第9話 ルナーの空の下
ツバキの目の前に、少し大きめの池がある。その向こうにはどこか古風なデザインをしたビルディング。広大な空間を覆うドーム屋根の外は、真っ暗な闇が広がる宇宙空間のはずだが、空を模したスカイブルーに染められていた。
ここはディアナ市のセントラルパーク。次元ドライブで再びルナーに戻ってきたティシュトリアを専用ドックに残し、ツバキとルースは地下都市ディアナへとやってきたのだが……
『ここで待っていてくれるかな』
それだけを言い残して、ルースはどこかへ行ってしまった。ナイトランダーの『本部』へ行き、事の次第を報告するということらしい。
そこはプラヴァシーすら入ってはいけない場所。お陰でツバキは、放置プレイを食らってしまった。
――ったく、随分な扱いだな。
渡されたのは、買い物用のクレジットカードと位置確認及び連絡用の端末一つ。あれだけの思いで探し当てたプラヴァシーだろうに、放置する時は随分とそっけない。
「プラヴァシーって、何なんだろ」
思わず独り言が口から出てしまった。
改めて辺りを見回してみると、池の周りにはたくさんの人が憩いの場を求めてくつろいでいる。
「これじゃ、どこにも行けないなぁ」
ルナーに来れば、あの幻のように消えた女性を探すこともできるかなと思ったが……探し者をするとは言っても、当てがあるわけでは無い。
どうも、このままこの公園で時間を潰して終わりになりそうだった。
池の淵から水面を覗き込んでみる。色の濃い小麦色の肌の少女が、ルナーで買ったラフなシャツと紺色のパンツ姿でこちらを見ていた。ベレー帽をかぶってきたが、納まりのつかない栗色の長い髪が後ろから垂れている。
この姿になって、まだ日は浅い。やはりスカートよりもパンツの方がいいとは思うが、未だこの体には違和感しか感じていない。
――いつか、慣れるのだろうか。
ツバキは一つため息をつき、水面に映った自分の姿から視線を外す。
ふと、小さく逆さに映った女性が、ゆったりとくつろぐ人々の中で一人だけ足早に移動しているのが、目に留まった。
鮮やかになびく、長く伸びた黒髪。そして、どこか見覚えのあるワンピース。
――うそ……まさか。
視線を上げた。池の反対側、一人の女性が木々の中へと消えようとしている。
「待って!」
ツバキは自然と走り出していた。
※ ※
「いない……」
木々の中を見回し、そしてきょろきょろと辺りを見回す。しかし、それっぽい姿の女性はいない。
見失ってしまったのだろうか。それとも、余りにそう望みすぎたために、居もしない女性の姿を見てしまったのだろうか。
他人の空似、気のせいかもしれない……
まるで不審者の様にうろつきながらも、ツバキがそう諦めかけたその時、いきなり腕をつかまれ、木の陰へと引き込まれた。
「うわっ」
驚いたツバキの視線の先に、ツバキを鋭く見つめるサファイアンブルーの瞳がある。引き込まれそうなほどの深い青。ツバキは、自分の呼吸が止まったかと錯覚した。
黒く長い髪、透き通るような白い肌、そして、薄紅色の薄い唇が少し開くと……
「目立つであろう。たわけ者」
その唇から、鋭い言葉が発せられた。
「た、たわけ?」
呆気にとられたツバキを、その女性がにらみつける。
「たわけ」
「えっと……そこで、何してるの?」
「見てわからぬか。隠れておる」
女性は、視線を左右へと送った。
「なんで?」
再びそう聞いたツバキに向けて、女性は少し眉を顰める。
「追いかけられておるからに決まっておろう。そなたは馬鹿か?」
心底馬鹿にしたような口調にはなかなかの破壊力があったが、ツバキはそれ以上の衝撃――探していた女性がなぜか今目の前にいるということに気を取られていて、気にする余裕が無い。
いや……この人は本当に、あの時ドックで見た女性なのだろうか?
ツバキにはそうとしか見えなかったが、
「だ、誰に?」
「黙っておれ」
と言われると、それ以上何かを尋ねることができるような雰囲気ではなくなってしまう。有無を言わさぬといったオーラを彼女は全身から醸し出していた。
ツバキは言われるままに、その女性と隣り合わせでしばらくの間木の陰に隠れる羽目になってしまった。
密着した状態で見る彼女の黒髪は、余り手入れのされていないツバキの髪の毛とは違い、木漏れ日すらも反射してつややかに煌めいている。
今のツバキより少し背が高い。触れる肌からは、若い女性が持つ特有の弾力を感じた。
ふと、柑橘系の香りが漂ってくる。そこで突然、ツバキは彼女に強く『女性』を感じた。それは、ルースに感じるのとは違う感情――恥ずかしさではないものをツバキの心の中に生み出し、ツバキの心臓の鼓動をどんどんと速めていく。
どれくらいそうしていただろうか。時間にすれば、そんなにも経っていなかったかもしれない。しかし鼓動の加速を我慢していることに限界を感じた頃、ずっとどこか一点を見つめていた女性の身体からふっと、緊張した様子が消え失せた。
「行くぞ」
そう言うと彼女は、ツバキの腕を取り、木の陰からすたすたと歩き始める。
「ど、どこに行くんだ?」
そう尋ねるツバキを無視し、手にしていたストローハットをかぶると、彼女はどんどんと歩みを進める。そして、公園に何か所もあるワゴン販売の内の一つの前で立ち止まった。
「そなた、クレジットは持っておるか」
「え? えっと、カードなら」
「よい。お腹がすいた。あのケバブサンドが欲しい」
その女性が、メニューボードに載っていたメニューの一つを指し示す。
それが当たり前であるかのような彼女の振る舞いに、ツバキは呆気にとられつつも、店員にケバブサンドを一つ注文した。
なんだ、この人……
ケバブサンドができるまで、ツバキは横目でその女性を観察してみる。正面を見据え背筋を伸ばして立つ姿はまるでモデルのようであったが、その表情は目も当てられないほどに不機嫌さをたたえていた。
いや……不機嫌そうに見えるのが、彼女の『いつもの顔』なのかもしれない。
「はい、どうぞ」
出来上がったケバブサンドをツバキが差し出す。
「ふむ……そなた、名は何と申す」
それを手にすると、彼女はツバキにそう尋ねた。
「オレ? えっと、ツバキ……だけど」
「ふむ。ツバキとやら、礼を言うぞ」
そのまままた、どこかへと歩き始める。ツバキが慌ててその後についた。
「き、君は何て名前なの?」
「ユウだ」
ツバキを見ることも無く、女性がそう答える。
「ちょ、ちょっと、どこに行くんだよ」
「歩きながら食べるのは、行儀が悪いであろう」
彼女の振る舞いはツバキを無視した自分勝手のもののように見えるが、しかしツバキが付いてくることについては全く疑っていないようだった。
「ここならば、目立つこともあるまい」
木陰にあった二人掛けのベンチを見つけると、ユウがその右側に座る。そのままケバブサンドを食べ始めた。どうしていいか分からないツバキは、彼女の前でしばらく立ったまま。
「立っておると目立つ。ツバキも座るがよい」
そんなツバキに、ユウは自分の横を指し示した。
「あ、ああ……」
言われるまま横に腰を掛けたが、ツバキは呆気にとられたまま、ユウの顔を横目でじっと見続けてしまう。
口を小さく開けて少しずつ食べている様は、どこか育ちの良さをうかがわせていた。
そんなツバキの視線に気づいているはずなのに、ユウはただ真っ直ぐに前を向き、食べ続けている。
すると突然、ユウがケバブサンドをツバキに差し出した。
「そなたも食べるがよい」
「えっ……い、いや」
「遠慮せずともよい。食え」
何かが違うと思いながらも、ツバキはその押しに負け、ユウが差し出したものを受け取る。袋状の皮の中にローストビーフが挟まれている代物だったが、ツバキが食べたことの無いものだった。
ツバキは、ドキドキしながらそれを一口……これまでにしたことがないくらい小さな口でかじる。初めて、というよりも、彼女が食べたものを食べるという行為に、どこか背徳的な香りがするのだ。
――オレが男とは、思わないよな。
噛み切れなかった肉が、ツバキの口についてくる。それを咀嚼するものの、頭の中はそれどころではなく、全く味が分からなかった。
「うまいか?」
「あ、ああ」
「ふむ、ならばよい」
ふと、ユウが自分の顔をじっと見ていることに、ツバキは気が付いた。
「ついておるぞ」
そのままユウが手を伸ばし、ツバキの口元に付いたソースを指で拭う。その瞬間、ツバキは抑えようもないほどに顔が火照るのを感じた。
「あ、ありがとう」
「ふむ」
ユウはツバキの顔をじっと見続けている。ツバキは慌てて視線を横に外した。
その後しばらく、ツバキはユウと交互にケバブサンドを食べる。肩に触れるユウの温もりと、一口ごとに増大していく背徳感にツバキが一生懸命耐えていた時、突然ユウが、
「そなた、どこぞで会うたことがあるか」
と、口にした。
「へ? あ、えーっと、あの、宇宙ドックで見かけたんじゃないかな」
言ってから、言って良いことだったのか、不安になる。
「ふむ」
しかし、ユウの反応は薄い。
「……違う?」
「違いはせぬが、もっと前に」
と言って、ユウはまたツバキの顔に手を伸ばす。その手がツバキの頬に触れた。
「き、気のせいだと思うよ」
この状況の恥ずかしさを紛らわすようにそう言ってみる。しかし手から伝わる温かさに、ツバキはふと、どこか懐かしいという感覚に襲われた。
何か、何か大切なことを忘れているような。遠い昔、生まれるもっともっと前に、自分はこの女性と会ったことがあるのではないか……
「ふむ……そなた、
心臓がはねたような気がした。ユウのサファイアの瞳に、ツバキの顔が映っている。瞳の奥のさらに奥を覗き込まれているような……
ユウの顔がツバキに近づく。彼女の吐息を感じ、ツバキは思わず目を閉じた。
「ツバキ、何をしてるの、かな」
突然、別の方向から声がかかる。驚いて目を開け、正面を向いたツバキの目の前に、ルースが立っていた。
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