第6話 炎


 再びあの男と相見えたのは、ほんの少しの時が過ぎてからだった。

 なんとなく、もう一度来るかもしれないとは思ってた。

 だって、いやにあっさり引いて行ったんだもの。

 けれど、まさか、幻覚に対応できるようになって帰ってくるとは思わなかった。


「……あんた、正気?」


 私は呆れて、目の前に立つ男を見た。


「……」


 男は何も答えない。

 

 黒い目隠しをして、ただ静かにその場所に立っている。


 その体は、もう濡れていない。


「目で見て惑わされるのなら、目をつぶればいい。たとえ光が差さなくとも、お前は見える」


「……」


 平坦な男の声に、鳥肌がたった。

 どうも、いかれぽんちなやつだと思ったわよ。

 背中に嫌な汗が流れた。

 男の握った剣が、びゅ、と薙いだ。


 ◆


「クウ様! ク……」


 私に駆け寄ってきた童女の胸に、刃が突き立てられた。

 精霊は顔を歪めたのち、光となって消えてゆく。

 この童女たちに死はない。

 死ぬとすれば、この森が完全に死んだときだ。

 私に力さえあれば、もう一度幻で形作ることができる。

 ……まあ、もうできる力は残っていないのだが。


 幻で作られていた私の社が消え去った。


 代わりにそこにあるのは、しっかりと大地に根を張る大木。

 私はそこで、魔術によって磔にされていた。

 九本あったしっぽは三本にまで減り、姿は十代始めの少女になっている。


「……」


 わからん。

 何がどうなってこうなったのか、分からん……。

 本格的に戦ったことはないけれど、まさかここまでボロボロにされるとは思わなかった。


 男は目隠しをしたまま、私に刃を向けたのだ。

 正直、私は幻覚が通じない相手だと、ほとんど何もできない。

 幻覚が通じる限りは世界でさえ作れるが、見えなければそこには何もないのと同じなんだもの。


 しかもこいつ、動きが早い、早い。

 前の時はきっと、本気じゃなかったんだろうということは安易に想像がついた。


 私は口を開こうとしたが、体のあまりの痛みに、声を失った。

 精霊たちが必死に助けようとしてくれていたけれど、男……シリウスとか言ったか、は精霊たちを全部殺した。いや、精霊に死はない。けれどもう一度もとの姿を取り戻すのには、しばらく時間がかかるだろう。

 顔を歪めて磔にされている私の前に立って、男は口を開いた。


「おい、ゴミクズ」


「……」


 おいおいおい、ゴミ屑って私のことか。

 この私のことをそう呼んでるのか!?


「おま、えっ……!」


 怒って、残った桃色の石がついたしっぽで攻撃しようとすれば、見事に切り落とされてしまった。


「ひっ……」


 激痛が走ったのち、しっぽはすうっと大気中へ消えていく。

 さらに私の姿がもう一段階小さくなった。

 残るは、水色と薄緑色の石がついたしっぽのみだ。

 私はうまれて初めて、ひどい恐怖を感じた。

 人間など、恐れるものは何もないと思っていた。

 よわっちくて、こざかしくて、バカで、残酷な生き物。

 それが今、私に一振りの剣を向けている。

 私は腹が立って腹が立って、顔を歪めた。


「……気に食わんな」


「っっ!」


 薄緑色のしっぽが切り落とされた。

 とうとう私は幼子の姿になり、そのままべしゃりと地面に落とされた。

 嘘だろ。

 なんで私人間に負けるの?

 っていうか、こいつ強すぎじゃないの。

 なんなのよ、一体……。


「……所詮、まやかしか。それ以上は、できないのか」


「っ」


 その声に、ぞっとしてしまった。

 百年前の記憶が呼び起こされる。

 ひどい苦痛と、未練の中で死んだ私。

 私は百年生きる中で、知っていることがある。

 それは、死んでも魂は再び別の世界へと生まれ変わり、それを何度も繰り返すことを。けれど今の生は一度きりで、今の関係や仲間は、もう二度と同じにはならないことを。

 私はたった一つだけになったしっぽを抱えて、ふるえあがった。


「ごめ、ごめんなさい……お願い、このしっぽまでなくなったら、私ほんとに死んじゃう……」


 涙で顔をぐしょぐしょにして、しっぽをぎゅうっと抱く。

 もふもふのしっぽを抱いて泣く幼児。

 こうすりゃ加護欲も湧くだろ……と思っていたら、思いっきり横っ面をけられた。


 そううまくはいかないか。

 私の小さな体は無残に地を転がった。

 ドライアドに加護されていた頃の体は、俊敏ではない。まだ子どもの姿をしているのだから。

 

 八つのしっぽは攻撃によって破壊された。

 私の溜め込んでいた魔力は霧散し、姿も幼児に戻っている。

 もうじき、それすら維持できなくなって、小狐の姿に戻るだろう。

 そうなればもう、あとは死を待つだけだ。

 髪を捕まれ、無理やり顔を上げさせられた。


「……聞け」


 心臓に剣を突きつけられ、私は震え上がった。

 こいつ、しっぽじゃなくて、心臓を壊さないといけないこと、知ってたんじゃないか。だったらなんで、こんな嬲るようなことを……。


「俺の補佐官がここより西の地で死んだ」


 ほさかん?

 それがなんだっていうんだ。


「人手がいる」


 私が浅い呼吸をしながら男を見上げると、彼は吐き捨てるように言った。


「俺と使い魔の契約を結べ。そうすれば命だけは助けてやってもいい」


 ……。

 …………。


「……この私が、お前と、使い魔の契約を?」


 ヘドがでそうな条件だな。

 私の嘲りが顔にでていたのだろう。

 突きつけられていた剣が、腹部にめり込んだ。


「……っぐ、」


 激痛が体を襲う。

 血が吹き出た。


「……犬畜生のように、私に主人を持てというのか」


「その通りだ。さっさと決めろ」


 私は考えた。

 死ぬのは嫌だ。

 私にはやらなければいけないことがあるから。

 でもそれ以上にもっと嫌なことがある。


「はっ」


 私は血を吐きながら笑ってやった。


「そんなの、お断りだばーか」


 誰が人間になぞ、仕えてやるものか。

 私は残った力を振り絞って、小さな獣の姿に戻った。

 わずかわばかり剣先がずれ、その隙に私は脱兎のごとく森の中へ逃げ込んだ。

 出血が止まらず、血を撒き散らして逃げる。

 いつもなら幻術で隠すこともできたが、今の私にはその余裕がなかった。


 しばらく進んで、森の様子がおかしなことに気づいた。

 本来なら、すぐにわかるだろうその灰色の靄。

 視認できるレベルのそれに私は立ち止まって、前を向いた。


 煙が上がっている。

 何かが、焼ける匂い。

 大勢の人間たちのあしおと。


 森に、炎が。


「っ」


 赤々とした炎が、すぐそばまで迫っていた。


「焼け、焼けーっ!」


「今のうちだ! 雨が止んでいるうちに、早く!」


「九尾の狐が出てくる前に!」


「燃やせ!」


 ──燃やせ。


 その声が妙に頭の中に響いた。


「っやめ、」


 私は残った力でよろよろと地面を歩く。


「やめろ……」


 赤い炎の中へ吸い込まれるように。

 初めてここへ生まれ、ドライアドと会った日のこと。

 精霊たちと遊んだ日々。

 甘くて水水しい森の香り。


 すべての美しいものを、炎が舐めるようにして奪い去っていく。


「やめろーーっっっ!!」

 

 なんてことを、なんてことを……!


 絶叫と同時に森へかけ出そうとする。

 けれど腹の出血で、頭がクラクラとした。

 目の前の景色がぐにゃりとゆがむ。

 赤と黒、緑。

 気味の悪い色が混ざり合って、視界は真っ暗になった。


「人間はすぐに忘れる。痛みがなければ」


 それでもなお泣き叫ぶ私の背後で、まるで人形のように無感情な男が、そう言った。


 

 ◆



 三日目。

 ここでいい子にしていれば、絶対に迎えに来てくれるんだもん。

 だから、大丈夫。

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