女子は類が指さす方向に目をやった。奥まった位置に入れば、ここからは見えないので、安心して脱衣できる。それに会話も漏れない。


 類の心遣いに感謝した綾香が礼を言った。

 「ありがとね、類」


 類は話を続けた。

 「用があったら女子がこっちにこいよ。でも、俺らから用があるときは、適当に近寄って大声で呼ぶから、そのときはよろしく」


 綾香はうなづいた。

 「わかったよ」


 湿った服を脱ぎたかった女子は、類が指さした場所へ駆けていった。男子は靴とジーンズを脱いで下着一枚になり、砂浜に腰を下ろしてから、女子の後ろ姿を一瞥した。


 綾香と道子の心の距離が縮まればいいのに―――


 視線を戻した翔太が言った。

 「トランクスも海パンも変わんないよな」


 光流も言う。

 「ほんと、見た目は一緒」


 純希が冗談を言う。

 「でもあくまでトランクスだ。ガードが甘いから、はみちんには気をつけろよ」


 元気がない類の代わりに、ムードメーカーを努める純希の冗談に、みんな笑い声を上げた。ようやく海に辿り着いたのだ。こんなときだからこそ笑いが欲しい。


 「忠告ありがとな、はみちんには気をつけるよ」笑いながら言った翔太は、大きな流木を指さした。「脱いだ衣服をまとめて置こうぜ。しばらくトランクスで過ごそう」


 純希も賛成する。

 「いいね、そうしよう」


 明彦が言う。

 「濡れた服を着てるのって気持ち悪いもんな」


 斗真が言う。

 「女子もしばらくのあいだ下着で過ごせばいいのに」


 類は女子に気を使う。

 「たしかにそう思うけど、下着もビキニも見た目は同じだけど生地がちがうじゃん。女子にとっては大きな差なんじゃないの? 俺たち男子とはちがう」


 斗真は、つまらなさそうな表情を浮かべた。

 「彼女と長いやつは言うことがちがうねぇ。乙女心を理解しちゃって」


 類は軽く笑って言う。

 「ばっか、そんなんじゃないよ」


 斗真はぽつりと言う。

 「夜、降らなきゃいいな」


 類は空を見上げた。

 「眠れなかったら鏡の世界に行けないもん」


 純希が類に言う。

 「理沙に逢えないしな」


 「うん……まぁ」


 いつもの類らしくない返事だ。元気がない理由を説明してくれるのを待っている。それなのに、いつまでたっても言おうとしない。しびれを切らせた純希は訊く。

 「鏡の世界で何かあったんだろ? いい加減、教えてくれてもいいじゃねぇの?」


 みんなも類の様子に気づいている。


 斗真が言った。

 「そうだぞ、水臭い」


 類は、みんなの本心を知るのが怖かった。だが、おもいきって率直に訊いてみた。

 「俺のことどう思ってるの?」


 類の問いかけに全員の目が点になる。


 純希が類に訊き返す。

 「意味がわからないんだけど……。ちゃんと説明してもらえると助かるかな」


 類はもう一度訊く。

 「俺のこと友達だと思ってる?」


 質問の意味を理解した純希は答える。

 「当たり前じゃん。お前ら以外と、六泊七日も一緒にいるなんて嫌だよ」


 明彦も言った。

 「俺も友達以外と一週間も一緒にいたくない」


 純希は言った。

 「そういうこと、俺らはみんな友達だ」


 斗真が類に訊く。

 「でも、どうしていきなりそんなこと訊くんだよ、お前らしくない」


 類は鏡の世界で見た現実世界の生徒たちの様子を教える。

 「うちのクラスの補習の生徒も、ほかのクラスの生徒も、俺たちがこんな目に遭ってるのにいつもどおりだった。誰も俺たちを心配してないんじゃないかって寂しく思ったんだ」


 斗真は思わず笑いそうになった。

 「寂しくって、ガキかよ」


 類は、ふて腐れた子供のようにちょっぴり下唇を突き出した。

 「だって……」


 斗真は言った。

 「補習の連中とそこまで仲良くないじゃん。それに鏡に映っていた生徒の名前、類だって知らないだろ? 立場を逆にして考えてみろよ。事故に遭ったのがそいつらだったら、俺らだっていつもと変わらない日常を送ってるよ」


 類は言う。

 「でもクラスメイトは別じゃん」


 斗真は話を続けた。

 「お前みたいにクラスメイトはみんな友達なんだって社交的な考え方のやつと、仲良し以外とは喋りたくない内向的なやつだっているんだ」


 光流が言った。

 「けっきょくクラスメイトって、先生が勝手に決めた卒業までの強引な運命共同体だもんな。中学のころは人見知りしたし、友達なんてほとんどいなかったもん」


 明彦が光流の言葉にうなずく。

 「わかる。俺もそうだった」


 翔太が言った。

 「でもさ、うちの学校も他校も含めて、仲良くしていた友達は心配してるはずだよ。名前も知らないやつじゃなくて、ちゃんとした友達な。類は浅く広くが多すぎるんだよ」


 うつむく類。

 「かもしれないけど……なんかショックだ」


 類の肩に手を置いた翔太は、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 「十七にもなって中二みたいやつだな」


 「なんだよ、それ」類は言う。「俺は真剣に考えたんだぞ」


 翔太は言う。

 「細かいことは気にしない性格なのに妙に繊細。おもしろいやつだ」



 純希は両腕を空へと突き出し、背筋を伸ばしてから、頭の後ろで腕を交差させて砂浜に横になった。

 「そこが類らしいところだ」


 類は落ち込んだ理由を言う。

 「みんなが俺らのことを忘れちゃったらどうしようかって、マジで不安になったんだ。自分の存在が消えちゃう気がして怖かった……」


 純希は言った。

 「そんなわけないだろ。みんな盛大に迎えてくれると思うぜ。食事会でもしてくれないかなぁ」


 自分よりも純希のほうが楽観的だなと思った。

 「呑気な考え」


 「お前は心が中二だからな」純希は軽く笑ながら背を起こした。「新学期は食事会決定だ。もちろん先生とクラスメイトの奢りで。とにかく、みんなお前のことを親友だと思ってるよ」


 明彦が類に言う。

 「純希の言うとおりだ。安心しろ」


 みんなからどのように思われているのか不安だった類は、解決して安心する。

 「新学期が楽しみだ」


 明彦は、類の気持ちの切り替えの早さを見て、思わず笑ってしまう。

 「単純なやつ」


 類は明彦に言い返す。

 「単純でわるかったな」


 突然、物思いにふけった翔太がため息をついた。

 「新学期かぁ……」


 純希が翔太に訊く。

 「どうしたんだよ?」


 翔太はため息をついた理由を言う。

 「いや、話が逸れてわるいんだけど……新学期から本腰入れて頑張らないと、いつも赤点ギリギリだし、マジで成績がヤバいんだ。居眠りしてる場合じゃなさそう」


 呆れ顔の純希。

 「お前よくうちの高校に入れたよな」


 「それ、母ちゃんにも言われる」翔太は苦笑いする。「中学までは授業中に先生の話さえ聞いていれば勉強なんてしなくてもできたんだ。偏差値なんか学年トップクラス。まぁ、それもいまとなっては虚しい自慢、過去の栄光」 


 純希は訊く。

 「お前、将来やりたいことかないの?」


 翔太は純希の質問に満面の笑みを浮かべた。

 「人生、楽しみたい」


 「なんだ俺と同じかよ」純希は笑いながら言った。「だけど、どうして補習予備軍になっちゃったわけ?」


 「ハイレベルな高校に入学すると、五教科もハイレベルになるってわかっていたけど、予想以上でびっくり。ワンランク下の高校にしときゃよかったなぁって、何度も後悔したよ。

 お前らと友達になってなかったら、編入試験を受けていたところだ。頑張っても勉強が難しすぎてついていけないのがその理由」翔太は明彦に顔を向けた。「がり勉してるのは知ってるけど、お前みたいに難しい勉強が要領よくつぎからつぎへと頭に入るやつが羨ましいよ。まるで歩くマッキントッシュだ」


 明彦は驚いた表情で否定した。

 「マッキントッシュ? ちょっと待ってよ、それは誤解だ」


 翔太は言った。

 「謙虚にならなくていいから。ぶっちぎりで頭いいんだし」


 明彦は否定した理由を言う。その表情はどこか暗かった。

 「ちがうんだ……その反対だよ。やらないとついていけないんだ。中学のころから必死だった。大学生の兄貴がいるんだけど、すごく優秀でいつも比べられていた。代々医者の家系だから、できて当たり前って考え方で……本当に大変なんだ……。

 医者になれなきゃ自分自身の存在価値もない。どんな状況でも学校や塾に行かないと勉強が遅れる。成績が下がっては、それこそ俺の存在価値がなくなってしまう。そう思い込んでいたから……つねにプレッシャーで苦しかった」


 明彦の自宅に遊びに行くと家政婦がいる。手荒れひとつない綺麗に着飾った母親。光り輝くダイヤモンドの指輪に、ネイルサロンで手入れされた爪が印象的だった。


 平凡な家庭の類や事業で失敗した純希の母親は、パートに炊事洗濯、働く主婦の手。あかぎれなんてしょっちゅうだ。髪を染める暇もなくて、たまに白髪がちらほら。裕福な家庭の明彦が羨ましいと、ずっとそう思っていたので、初めて聞かされる苦悩に哀れみを感じた。


 類は質問した。

 「お前自身が医者になりたくて頑張ったことってあるのか?」


 明彦は答える。

 「ひとの命を救う仕事なんて誰にでもできる職種じゃないし、こんな俺でもひとの命が救えるなら……いまは自分の意思で医者になろうとしている。でも当時は、ひとを助けるよりも自分が助けてほしかったから、須藤家に産まれたことを恨んだよ」


 ごくふつうの家庭で育った類とは異なる明彦の悩み。一般家庭ではそれぞれの経済事情によって、将来を左右されることもある。類の家庭も四年制の大学には通えないが、二年制の専門学校になら通わせてもらえる。ゲームクリエーターになることが幼いころからの夢。その夢が叶う人生でよかったと思った。

 

 明彦は話を続けた。

 「自分だけがどうしてこんな思いをしなきゃいけないだろうって一番辛苦しんでいた時期に、フレンズっていうサイトで、俺と同じ境遇のユーザーと友達になったんだ。それから、そいつにいろんなことを打ち明けて、ずいぶんと心が軽くなった」


 光流が目を見開いた。

 

 (フレンズってまさか……)


 明彦は口元に笑みを浮かべた。

 「ぼっちだったのにネットで友達が見つかるだなんて嬉しかった。SNSに感謝したよ」


 光流は訊いた。

 「フレンズで出会ったユーザーとはいまでも友達なわけ?」


 明彦の目に薄っすらと涙が浮かんだ。

 「同じ高校に進学してリアルな友達になろうなって約束してたのに……死んだんだ」


 明彦から顔を逸らした光流は、ユーザーの死因について、およその察しがついたので、余計に申し訳なく思う。

 「ご、ごめん。わるいこと訊いちゃったな。気の毒に」


 気まずい空気が漂うと、それを感じた明彦は腰を上げて、遠くを指さした。

 「こっちこそ暗い話しちゃってごめんな。ちょっとその辺を散策してくる」

 

 明彦を心配した類が声をかけた。

 「あんまり遠くに行くなよ」


 「うん」と返事した明彦は、浜辺を歩き出した。


 光流が、明彦とこちらとの距離が開いたところで小声で全員に訊いた。

 「お前らフレンズってサイト知ってる?」


 互いに顔を見合わせた。そして類が答えた。

 「知らない」


 光流は小声で教えた。

 「表向きはごくふつうの雑談をするサイトなんだ。だけど、蓋を開けてみれば死にたいやつらの集い」


 類は動揺した。

 「それって自殺サイトじゃん」


 「そうゆうこと。明彦の友達だったユーザーの死因は、たぶん自殺」


 光流の言葉に驚き、全員が目を見開いた。明彦が自殺サイトにログインしていなんて信じられない。だが……明彦が隠していた中学時代のつらい過去を斗真が知っていた。


 「明彦と同じ中学出身のやつと友達なんだけど、あいつ……かなりひどいいじめに遭っていたらしい。だから明彦と友達だってそいつに言うと意外な顔してたよ。あんな暗いボンボンとってね」


 明彦の過去を知らなかった全員は衝撃を受けた。


 類は言った。

 「そんなことがあったのかよ」


 健はうつむいて静かに言った。

 「かわいそうにな……」

 

 類は言う。

 「明彦は頼りになるし、いいやつだよ。だいたいに、いじめられて明るいやつなんかいるわけないじゃん」


 斗真はいままで黙っていた理由を言った。

 「あいつはつらい過去を乗り越えた。いまさら言う必要ないと思っていたから、みんなには言わなかったんだ」


 類は明彦を想う気持ちを口にする。

 「明彦は俺たちと一緒に、いまこの瞬間を生きてる。あいつにいじめられる要素なんかひとつもない。いつもどおり振る舞おう。だって、明彦は俺たちの大事な友達なんだから―――」


 そのとき、波打ち際を歩く明彦は、決別したつらい過去を思い出していた。


 将来は絶対に医者にならなければならない。優秀な兄と比べられるたびにプレッシャーを感じながら、つねにその背中を追い続けていた。


 比べられることがつらい。この劣等感から逃れたい……。


 気がつけば教科書と参考書がいつも一緒にいる友達。周囲から孤立してしまった自分。そして、いじめの対象になってしまった。


 ストレスが溜まるたびに過食してしまう。太りやすい体質のせいで、体重の増加が原因でついたあだ名は、眼鏡豚、がり勉豚。


 学校なんか行きたくなかった。どれだけつらくても学校に行かないと勉強が遅れてしまう。泣きながら登校するしかなかった。それでもたまにひとり寂しく公園のベンチに座り、学校を休んだ日もあった。


 不登校すると罪悪感があった―――安堵感は微塵もなかった―――


 周囲との遅れが怖い。勉強だけじゃない、人生そのものに恐怖を感じていた。自分だけが世の中に取り残されている……そんな気がした。登校拒否も怠け病なんかじゃなくて、本当につらいことなんだと叫びたかった。


 苦悩が俺を苦しめる―――


 どうして自分ばかりがこんな目に遭わなくちゃいけないんだろう……。


 思い詰めて苦しいと感じる気持ちとは対照的に、前に進もうとする自分もいた。ここで諦めたくなかった。いじめに屈したくなかった。


 でも―――心が限界に達したんだ―――


 いじめを相談できる相手もいない。親は成績優秀な完璧な息子しか見てくれない。家にも学校にも居場所がない。友達もいない。みんなが当たり前に持っているものを、自分は何ひとつ持っていない。


 “ない” が当たり前になってしまった自分が虚しくてつらくて……身も心もボロボロで疲れた。もう死のうと思った。死にたくて、死に場所を探して自殺サイトに辿り着いた。


 そんなときだった―――俺と同じ境遇で苦しむあいつと出会ったのは―――


 あいつも言った、死にたいよなって。初めはほかのユーザーと同じように心が病んでいた。でも日がたつにつれ、死にたい気持ちが和らいでいった。


 きっと、なんでも話せる友達ができたから。周囲に死ねと罵られても生きていけると思った、あいつと一緒なら―――


 目指す高校も同じで一生の親友。


 サイト以外でもやり取りができるように、ツイッターのDMでスマートフォンとパソコンのメールアドレスを交換した。LINEのように楽しい機能は使えないけど、LINEいじめを受けていた俺は、LINE恐怖症だったからしかたない。それでもすごく楽しかった。


 互いに本名は明かさず、高校に入学したら探し合おうって、ガキみたいなことを言い合っていた。絶対に高校で会おうな! そう約束していたのに、それなのに……あいつは中三の冬に自殺した。たったひとりで首を吊って命を絶ったそうだ。


 その死を知ったのは、あいつのスマホから送信されたあいつの母親からのメール。いつもどおり互いに勇気づけ合うメールだと思ったのにショックだった。人生であのときほど泣いた日はない。


 もし、あいつが生きていたら俺と一緒にここにいたはずだ。


 あいつ以外の友達なんかできるわけないって思っていたのに、類が純希たちを引き連れて “勉強を教えてくれ、がり勉博士!” って言いながら、俺の席に集まってきたんだ。中学のころ、悪口で言われていたあだ名のがり勉が、いまでは仲間内のあだ名だ。


 信じられるか? こんな俺にたくさんの友達ができたんだ。それも好き勝手言いあえる最高の友達が。


 ストレスで増加していた体重も、精神の安定とともに少しずつ元に戻っていった。油断するとすぐに太ってしまう体質だから友達より肉づきはいいけど、以前よりもずっと引き締まったと思う。


 あした何が起きるかなんてわからない。だから苦しみが続くと苦しみしか見えなくなる。そして目の前の現実に絶望してしまう。そんなとき、未来に希望があるだなんて考えられないだろう。


 たとえ希望を信じて前に進んだとしても、ぬか喜びや挫折の繰り返し。笑った数よりも、泣いた数のほうが多い。つらくて死にたいと叫ぶ日々に苦悩する。誰にも受け入れてもらえない、もがき苦しむ気持ち。


 這い上がろうと頑張っても、立ちはだかる人生の壁は想像以上に険しい。


 未来が見えなくなる。涙で見えなくなるんだ。


 そして思う……こんな人生いっそうのこと投げ出してしまいたいと……。


 目の前が暗闇に染まる前に、人生には必ず光がある、ということを知る方法があれば、自殺者の人数は漸減されるだろう。あいつも死なずに済んだはずだ。だけど、いまを生きる俺たち人間に、未来を知る方法なんてないんだ。


 だけど俺は学んだ。


 人生の壁や試練を乗り越えたあとには必ず得られるものがあるということを―――お前と一緒に学びたかった―――

 

 生きてさえいたら……。


 なぁ……自殺せずに生きてさえいたら、お前の未来にも光があったんだぜ―――


 「どうして……死んだんだよ……」


 たった十五歳で命を絶った名前も知らない親友を思い出し、明彦は泣いた。眼鏡をはずして涙を拭い、前方に目をやった。


 すると数メートル先になぜか鍋が落ちていた。


 こんなところに鍋? いや、鍋の形に似た岩か流木か? 


 眼鏡をかけて、鍋らしき物体に視線を集中させた。


 やはり、鍋だ。


 明彦は鍋に駆け寄り、拾い上げた。海水にさらされて錆びた鍋底には凹凸があり、劣化も激しいが、使い古され、年季が入っているようにも見えた。


 鍋から波打ち際へと視線を移した。その視線の先には、歯磨き用のプラスチックの白いコップが落ちていた。明彦はそちらに歩を進め、コップを拾い上げた。内側も側面も傷だらけだ。これもまちがいなく漂流物。

 

 (そうだ、鍋は雨水を溜めるのに使うことにしよう。偶然とはいえコップまで手に入るなんてついてる)


 拾った漂流物に満足していた明彦は、はっとする。


 この漂流物、生活感がありすぎる……。


 なぜ、鍋やコップが漂流してここに辿り着く? 


 異世界の鍋とコップ?


 それとも、ここは現実世界なのか?


 いや、それはないだろう。


 どう考えてもこの島は現実世界ではない……。


 両腕を胸の前で組んで考え込んでいると、類に名前を呼ばれたので、後方を振り返った。すると、濡れた衣服を着用した美紅と由香里の姿も見えた。ふたりが男子の許を訪れた理由はおよそ察しがつく。綾香と道子の仲直りの手助けを求めるため、それから険悪な雰囲気が嫌だったからだろう。


 明彦は類へと歩を進めた。するとすぐに、一同のざわめく声が聞こえてきた。鍋とコップを手にしているのだ。驚くのも無理はない。


 一同の許に戻った明彦は、「謎のお土産だ」と言って類の隣に腰を下した。


 男子は明彦の過去を知った。だが、古傷に触れる必要もないので、いつもどおり接した。これからもずっと、頼りがいのある親友だ。


 「謎すぎるだろ」類は、明彦に訊いた。「どうしてこんな場所に鍋とコップが?」


 「そんなこと俺にだってわからないよ」と類に言った明彦は、純希に目をやった。「宝箱には入ってなかったけど、波打ち際に落ちていた」


 純希が言う。

 「俺が言った鍋より、明彦が言った、真水が出てくる摩訶不思議な蛇口のほうがよかったのにな」


 「俺もそう思うけど、残念ながら鍋だった」明彦は純希に言った。「いや、そんなことよりも、こんな場所に鍋が落ちてるだなんてガチで驚いてる」


 純希は訊く。

 「てゆうか、それって漂流物なんだよな?」


 「うん……たぶん。だって、それ以外考えられない」明彦は答える。「ここが異世界なのか、それとも現実世界なのか、ますますわからなくなってきた。だけど、すべてのできごとを合わせて考えると、ここが現実世界とは思えない」


 光流が言った。

 「異世界の鍋だよ」


 由香里も言う。

 「絶対そう。まちがいない」


 類が明彦に手を伸ばした。

 「その鍋を貸せ」


 明彦は類に鍋を差し出す。

 「なんの変哲もないふつうの鍋だぞ」


 類は自信に満ちた表情を浮かべて、明彦から鍋を受け取った。

 「異世界の鍋か現実の鍋か確かめるんだよ」


 明彦は訊く。

 「どうやって確かめるんだよ?」


 「見てろよ!」類は鍋の取っ手を両手でしっかりと掴み、突然、気合を入れた。


 明彦は驚いた。

 「なんなんだよ、いきなり大声で吠えちゃって。吃驚するだろ」


 「いでよ! フィッシュバーガー! フライドポテト! 冷えたコーラ!」類は鍋を左右に振った。「異世界の鍋ならなんでも出てくるはずだ」


 明彦は類の言動に呆れる。

 「やることも中二レベル……」


 だが本人は真剣だったようだ。

 「思いついたことはやってみないと」


 純希は絶句する。

 「馬鹿か……」


 健があんぐりする。

 「お前、マジでいくつだよ。見入って損した気分だ」


 美紅が言った。

 「精神年齢低すぎ。ここに理沙がいたら馬鹿すぎてふられちゃう」


 由香里も言う。

 「類の馬鹿っぷりには、もう慣れてるんじゃない?」


 翔太が言った。

 「思考レベルを中二から高二に上げてもらえると嬉しいんだけど」


 類は馬鹿扱いされて憤然とした。

 「なんだよ、みんなして」


 明彦は真剣な面持ちで言った。

 「冗談はそこまでにして真面目な話をしよう」


 類は冗談でやったつもりはない。

 「俺はいつも真面目なんだけどね」


 「ごめん、俺には冗談に見えた」と類に言ってから、明彦は肝心な話をした。「生活感のある漂流物がここに流れ着くってことは、ひとが住んでいる島があるってことだろ? ましてやここが異世界なら、どんな連中が住んでいるかなんてわからないんだ」


 一同は青褪めた。漂流物が落ちているということは、有人の島が存在する。類は手にしていた鍋を砂浜に置いた。


 「ふつうに考えて、生活しているやつらがいないと鍋なんかないよな……」

 

 光流が言った。

 「もしひとが住んでる島が存在したとして、そいつらが友好的ならいいけど好戦的なら大変だ。ヤバくないか?」


 明彦も恐怖を口にした。

 「俺もそれを恐れている」


 美紅が恐る恐る言う。

 「あたしたちみんな拷問されて殺されたりしないよね?」


 由香里が怯える。

 「怖いんだけど……」


 斗真が軽く手を挙げた。

 「ちょっといいかな? 異世界の島がほかにあるわけじゃなくて、鏡がここと現実世界との境界線みたいなものなら、海のどこかにも現実と異世界の境界線が存在するかもしれない。

 ひょっとしたら、その境界線をなんらかの理由で越えてしまった現実世界の漂流物なんじゃないのかな? 現に俺たちも墜落時の衝撃が原因で、この奇妙な島にワープした可能性だってあるんだ」


 理沙が言った言葉を思い出した類は、はっとする。

 「そういえば、理沙がバミューダトライアングルの伝説みたいな現象が起きたのかって、俺に訊いてきたんだった。たしかにその伝説も、異世界と現実世界とのあいだにある特殊な境界線やゲートを通り抜けないと起きない現象だよな」


 「魔の海域、バミューダトライアングルか……」明彦は胸の前で腕を組んだ。「飛行機や船が突然消える奇妙な現象……。消えたはずの飛行機が長い時を経て空港に出現して……機内を覗いてみれば、搭乗していた全員が白骨死体になっていたって話を聞いたことがある……」


 斗真は鍋に目をやった。

 「そう考えると……海水や雨風によって劣化したのかもしれないけど、もしかしたら長いこと異次元を彷徨っていたのかもしれない」


 類は顔を強張らせた。

 「異次元ねぇ……だんだん怖すぎる方向に話が進んでいくみたいだけど気のせい?」


 鍋とコップについて考えるのが怖くなってきた。気温は高いのになぜか寒気がする。斗真は、鳥肌が立った腕をさすりながら言った。

 「俺もそんな気がする」


 「あ、そうだ! いいことを思いついた!」海を見渡した類は閃いた。「木が硬すぎて切り倒せないなら、流木を集めて筏(いかだ)を作ろう」


 純希が訊く。

 「筏? そんなもの作ってどうするんだよ」


 類は答える。

 「もし海のどこかに現実世界へと繋がるゲートが存在するなら、漂流してるうちに現実世界の海に出られるかもしれないじゃん」


 純希は言う。

 「危険すぎるだろ」


 類は訊く。

 「どうして?」


 純希は答える。

 「どうしてって、筏で海を彷徨うんだ。どういうことかわかんないのかよ? ある意味、補習予備軍の翔太より重傷だぞ」


 翔太が類に言う。

 「勉強は適当にできても、ふつうに馬鹿じゃん」


 類は憤然とする。

 「馬鹿でわるかったな、馬鹿で」


 明彦が類に説明する。

 「素人の手作り筏で大海原を横断するんだ。無謀にもほどがある。墜落で生き延びたのに、高波にさらわれて溺死だ」


 健も言う。

 「鮫の餌のち鮫の糞ってこと」

 

 純希も呆れる。

 「だから思考が中二なの、お前は」


 類は真剣に提案したつもりだった。

 「なんだよ、俺なりに考えたのに」


 美紅が類の肩に手を置き、「どんまい、つぎは理沙が惚れ直しちゃうようないいアイデアを待ってる」と慰めた。


 類はふて腐れながら礼を言う。

 「優しい言葉をありがとう」


 光流が言った。

 「筏の話はなかったことにして、やっぱりその鍋は現実世界からここに流れ着いたのかな?」


 明彦は言った。

 「さあな。墜落時の衝撃が原因でこの島にワープしたにせよ、運営者によってこの島に降り立つ破目になったにせよ、どっちにしても俺たちは出口を探さないといけない」


 光流は真剣な面持ちで訊いた。

 「あのさぁ……海にゲートがあるなら、この島の中にもあるんじゃないの?」


 「あるかもな」明彦は言った。「海だろうと陸だろうと、それが関係しているはずだから」


 類は言った。

 「俺たちはゲートを探して現実世界に戻る。けど、難しいよな。だって目に見えないんだから」


 美紅がはっとした。

 「ねぇ、飛行機が墜落した衝撃が原因でこの島にワープしたとすれば、境界線やゲートに関するヒントが墜落現場にあるかもよ。もし、ツアー会社が関係していたとしても、同じように墜落現場に何かがあるような気がするの」


 美紅の発言で静まり返った。


 旅客機の墜落現場には戻りたくない……。


 多湿高温の野外に生肉を放置しているのと同じ状態なのだ。いまごろ鼻を刺すような腐敗臭が漂っているはずだ。


 だが美紅が言うように、旅客機の墜落現場にヒントがあるとすれば確認する必要がある。きのうそこへ引き返した類たちの目的は椰子の実だった。死体を見たくなかった三人は、サバイバル生活に役に立ちそうなものを探すために、自分たちの周囲の大地を軽く目視しただけで、くまなく確認したわけではない。


 「ここに来るまでのあいだいろいろあったから、到着するのに一日かかった。もし、何もなかったとしても、けっこう歩くよなぁ」類はため息をついた。「けど……戻る価値はあるよな。てゆうか……戻るべきだよな……」


 光流は顔を強張らせた。

 「またあの現場に戻るって? お前、正気かよ。行って何もなかったらどうするんだよ?」


 類は光流に言った。

 「わずかでも可能性があるなら確認してみないと。じゃないと、マジで俺たち、一生この島から抜け出せないかもしれない」


 明彦も類の意見に賛成した。

 「潮風を浴びててもなんの解決にもならない。骨折り損のくたびれ儲けになったとしても戻るべきだと思う」


 美紅が類に顔を向けて、気まずい表情を浮かべた。

 「あのね……自分で言っといてわるいんだけど、墜落現場に戻るだなんてあたしには無理だよ」


 由香里も拒否する。

 「ごめん、あたしも」


 類はふたりに言う。

 「体力勝負だし、男子が行く」


 美紅が類に謝る。

 「ごめんね、役に立たなくて」


 類は言った。

 「気にするなって」

 

 由香里は類に言った。

 「これが運営者の罠なら、誰がこの島から脱出できるかを賭けてるかもしれないよ」


 類は言った。

 「悪趣味すぎる脱出ゲームだ。でも全員で脱出する。そして揃って新学期を迎える。弱気になるな」


 明彦が提案する。

 「謎が多くてジャングルで話を切り上げたけど、これじゃあ同じだよ。最初っから順序立てて謎解きをしよう。それが解決への近道になると思う」


 「そうだな」類は明彦に返事した。「ジャングルに墜落していた軽飛行機も謎のままだしな」


 「賛成」斗真もうなずく。「俺もそうしたほうがいいと思う」


 純希が女子がいる方向を見やった。

 「だったら全員で話し合ったほうがいい。これってすげぇ大事なことだから」


 類は、美紅と由香里に顔を向けた。

 「みんなをここに連れてこいよ。じゃないと話が始まらない」


 綾香と道子に仲直りしてほしいふたりは、男子に助けを求めてここに来た。だが、いったん女子の定位置に戻り、まずはいままで話し合った内容をみんなに伝えなくてはいけない、と考えた美紅が類に返事した。


 「わかった。連れてくるよ」


 「ごめんな」類は申し訳なさそうな表情で返事した。「あのふたりを仲直りさせたくて俺たちを頼ってきたのに」


 美紅は言った。

 「まずはあたしたちで努力してみる」


 由香里は苦笑いした。

 「ふたりとも頑固だから」

 

 綾香の性格をよく知る類も苦笑いする。

 「だよな、わかる」


 健が由香里にふたりに質問した。

 「向こうに戻る前にひとつだけ訊いていい? 美紅たちと由香里たちが、昼休みに飯食ってるのあまり見かけないけど友達なんだよね? 類に誘われたから、この旅行に参加したわけじゃないだろ?」


 類は健がした質問に驚いた。

 「え? みんな一緒に飯食ってなかった?」


 健は呆れたような表情を浮かべた。

 「お前って友達が多いくせに、本当に何も見てないんだな」

 

 「だって、教室だとみんな楽しそうにしてるし、俺ら男子って胃が満たされたらそれでいいから、机をくっつけて昼飯を食うって滅多にないじゃん。だから全然気にしてなかった」


 「ぼっちで食ってる女子がいたら、それは完全に仲間はずれにされてるよ」


 「じゃあ女子はみんな友達じゃなかったの?」


 「だからそれをいま訊いてるの」


 由香里は健の質問に答えた。

 「道子と綾香だってふつうにLINEする仲だし、うちらは友達だよ。みんな友達同士だからこの旅行に参加したじゃん。お昼ご飯に関しては、とくに意識したことはないよ」


 健は言った。

 「仲良しグループの女子って、いつも一緒にご飯を食べてるから気になったんだよね」


 由香里は続けた。

 「道子はひと月に三冊以上ファッション雑誌を読むんだけど、その中の一冊があたしと恵が読んでる雑誌と一緒なんだ。占い雑誌も好きだし、愛用してるスキンケアも同じなの。だから共通の話題が多いっていうだけだよ」


 美紅が言った。

 「うちらは入学当時、同じアプリゲームにはまってて、それがきっかけで仲良しになったの。もちろん由香里たちとも仲良しだよ。

 でもいまは、鏡の世界での喧嘩が原因で、綾香も道子も最初っから友達じゃなかった、そう思い込んでる。結菜は綾香の肩を持ち、恵は道子の肩を持つ。ふたりとも引かない性格だからなおさら厄介」


 健はふたりの話を聞いて安心した。

 「そっか、俺たちもあとで頑固者ふたりの仲直りに協力するよ」


 「ありがとね」健に微笑んだ美紅は、類に顔を向けた。「そんなわけで、みんな友達だよ」


 「だよな」類は口元に笑みを浮かべた。「俺も最初っからそう思ってた。健が心配症なだけだ」


 健は類に目をやった。

 「調子のいいやつ」


 「それじゃあ、あとでね」と言った美紅と由香里は男子に背を向けて、自分たちの居場所に戻っていった。


 鈍感だが友達想いの類は、健に訊いた。

 「まなみちゃんのこと乗り越えられそうか?」


 「ああ、なんとかね。ふたりで撮った写メは消去しないつもり」微笑んだ健は、自分なりに考えた最善を口にする。「飛行機の中で自宅の場所を聞いたんだ。実家暮らしだって言ってたから、帰国したらまなみちゃんの自宅を訪ねてみようと思う。彼女の人生最後の笑顔をご両親に見せてあげたいんだ」


 類は言った。

 「綺麗な花を買わなきゃな」


 「うん」


 双眸に涙を滲ませた健がうなずいた直後、ふたたび雨が降ってきた。鍋底に打ちつける雨音が周囲に響く。脱水症状を起こすよりましだろうと考えなくては身が持ちそうにない。

 

 全員で海を眺めた。そして類が言った。

 「どうせなら掘っ立て小屋が漂流物ならよかったのに。小さい雨除けでもいいよ、なんとかならないのかな」

 

 純希が鍋を手にして、類の頭に被せた。

 「すげぇじゃん。お前だけの雨除けだ。よかったな」


 頭に鍋を被った類は、純希に言い返す。

 「よくねぇし。前見えないから」


 笑いながら斗真が言った。

 「ある意味おしゃれだ。トランクス一枚に鍋を被った野郎なんかいない」


 明彦は類の頭の上の鍋を軽く叩いて笑う。

 「アバンギャルドだぜ」


 類は明彦に言い返す。

 「何がアバンギャルドだよ。だったらこれで渋谷を歩いてみろ」


 気持ちを切り替えた健が言った。

 「お前なら歩けそうだ。現実世界に戻った初日のデートはそれで決まりだな」


 翔太が言った。

 「さすがにふられるわ」


 類は冗談交じりに言った。

 「独り身だからって僻むなよ。頭に鍋を被ったくらいでふられない。理沙の愛は深いんだ」


 「だったらそれでデートしろよ。写メ期待してるぜ」笑いながら立ち上がった翔太は、海に向かって叫んだ。「くっそ! もうヤケクソだ! 異世界スコールでもなんでもこい!」


 類も頭に鍋を被ったまま立ち上がった。

 「俺たちは絶対に生き延びてやる!」


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