第5話 碧眼の少女

 入り口の幅は一メートルほどだったが内部の高さはその倍はある。今の俺の体では、手を伸ばしても届かなかった。確かに、まるで家の廊下のような大きさだ。

 デッキは中央部分で十字路になっていた。十メートルほど先だろうか、反対側にも扉があるのが見える。


 ルースは十字路を左へと曲がった。

 慌てて俺も左へ曲がると、そこにも扉がある。


 ルースが扉に触れる。扉は軽い風切り音を立てて、素早く横にスライドした。

 そして現れる、何もないがらんとした通路の様な空間。幅は四、五メートルくらいだろうか。


「ここは?」

「寝室だよ」


 ルースは中に入ると、右側の垂直に立った壁の方へと近寄る。

 手を伸ばし、何か操作をしたようだ。

 壁が手前に倒れて、ベッドが現れた。


 俺は左側の壁に目をやる。どうも同じ構造をしていそうだった。

 二人用の部屋か。


「誰かと暮らしてたのか?」

「いいや、こっちのベッドは使ったことが無いものだよ。だから安心して使ってくれていい」

「お前は、こっちで寝るのか?」


 俺は、左側の壁を指差しながら、恐る恐る聞いた。


「キミがいいというならね」


 冗談とも本気ともわからない様子で、ルースは微笑みながらそう答えた。


「べ、別にオレは、構わないけど」

「ははは、冗談だよ。今日はここで寝るといい。ボクは別の部屋で寝るから」


 ホッとするかと思ったのだが、なぜか少し寂しい。


「そ、そうか、気を使わせて済まない」

「いいよ。シャワーは浴びる?」

「シャワーもあるのか」

「家だからね」


 俺は改めて自分の身なりを見る。

 ルースに借りたシャツは薄手で、汗をかいたからだろうか湿り気を帯びていた。

 それが体に張り付き、胸の先端の二つの突起がシャツ越しに見える。

 俺は少し上半身を前に倒して、それが目立たなくなるようにした。


 アンダータイツは……軍からの支給品だが、もう一日以上履いている。

 正直、このままでいるのは耐えられなかった。


 軍では一週間野外を這いずり回るような訓練すら平気でこなしていたのに、一日以上汗をかいた後の何か嫌な臭いがしそうな今の自分は、嫌悪の対象にしか思えないのだ。


「シャワー、借りてもいいか?」

「もちろん、どうぞ」


 ルースはそう言うと、左側の奥の壁に触れる。また壁が倒れ、今度は収納ケースのようなものが出てきた。

 中をまさぐり、バスタオルとハンドタオルを取り出す。


「服は、どうする?」


 どうすると言われても、どうしようもない。作戦行動中に予備の衣服を持ち歩く奴は、ほぼいないだろう。


「どう、しようか……」

「ごめん、シャツも下着もボクのしかなくてね」

「洗濯はできるか?」

「できるよ」

「じゃあ、洗濯している間だけ、シャツを貸してもらえるかな?」

「貸すと言っても、他に着る物もないよね?」

「ま、まあ……」


 装甲服は置いてきた。

 唯一のアンダーシャツは、あの男たちに破かれてしまっていた。


「Tシャツと普通のシャツ、どっちがいい?」

「普通のシャツ、かな……」

「じゃあ、これをあげるよ」


 ルースはさらに取り出したシャツを広げて俺に見せた。

 やや薄いスカイブルーの長袖のシャツだった。


「あ、ありがとう」

「どういたしまして」


 そう言うと、ルースは取り出したものを俺の傍まで持ってきて、俺に差し出した。


「ごめん、いろいろ迷惑掛けて」

「気にしない、気にしない。とりあえずシャワーを浴びておいで。シャワーは向こうだから」


 ルースは入ってきた方と反対の扉を指差す。


「扉を出たら右がバスルーム。ユニットだから、トイレもあるよ」

「あ、ああ」

「ボクはここでベッドの用意をしておくから、何かあったら声をかけてね」

「分かった」


 ルースは右側の収納ケースを開けると、中からシーツや枕を取り出し始めた。

 それをぼうっと見つめて立っている俺を、ルースがもう一度見る。


「入らないの?」

「あ、いや、入ってくる」


 俺はいそいそとバスルームに続く扉を手で触れる。入って来た扉と同じように、扉は右へとスライドした。

 隣の部屋は真ん中に細い通路が伸びているだけの部屋で、右手にはまた扉がある。

 この中がバスルームの様だ。

 扉を開けて中に入るとライトが点灯し、洗面台とトイレ、その奥に浴槽とシャワーがあるのが見えた。


 流した水はどこへ行くのだろう。


 そんなことを考えながら、俺はルースに借りていたシャツを脱いだ。

 あまり大きくない二つの膨らみが露わになる。俺はそれを見ながらため息をついた。

 そしてアンダータイツを脱ごうとして、手を止める。


 既に、男性にあるべきものが無いのは、見なくても分かった。しかし、それを目で確認するのはやはり怖い。

 ゆっくりとタイツを下ろす。

 やはり、無かった。


 もう一度ため息をつき、脱いだアンダータイツを丸めた。思わず臭いを嗅いで、顔をしかめる。

 今日一日、こんな臭いでうろついていたのかと思うとさらに鬱になった。


 彼に汗臭さを気付かれなかっただろうか。


 洗面所には鏡が備え付けられている。

 女になった自分の顔をゆっくり見るのはこれが初めだった。


 鏡の向こうにいる、やや色の濃い小麦色の肌の少女は、少し乱れた栗色の長い髪の隙間から、マリンブルーの瞳でこちらを見ている。

 鼻が少し高めで、唇は少し厚めだろうか。髪の毛よりはやや濃い色の眉毛がくっきりと左右に引かれている。少し下がり気味の目が、どことなくアンニュイな印象を出していた。

 年齢は……十六・七くらいだろうか。ルースよりは若い感じがする。


 何人だろう。西洋でも東洋でもないな。


 自分の顔にはとても思えなかったが、鏡の中の少女が俺の動きを正確にトレースしているのを確認すると、目の前の現実を否定することを諦めた。


 そして思う。これは、誰の顔なのだろう。

 俺は、この誰かの顔を模した『仮面』をかぶっているのだ。

 取ることのできない仮面を。


 カランをひねるとシャワーから水が出る。しばらく経つとお湯に変わった。


 髪、顔、体。少しぬるめにしたお湯が、汗と一緒に不快感を洗い流していく。

 やや固めの胸もやはり小麦色をしている。日焼けでは無くて、これが地の肌の色なのだろう。アジア系だった元の自分の肌より色が濃かった。

 アンダーヘアに目が行く。やはり栗色だったが、毛の量は少ない。

 俺はもうそれ以上は見ないようにしながら、壁の棚に置いてあったボディーソープを手に取り、体を一通り洗った。

 髪の毛を洗おうか一瞬迷ったが、臭いを嗅いでみた自分の髪の毛の臭さがどうにも我慢できず、シャンプーを手に取り髪につけた。

 しかし、洗い始めて少し後悔が襲ってくる。


 こんなにも髪を洗うのが大変なのか……


 俺はしばらく髪の毛を洗うのに格闘しなければならなかったが、シャワーを終えてからもその苦労は続いた。

 先に体を拭き終えると、湿ったバスタオルでとりあえず髪の水分を拭きとる。その後、ハンドタオルでさらに拭いたが、きりがないことを悟り、髪の毛の残りの湿り気は自然乾燥に任せることにした。


 ルースに借りたシャツを着る。意外に大きかった。いや、俺の体が小さいのか……

 まるでワンピースの様であったが、さすがに下に着るものがないのは恥ずかしかった。シャワーを浴びる前は、それでもいいかと思っていたが、いざこの状況になるとなんとも頼りない。


 どうしよう……


 俺はしばらく考えてから、意を決してバスルームを出ると、寝室への扉を開けて中を覗き込んだ。

 ルースはベッドメイクをもう終わらせていた。どこから持ってきたのか、折り畳みと思しき椅子に座っている。

 

「ル、ルース……」

「出たのかい? 初めてボクの名前を呼んでくれたね」


 そう言って微笑むルースの顔を見て、俺は少し恥ずかしくなった。


「いや、あー、やっぱり、なんか下に着るものを借りれないか?」

「えーっと、ボクのしかないよ?」

「それで、いい、かな」

「じゃあ、ちょっと待って」


 そう言ってルースが収納ケースから取り出したのは、麻の白いズボンだった。腰のところでひもで縛るようになっていて、ややゆったり目ではあったが、七分丈だったので今の俺にはちょうど良かった。

 寝室の中に入って、ルースからそれを受け取る。


「……下着が無いけど、直接でもいいのかな?」


 そう言ってから、俺は自分が無意識に下半身をシャツ越しに手で隠していることに気が付いた。

 いや、まあ、男同士でも、恥ずかしいものは恥ずかしい。


 俺は上目使いにルースを見る。

 ルースは、そんな俺の姿を見て、少し顔を赤らめると視線を外した。


 いや、ルース、俺は男なんだ……


「……ごめん、下着がボクのしかないから、そのズボンは好きに使って。キミにあげるよ」

「ありがとう」


 俺は礼を言うと、バスルームに戻ってルースがくれたズボンを履く。

 アンダータイツを早く洗わないといけないな。


 でも、何故だろう、心臓の音が大きく聞こえた。

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