第5話 マルスの空の中

「うー、気持ち悪い」


 結局、二回目の次元ドライブでも、ツバキは『船酔い』を起こしていた。ベッドに横たわってはいるが、口からは『気持ち悪い』という言葉しか出てこない。


「大丈夫?」


 ルースは、水の入ったコップを持ったまま、心配そうに覗き込んだ。


「あまり大丈夫じゃない」

「水と、酔い止めの薬だよ」

「そんなものもあるのか。先に言っとけよ」


 ツバキは急いでベッドから身を起こすと、渡された薬を口に含み、水と一緒に飲み込む。


「まだ、吐き気がする」

「もうちょっとしたら効いてくるよ」


 そんなに早くは効いてこないよとでも言いたげに、ルースは笑いながら付き返されたコップを受け取った。

 しかし、薬を飲んだことで少し気分が楽になったようで、ツバキは改めて自分の格好を見てみる。


「そういや、ドレスのままだった。結局これでコックピットに座ってしまったじゃないかよ」


 “お出かけ用”だったはずのレースのドレスは、コックピットでの操縦とその後ベッドに横たわったせいで、少ししわになっていた。


「そうだったね。まあ、ツバキが気に入ったのならいいんじゃないかな。戦闘用のドレスも何着か揃えようか」

「ちょ、ちょっと待て。なんでそうなるんだよ。別に気に入ったなんて言ってないぞ」

「気に入らなかった?」


 途端にルースの表情が不安に曇る。


「あのな、ルース。オレは男だってば」

「でも体は女性だよ。それにたとえ男性だとしても、男性がドレスを着てはいけないってルールは無いしね。似合うものを着ればいいんじゃないかな?」


 ルースは真面目にそう言うと、優しく微笑んだ。


「まさか、オレにドレスを着せる目的で、女にしたんじゃないだろうな」

「ははは、まさかまさか」


 ルースは笑いながら右手を顔の前で左右に振った。


「とりあえず今は楽な格好になりたい。ちょっと背中のファスナーを下げてくれないか?」


 自分で下ろすのが億劫だったツバキは、ルースに背中を向けてそう頼んだ。


「はいはい」


 わがままな彼女をなだめるような口調でルースがそう答える。すぐに、ドレスのファスナーが背中の下まで下ろされた。

 窮屈さから解放されたツバキは、ドレスの上半身を脱ぐと、ふぅと息をついてルースの方へ振り返る。


「で、今は……」


 どこにいるのかと訊こうとしたのだが、ルースは顔を真っ赤にして目をうろうろさせていた。ルースのその様子を見て、ツバキは上半身にキャミソール一枚しか身に着けていないことに気付いた。

 慌ててブランケットで胸を隠し、ルースをにらむ。


「何見てるんだよ」

「いや、ツバキ、それはちょっとひどいんじゃないかな」

「まだ、許したのはキスだけだからな」


 目と言葉で思いっきり威嚇するツバキを見て、ルースは肩をすくめた。


「キスは、いいのかな?」

「つべこべ言ってないで、服取って来てくれ」

「はいはい」


 ルースはルナーで買った室内用の服をクローゼットから取り出すと、ツバキに渡す。


「これは……もしかして、『ネグリジェ』と呼ばれる代物じゃないのか?」

「そうだよ。着替えたら言ってくれるかな」


 そう言って、ルースは一旦部屋の外に出る。ドアが閉まると、ツバキは渡された服を目の前に広げながら、大きくため息をついた。


※ ※


「なあ、もう寝たのか?」


 視線の先には、通路を挟んでルースのベッドが見える。


 ティシュトリアはマルス宙域にいるそうだ。ここで一旦、補給を受けるということなのだが、惑星には降りず、しばらくここで待機するということだった。


 薬のせいなのか気分は随分と良くなったが、ツバキは着替えが終わるとそのまま寝ることにした。外出して多少汗をかいたせいで、自分のにおいが気になってしかたがなかったのだが、宇宙船の類の中で自由に水を使うことはおよそ無理な話であって、仕方なくシャワーも浴びないままベッドに入っていた。


 非常灯の仄かな灯りの中、ベッドの横たわる人影が動くのが見える。


「まだだよ」


 暗がりの中、ルースがこちらを向いた。

 非常灯の光を反射して、ルースの瞳だけが紅い光を放っている。それを見ると、ツバキは言おうとしていたことが急に言えなくなってしまった。予定にはなかった質問が口から出る。


「ナイトランダーって、どんな能力を持ってるんだ?」

「能力?」

「ああ。戦った時に随分不思議だったんだが、急に現れたり消えたりしてただろ。あんな芸当ができる装甲服なんて見たことがなかったから」

「ああ、あれはナイトランダーの能力の一つ、『次元シフト』だよ。次元ドライブの短距離版だね。ボクらは個人でそれができるから。モーターカヴァリエの次元ドライブは、ナイトランダーの能力を増幅させたものなんだ。ゲートを使う次元ドライブとは違うね」


 星間船が行う次元ドライブは、重力均衡点である「ラグランジェ点」に設置してある次元ゲートを使って行われている。任意の場所からできるものではないのだ。

 しかし、ティシュトリアはゲートを使わずに次元ドライブを行う。どちらにしても、ツバキにとって次元ドライブそのものが初体験だったので、その違いはあまりイメージできないかった。


「ふーん、そうなのか。それはずるいな」


 前もってその能力が分かっていたとしても、果たしてハーディ隊がうまく対処できたかどうかは怪しいな。


 ツバキはふとそう思った。


「そうだ、ヤナ・ガルトマーンと少し話をしたよ」

「ほんとか? なんて言ってた?」

「エイジアを守るためにG弾を撃ち落としたそうだ。ボクたちの為では無い、そう言ってたね」

「誰がG弾を撃たせたとかは?」

「そこまでは聞かなかった。多分教えてはくれないだろうし」

「そうか」


 ルースの話は知りたかったこととは程遠かっただけに、ツバキは思わずがっかりした声を出してしまう。


「ごめん」

「いや、聞いてくれただけでもうれしいよ。ありがとう」


 寝がえりをうって、壁の方を向いた。ルースが言っていたように、ガルトマーンはエイジアの言いなりで動いているわけでは無いようだ。ツバキに分かったのはそれくらいだった。

 ツバキはしばらくの間黙っていたが、ルースに動く気配がないのを感じて、そのままの状態で再び口を開く。


「なあ、オレの、どこが好きなんだ?」

「どこ? どこと言われても、全部、かな。突然また、どうして?」


 そう答えるルースの声はいつものように優しい。


「いや、ルースは男が好きなのか女が好きなのか、どっちなのかなと思って」

「男性だとか、女性だとか、そういうのじゃ、ないんだ。ツバキだから好きなんだよ」


 聞いている方が恥ずかしくなるような言葉を、ルースは事も無げに口にした。


「それは、オレが『プラヴァシー』だからか?」


 ルースの言葉を深く理解しようとすると、恥ずかしさに言葉が出なくなりそうで、ツバキは何も考えずに用意していた次の言葉を口に出した。


「それは関係ない、かな。ボクが好きな人がたまたま、ボクのプラヴァシーだった、ということだよ」

「ふーん……他のナイトランダーもそうなのか?」

「ナイトランダーとプラヴァシーの関係は色々かな。プラヴァシーのいないナイトランダーもいるしね」

「ん? ナイトランダーにはプラヴァシーが必要じゃないのか?」

「能力を最大限に発揮するにはそうだね。でも、特別なナイトランダーもいるんだよ」

「特別っていうくらいなら、数は少ないのか」

「二人だけだね」

「へえ」


 ツバキはそれ以上尋ねることはしなかった。例えば、それが誰なのかを聞いたところで、あまり縁のない話なのだから。


「ツバキ」


 いつの間にこちらに来たのだろうか。ルースの声が、ベッドの傍から聞こえてきた。


「な、何だよ」


 ツバキは思わずそう反応したのだが、不意を突かれたからか、声のトーンが二つくらい上がっていた。しかし、それに対するルースの返事がない。

 と、ルースの手がツバキの肩に触れた。


「シャ、シャワー浴びてないから、あ、汗臭いぞ」


 ルースをけん制する言葉をかけたのだが、しかし、その言葉はどこかしら空々しい。ツバキは、背中に手とは別の何かが触れるのを感じた。


「ちょっ」


 驚いて振り向くと、ルースがツバキの背中に顔を寄せていた。


「お前っ、な、なにしてるんだよ」

「ツバキの匂い、いい匂いだよ」

「バ、バカかお前!」


 ツバキは恥ずかしさのあまり再び壁の方を向くと、自分の顔を壁に押し付けるように体を寄せた。しばらく体をこわばらせていたのだが、それ以上ルースが近寄ってくる様子はない。


「ル、ルース」

「何?」


 ルースの声が、ベッドの淵から聞こえた。


「そ、それ以上は、来ないのか?」

「嫌われると、悲しいからね」


 そう言いながらも、自分のベッドに戻ろうとはしないんだな……


 ツバキはしばらく考えた後、上ずった声を、喉の奥から絞り出した。


「ど、どうしてもしたいって言うなら、キ、キスだけなら、か、構わないぞ」


 自分でも、なぜそんなことを口走っているのか理解ができない。ベッドが少し揺れて、柔らかい手が自分の肩に添えられた時、しかし後悔ではなく、期待を胸に抱いているのを自覚して、ツバキはゾッとした。

 手に込められた力に少しだけ抵抗しつつも、体を仰向けにする。しかし、顔はまだ横に向けていた。


「キ、キスだけだからな」

「うん」

「ほ、ほんとうに、キスだけだからな」

「うん」


 横目でルースの顔を見る。愛おしそうにツバキを見るルースの眼が、胸を締め付ける。

 頭に浮かんだ「なぜ」という思いはすぐに消えてしまった。ツバキは観念して目を閉じると、ルースの方へと顔を向ける。

 柔らかいものが唇に触れるのを感じ、ツバキは軽く口を開けた。



※ 20200403 改稿

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