第8章 選択


 真和が帰途を急ぐ一方、ヨシ子は家で一人、テレビを見ていた。

 再放送のドラマを映す画面の端には、台風に警戒する旨を伝える画像が上書きされている。

 その脅威は雨戸を叩く雨の音と、時折差し込む白い閃光、そして閃光から数秒の間をおいて届く爆音で十分に感じられており、けれど元来の強気な彼女にとっては、雷雨何するものぞと堂々としたものだった。


「……早く帰ってこないかなぁ」


 そんなヨシ子に弱味があるとするなら、一人の時間を最近退屈に思うようになったことだ。

 一人で見るテレビは味気なく、一人で摂る食事はそこまで美味しくない。

 特に、つい先日大きく夫に惚れ直していた彼女にとっては、今の時間は一日千秋のような心持ちだった。


「恋しいなぁ」


 今にもずぶ濡れになった彼が帰ってきてくれないものかしら。などと、まるで恋に恋する乙女のような想いを妄想するヨシ子だったが、そのふわふわとした時間は唐突にテレビから響くアラームで終わりを告げる。


「え、何々?」


 速報を告げるアラームに続いて画面上部に表示されたのは、県の指示による避難案内だった。

 警戒レベルの上昇を示す白文字の後に、避難を行うべき地域が表示される。

 そこにはヨシ子の住む地域も含まれていた。


「うっそ。わ、わ、大変!」


 どうやら近くの河川が氾濫する可能性があるらしい。

 再放送のドラマは気づけばニュースに変わっていて、地域のより詳しい情報と避難を強く訴えていた。


「貴重品、とりあえずお財布、免許証と、あとあと……えーっと」


 初めてのことに慌てながらも、ヨシ子は自分に必要な物を考え、回収に向かう。

 ある程度を頭に思い浮かべたところで廊下に出て、そこで目を疑った。


 玄関の前に人影が立ち、それは手早く鍵を開けると勢いよく扉を開く。

 傘はほとんど意味がなかったのか、それとも開きすらしなかったのか、体中ずぶ濡れで、ボタボタと大粒の雫を零す男。

 真和だった。


「え、ええ!?」

「か、会社が、はぁ、早く、終わって、はぁ……」

「そうなの? って、なんでそんなに濡れて」

「は、電車、タクシー、無理そうだったから、走って……」

「走って!?」


 ヨシ子は夫が元陸上部だということは知っていたが、電車で二駅離れた会社から真っ直ぐ走ってくるような真似をするとは考えてもいなかった。

 だが現に、水を吸った重苦しいスーツを脱ぎ捨て肌にぴったりと付いたシャツ姿を晒す彼がここにいる。


 どうして彼がそんな無茶をしたのか、答えは明白だった。


「……もう!」


 ヨシ子は、自分の目尻が熱くなるのを感じて目を細めると、そっと指でそれらを拭う。

 それから急いで脱衣所に向かうとバスタオルを持ってきて、真和に投げ渡した。


「それで体拭いといて! この地域避難勧告出てるから、準備してくる!」

「ああ、わかった」


 いつもの調子で指示を出し、貴重品をまとめた箱を取りに2階の和室へと向かう。

 襖の戸を開き、迷いのない足取りで嫁入り道具の一つである化粧台の棚を開けた。


 雨戸を閉じた窓の隙間から、白い光が差し込んだ。


「よし」


 棚の中から箱を取り出し、それを大事に抱えたヨシ子が次の動きに入ろうとしたその瞬間。


 ドンッ!


「……ッ!?!?」


 音の高低は分からない、だが太鼓を全力で叩いたかのような腹に響く強い音を聞き、彼女は怯み、その場で動けなくなる。

 全身を総毛立たせる強烈な破裂音はヨシ子から思考を奪い、その次へ繋がるはずだった動きを封じ込めた。

 一瞬、すべての音を失ったような世界にいた彼女が聴力を取り戻したところで、その耳に何かがミシミシという音を届けているのに気づき。


「……え?」


 次の瞬間、轟音と共に砕け、彼女の視界をひしゃげた木材のこげ茶と、燃える柿の木の赤が染め上げた。


「……きゃああああああああああ!!!」


 豪雨の中で彼女の上げた悲鳴は、一階にいる彼を除いて他の誰にも届かなかった。


「!? ヨシ子!!」


 ただ一人彼女の悲鳴を聞きうけた真和であったが、雷の轟音と焼け崩れた柿の木が家に与えた衝撃は凄まじく、彼もまた足をもつれさせるほどに体勢を崩していた。

 どうにか震える足を意志の力で立たせたところで、彼の耳にまたヨシ子の声が届く。


「助けてー!! アナター!! 木が倒れて動けない! 木が倒れて動けなーーーい!!」

「……ッ!?」


 雨音の中から家の反響を通して聞こえてくる妻の逼迫した声。

 命の危機に瀕した者特有の叫び。微かに鼻を突く焦げ臭い香り。今にも崩れそうな、家鳴りを起こす家の壁。止まない雨音。


「いやーー! 動けなーい! 動けないのーーーー!!! タスケテー!!」


 再び妻の、ヨシ子の声を聞いた時、真和は駆け出していた。

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