第5話 人間と共に


「まったく、骨のない人間だったわね」


 いつもとなんら変わりない寝床で、私はため息を吐いていた。

 多少社に被害は出たものの、無事あの男を追い返すことができた。

 なんというか、喧々諤々とした男の割に、弱っちかった。

 というよりも、何も攻撃してこなかったのだ。


 私の狐火に翻弄されて、何もできなかったのだろう。

 ただ、あのじっと見つめる視線が気味が悪いなと思っただけで、それ以外はとくに何もなかった。


「そうは言ってもクウ様、油断は禁物ですよ」


 私のしっぽをブラッシングしていた精霊が、困ったような顔でつぶやいた。

 先ほどの戦闘で、若干社が壊れてしまったため、精霊たちが慌ただしく動き回っては、壊れてしまった部分を修繕している。

 私はそれを眺めながら、煙を燻らせていた。


 幼い子供たちが鮮やかな赤い着物にタスキをかけて、ちょこまかと動き回る姿は、非常に愛らしかった。


「まだ、人間の気配は消えていません。なんだか、森の外が騒がしいような気がします。最近はやはり、おかしいですよ」


「分かっているわ。でももう一度来たって、同じよ。たとえ何人来たって私が追い返してあげる」


 人間は弱っちい生き物だ。

 百年の間に何度かここへ来た人間もいたが、私に勝てるものなどいなかった。

 ましてや、しっぽが九本になった私に叶う人間など、もうこの世界のどこを探したっていないだろう。


「それにしても、開拓地だなんて……」


 精霊が不安そうに呟いた。

 私は気分が悪くなって、悪態をついた。


「人間は愚かだわ。この森をなくそうなんてこと、させない」


 私は知っている。

 人間たちは、自らの領土を広げるために、木を切り倒し、森を焼き払い、そこへ新たな街を作るということを。

 それがどれほど愚かなことか、人間は分かっちゃいない。

 森がなくなれば、精霊たちは消え去り、動物は死に絶え、そして瘴気はこの地に蔓延することになるだろう。


「それに魔獣を管理するですって? ほんと、傲慢もいいところだわ」


 まぶたを伏せる。

 私たちは管理されるものじゃない。

 人間の手に負えない生き物だということを、あの男は知らないのだろうか。


「とにかく、しばらくは用心ですね」


「まったく。人間の話をしていたら、気分が悪くなっちゃったわよ」


 気分が重くなって、私はため息を吐いた。

 大儀そうに立ち上がって、ゆったりと歩き出す。


「どちらへ?」


「……少し、外へ出てくるわ」


 そう言って、ふすまに手をかけた。

 森には相変わらず雨が降っている。

 私は大好きな森へと歩き出した。


 *


 狐の姿で、森の中をかけていた。

 幼い頃は頼りない足でよちよちと歩き、ドライアドに可愛い可愛いとほめられていたものだ。

 それが今じゃ、まるで飛ぶようにして地面をかけている。


 成長することは素晴らしいことだけれど、その過程で失ったものを考えた時、少し切ない気分になるときがある。


 例えば無邪気さ。何も知らずに、遊びまわっていられた幼いころ。

 例えば見える景色。あの頃は何もかもが美しく、素晴らしいものに見えた。

 例えばこころ。私のこころは、幼い頃はもっと純粋だった。

 

「そろそろ限界かしらね……」


 私は一本の大樹の前で立ち止まった。

 それは見事な大木だった。

 樹齢、およそ二千年はあるだろう。

 これはドライアドの宿っていた木だ。

 私が育ったうろも、ここにある。

 この木はもう、枯れかけて力をあまり残していない。

 ドライアドも姿をあらわすことはない。

 それでもなお、私がそれを寂しく思わないのは、この森にあるほとんどの木々がドライアドの子供であるからだ。

 森の精霊たちは、木々の精気から生まれる。

 だから私は、今もドライアドと一緒に生きているのだ。


「ねえ、もう枯れてしまいそうね」


 そう言って私は人間の姿になると、額を木々に押し付けた。

 湿った緑の香りが、ふわりと鼻をくすぐる。

 中からは水の流れる音が聞こえるような気がした。


 これが彼女の心臓の音。


 私は今も、ドライアドとともにある。

 彼女は私に、様々なことを教えてくれた。


「……共に生きること。別に忘れちゃあ、いないわよ」


 私は世界の意志によって、この世に産み落とされた。

 なんの因果か前世の記憶を持ったままだけれど。

 そのせいで人間嫌いにはなってしまったが、別に私は役目を放棄したわけじゃない。私は私で、役割を果たしているつもりだ。

 もうすぐドライアドは枯れるだろう。

 そのときに私がしなければいけないことは、ただ一つ。

 ここに在り続けて、人間と自然との境界を守ること。ただそれだけだ。


「でもそれを人間が破ろうとするなら、私だって全力で守るわ」


 人間なんて嫌いだ。

 自分勝手で、愚かな生き物だもの。

 私は息を吸うと、ゆっくりと吐いた。

 この甘く、みずみずしい空気はこの森が作り出したものだ。



 この森の役割は、ドライアドの役割は、そして私の役割は──。



 四日目。

 もう一度だけでいい。

 会いたい。

 会いたいよ、マキちゃん。




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