始まりはいつも突然に

 「ごめん!遅れたっ!!」

 扉をガラッと勢いよく開ける音と共に、彼女の声が聞こえた。読んでいた本から顔を上げて教室の入口の方に目線をやると、肩で息をしている彼女、ユキの姿が視界に写る。続いて時計に目を向けると、時刻は既に六時を回っていた。道理で窓の外が真っ暗なわけだ。冬は、日が落ちるのが早くて困ってしまう。

 「大丈夫、ずっと本読んでたから」

 私はそう言ってから本をパタンと閉じ、手でヒラヒラと振ってみせる。私のその様子に安堵したのか、ユキはホッと息をついた。そしてこちらへツカツカと歩み寄ってくる。

 「思いのほか今日は部活が長引いちゃってねえ」

 二人きりの教室の中を闊歩しながら間延びした口調で言い訳し、私の前に机越しに立った。腕を組み、足を肩幅にまで広げている。何故に仁王立ち?疑問が浮かんだが、気にしても仕方ないので無視することにした。付き合いにおいて大切なのは距離感だと思っている。全てを理解することなんてどうせ出来ないのだから、境界を見極められるよう努力するべきだ。

 「そっか、大変だね。大会近いの?」

 「一応ね。どうせ優勝はアイツだろうけど、何もしないのは悔しいから」

 肩をすくめてから手を広げ、お手上げのポーズを取る。今度はちゃんと理解できた。

 ユキは将棋部だ。私では飛車角落ちでも勝てないほどに強いのだが、ウチの学校にはユキよりも更に強い人がいる。表彰朝会の度に名前が呼ばれるので、流石に覚えた。「山田隆也」だったはずだ。顔は少しパッとしないが、頭もいいので女子からの評判はそう悪くない。私にはイマイチ分からないが、好みは人それぞれだ。「蓼食う虫も好き好き」は表現として流石に失礼すぎる気がする。

 閑話休題。私は思考に区切りをつけてから、話を転換させるべく声を発した。

 「それで?遅れてきたけどどうするの?そんなに時間もないよ」

 今は冬なので最終下校時刻は六時半。つまり校内にいられる時間は実質後二十分ぐらいだ。最終下校時間が近づくと、警備員が巡回するし。

 「勿論、そんなのギリギリまでするに決まってるじゃん。今日は頑張ったんだから、その分ご褒美もらわないとやってらんない」

 ユキはさも当然というように口角を釣り上げながら言った。まあ、そう言うだろうとは思っていた。私だって、一応聞いては見たものの最初からそのつもりだ。

 腕組みを解いたユキの手が、机の上に置かれた私の両手に重ねられる。手の甲が包まれ、じんわりと熱が染み入るのを感じる。手の平を返し、名前とは反対の暖かさと、名前通りの柔らかさを帯びた手の感触を手全体で味わう。指と指を絡めながら私とユキは見つめ合った。ユキの目は、少しだけ潤んでいた。

 「……優ちゃん、するね?」

 囁くようなユキの声。甘く熱い吐息を耳元で幻覚しながら、コクンと首を動かすことでその声に応える。

 そして私の反応を確認したユキが身を乗り出し、その顔をゆっくりと私に近づけ、お互いの前髪が緩く交錯したその瞬間、


 心臓を、熱が穿った。


 当たり前だが正確には違う。ただそう錯覚するほどの多好感と高揚が私の身体の奥底から溢れてきて、マグマのような高熱をもって心を溶かし、穴を空けるのだ。熱が押し当てられているのは唇なのに。不思議なモノだ。

 一度お互いに顔を離し、呼吸を整えてからもう一度口づけを交わす。押し当てられる柔らかい、柔らかい温もり。心地よく、その快に身を流されそうになる。理性の手綱を引っぱるように、絡ませたままのユキの手をキュッと掴んだ。

 二回目は、一回目よりも長く続いた。

 そして一回目も、本当の一回目よりは幾分か長く続いた。

 私とユキが付き合い始めたのは、あの恋愛相談から三ヵ月が経った頃のことだ。夕日が差し込むこの教室で、ユキから告白された。その時は戸惑ったが嫌悪感はなかった。多分、心のどこかで私も彼女を求めていたのだろう。

付き合い始めてから、こうして放課後に無人の教室でキスをするのが日課になっていた。安っぽいスリルに身を預ける喜びを求めていないと言えば嘘になる。合理的でないと分かっていても、私たちは止められない。

 それはきっと、私たちが子供である証明だ。

 だから今日もこうして、補うように熱を分かち合う。



 私には二人の母がいる。結果として、今私を育ててくれている母親と私の間には血の繋がりなんてない。戸籍の扱い上「義母」ということになるわけだけど、そこに別に不満はない。血の繋がりがあっても、結局は他人だ。

 思うに私にとって家族とは…


 「優子おおおぉぉぉぉ!!」

 そこまで書いたところで、頭の上から声が聞こえた。放課後の教室と状況と音から声の主を察し、嫌な気配がしたのでそのまま黙々と作業を続けようとする。でも失敗した。ニョキッと視界の外から生えた手が机の上の原稿用紙をひったくったからだ。仕方ないので、顔を上げてから相手をしてやることにした。

 「……雪香。何か用?」

 「ちょっと聞いて優子!大事件だよっ!これは一大事だよっ!!」

 「ハイハイ、どうせ校庭にミステリーサークルかナスカの地上絵でも出来たんでしょ?一大事だねえ」

 雪香が一大事だと言って本当に一大事だったことは一度もない。今までで一番一大事だったことは、学校近くの自販機の缶コーヒーが売り切れたことだ。確かにこれはちょっとした一大事だった。あんな苦汁をお金払ってまで摂取する人の気持ちが私には分からない。

 「違うよ!今回はそういうオカルティックな内容じゃない、ちゃんと現実に即した話!」

 今までの話がオカルティックであったことは認めるのか。その度に話に付き合わされた私は怒るティックしても許されるだろうか。

 雪香は私の友人だ。親友かは分からない。付き合いは高校に入学してからなのでまだ三か月弱だが、確かに気と馬は合う。こういう少し電波なところを除けば、の話だけど。

 別に現実に即しているかどうかはどうでもいいんだけどな…。価値の有無の方が大切だ。

 でもまあ、確かに今までの話よりは真剣みを帯びていそうだ。拳握りしめてるし、放課後わざわざ部活終わってから私のところに来るぐらいだし。

 ん?部活?

 「雪香、あんた今日部活は?」

 腕時計を見ると時刻は六時。今は夏なので、部活は確か六時四五分までだったはずだ。

 「行ったよ。んで抜けてきた」

 あっけらかんと言い放つ。いや将棋って一人では出来ないゲームでしょ。

 雪香は将棋部だ。実際の力は分からないが、少なくとも駒の動かし方を一通り把握している程度の私よりは数段強い。でももっと強い男子が部活にはいるらしい。というか、例年この学校には将棋がすごく強い人が一人はいるそうだ。そして、その人たちが強すぎるあまり将棋部は過疎化が進んでいる。

 「ただでさえ人数少ないのにサボりが出たら成立しないでしょ。戻りなよ。話なら後で聞いてあげるから」

 そして早く私の原稿用紙を返せ。それあんまり人に見られたくないやつだから。

 そう思って言ったものの、雪香は何故か首を横に振った。その目が少し、いつもより力強い輝きを携えていた。

 「いや、むしろこれは将棋部に関係する話だから、先に話を聞いてほしい」

 断言するように、キッパリと言い放つ。さっきまでと違う雰囲気に少し動揺した。どうした?用無しなのか、電波な部分は。

 「…分かったよ。話してみて。下らないことだったらその時怒るから」

 息を吐き、話を振る。さっきから私も大概レベルの低い言葉遊びに興じているし、本当に真剣な相談なら友人としてアドバイスぐらいはしてやりたい。そうじゃなくても、話を聞くこと自体が救いになる場合もある。

 「でもその前に、原稿用紙は返してよ。あんた破きそうだから」

 手を突き出して催促し、紙束を受け取る。その過程で一瞬手と手が触れて重なったが、名前の通り少し冷たいなと思っただけだった。

 「それで?」

 二人だけが取り残された教室の中を私の声が泳ぐ。静けさに耐え切れず窓の外に目をやると、日はまだ高く、白さが眩しい。いつの間にか私の前の椅子に腰かけた雪香がその光に包まれながら、語りづらそうに言葉を紡ぐ。

 「何ていうか、非常に言い辛いんだけど…」

 覇気も元気もなく、言葉は切れ切れ。いつもと違う、それだけはすごく伝わってくる。そして雪香をそこまで悩ませる何かに、俄然興味が沸いてきた。勿論顔には出さないけど。

 「えっと、その、まあ、あのだね、うん…」

 まごついた言葉が宙を舞う。秒針の音と共に何度も世界に放たれたそれらの軌跡を幻視するように視線を私が彷徨わせていると、雪香が不意に立ち上がった。そして驚き仰け反る私のことを無視して、雪香は勢いそのまま世界に声を、私に超ド級の衝撃をぶつけた。

 「私、好きな人が出来たかも!!」

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