第43話 放たれた鳥はその翼で大空へ
さっきまでとは全く異なるトゥールンの顔がそこにある。覚悟と決意を満たした確かな視線に、ヤナは一瞬、自分がひるんでしまったことを自覚した。そして攻撃の姿勢を解く。
「そこをお退きください、閣下」
「私が屋敷に戻ったとして、何事もなく済むなどと本当に思いますか」
フジカの蹴りを受けたヤナの額には血が滲んでいる。トゥールンは羽織っていたガウンのポケットからハンカチを取り出すと、手を伸ばした。
ヤナの方がはるかに背が高い。ヤナがトゥールンの前に跪く。トゥールンはその額にハンカチを当てた。
「もったいのうございます」
「貴方が傷つくのを、初めて見ました」
「あれも、人にあらざる者ですので」
トゥールンの背後でフジカが立ち上がる音がした。ヤナの背後、地面に落ちていたメイド服がふっと消える。
「ガルトマーン、たとえ私がこのまま逃げて、その後でシーピンに捕まったとしても、すぐに殺されはしないでしょう。軟禁か、悪くても監禁と言ったところでしょうか。しかし、今すぐに戻ったとしても、結果は同じことではないですか。私が何と弁明しようが、貴方がどう擁護しようが、そうなります」
この言葉には、ヤナは言い返すことができない。トゥールンの言う通りとしか言いようがないのだ。
「私はずっと、籠の中で飼われていることを受け入れてきました。それは偏に、私が背負うべきエイジアの民のためを思ってのことです。しかし、籠の中の不自由すら奪おうというのなら、私は籠を出ていきます。その為の翼をフジカがくれるというのなら、私はフジカについていきましょう」
トゥールンが、背後にいるであろうフジカの方へと顔を向けた。いつの間にかフジカは、元のメイド服姿に戻っている。
その右頬には、地面に叩きつけられたときについた土。しかしフジカは、それを拭おうともせずに、手をへその前で組み、トゥールンを見つめていた。
「御館様、今ならまだ戻れる可能性もございます。ガルトマーンがその為の最大の尽力をするでしょう。時を待てば復権も叶うやもしれません」
フジカの言葉が止まる。トゥールンがフジカに近寄り、土を払うために、フジカの頬に手を伸ばした。
フジカの目が閉じられる。トゥールンが土を払い終えるのを待って、フジカはゆっくりと目を開けた。
その瞳――もはや、ただのメイドのものとは全く違っている。それは、次元の異なる高みからちっぽけで脆弱な存在を見つめる、人にあらざる者の持つ目であった。
「フジカと共に歩く道は、どこまでも血塗られた道にございます。大勢が命を落とすことになるでしょう。その屍の山を越えてでも、このフジカと共に生きていくお覚悟がおありですか」
しかし、そんなフジカの目を見ても、トゥールンは驚くことも怖気づくこともなく、穏やかな目でフジカを見つめている。
「もちろんだ、フジカ」
「それが、気の遠くなるような輪廻の輪の中で、子孫を残すこともできず、生まれ変わってもなお、このフジカと生き続けることになっても、でしょうか。そのお覚悟がおありですか」
そこでトゥールンは気が付いた。フジカは単に『アイランズへと逃げ、一緒に暮らす』ことを言っているのではないのだ、ということに。
「それはもしや、君のプラヴァシーになれということ、なのか。そんなことができるのか?」
「今のフジカにはプラヴァシーはおりません。それに、ご覧になられたように、残念ながらフジカにはガルトマーンを退ける力はございません。ならば、彼を納得させた上で御館様が『翼』を得る唯一の方法はそれでございます。それに、フジカを娶るというのはそういうことでございますよ、御館様」
ヤナが立ち上がる。しかし口をはさむことはない。彼もまた、トゥールンの答えを待っていた。
「君は、それでいいのか。私で、いいのか」
「御館様の、御心のままに」
フジカの言葉に、しかしトゥールンは即答しなかった。じっとフジカの目を見つめてはいたが、やがて眼を閉じる。
沈黙がこの場を支配したが、しばらくして、静まり返っていた森に鳥たちの声が響き始める。
ふっと息を吐き、トゥールンが目を開けた。
「私の妻となってもらえますか、フジカ」
その口から、答えが紡がれる。
「はい、喜んで。トゥールン様」
フジカはそれに飛び切りの笑顔で応じた。そしてヤナへと視線を移す。
「ヤナ・ガルトマーン。これよりフジカ・ファーシアはトゥールン・ツェリンをプラヴァシーに迎えます。これ以上の手出しは許しません」
フジカの鋭い視線の先で、ヤナがフジカを睨み返した。
「そこまでするか……災いを呼ぶことになる。それも大きな」
「もとより、すべては予定調和の中に」
ふむとつぶやき、ヤナがトゥールンに目を移す。
「もう、ツェリン様をお支えすることができなくなりました。戦場でお会いすることになります。容赦はできません」
「分かっています、ガルトマーン。今までありがとう。でもこれで貴方も、自由に空を飛べるでしょう」
トゥールンの言葉に、ガルトマーンが初めて、その表情を緩めた。
「では、これにて」
その言葉を残し、ガルトマーンは二人の前から忽然と消えた。
「さあ、フジカ。私はこれからどうすればいいのだろうか」
振り返り、トゥールンがほほ笑む。
「盟約を」
「盟約?」
「ええ。ランダーとプラヴァシーの、最初にして最も大切な儀式、ですよ」
「それは、どうするのだろうか」
「こう、でございます。トゥールン様」
フジカは、これから自分のプラヴァシーになる青年に近寄り、少しだけつま先立ちをすると、その唇に自分の唇を重ねた。
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