第6章 突然の別れ
夏よりも秋を感じる時間が多くなってきた9月の半ばを過ぎた頃。
「ねぇ、何してるの?」
いつものように真和がアリの巣を確認しているところに、早朝ランニングから戻ったヨシ子が声を掛けてきた。
「いっつもそこに立ってるから、てっきり柿の木を見てるんだと思ってたけど。地面に何かあるわけ?」
「………」
ヨシ子にしてみれば何気ない疑問を口にしただけなのだが、その問いを受けた真和は心臓が飛び出そうなくらいに驚いていた。
同時に彼はどうしてそんなに自分が驚いたのかが分からず、余計にどきまぎしてしまう。
「ちょっと、私にも見せてよ」
「あ、ああ……」
興味深げに近づいてくるヨシ子を待つ間、真和はまるで刑の執行を待つ罪人のような気分になっていた。
ざりざりとヨシ子が砂を踏む音がいやに恐ろしく感じられ、真和の頬を汗が伝う。
「何々? どれ?」
「………」
じゃれつくように真和の腰に手を回しながら彼の視線の先を追うヨシ子。
そして彼女の目にも、遂にそれは認識された。
「アリの巣?」
「うん」
直前まであれほど期待に満ちていたヨシ子の顔が、落胆にも似たしかめっ面に変わる。
「なぁんだ。つまんないの! アナタ、こんなのずっと見てたの?」
現物にあっさりと興味を失った彼女は、真和から言葉を引き出そうと絡み始める。
どうしてこんな物に夫が関心を持ったのか、その方が彼女の探求心を刺激していた。
「いつから見てたの? ねぇねぇ、教えて?」
「ああ……」
催促されるまま、真和はヨシ子にアリの巣との出会いからこれまでを話し始める。
初めのうちはぽつぽつと、けれど少しすれば彼の口から意外なほど饒舌に、アリの巣との日々が語られた。
ここまで誰かに多くを語るのは真和にとって初めてのことであり、同時にヨシ子が真和からこれだけ多くの言葉を聞かされることもまた初めてのことだった。
話をしているうちに段々と真和は熱を持ち、反対にヨシ子の熱は冷めていく。
「……ふぅん、もういい」
「え?」
「話さなくていいって言ったの!」
「あ、ヨシ子!?」
最後には不機嫌を隠さないヨシ子によって強制的に話は打ち切られ、真和を庭に一人残し彼女は家の中へと帰ってしまった。
「………」
その様子をただ呆然と見送るしかなかった真和は、自然と俯き、アリの巣へと視線を向ける。
そこでは変わらず日々の営みを続けるアリ達が、どこからか運んできた蝶の羽を一枚、せっせと巣の中へと入れようとしていた。
その日から数日後、事件は起こった。
いつものように仕事を定時で切り上げ帰宅し、柿の木の下までやってきた真和は、それを見た。
青天の霹靂の如く、彼の浮かれていた心は容赦なく撃ち抜かれてしまった。
「……っ!」
アリの巣がなくなっていた。
正確には、アリの巣があった場所が掘り返され、さらに埋め立てられていた。
真和は、自分の中にある何かが一気に膨張するのを感じた。
だがそれを感じたのはほんの一瞬、爆発を起こしたかのように膨れ上がった何かは、次の瞬間にはわずかな息苦しさだけを残し、無になる。
ただただ、すべてが終わったしまったのだと、それだけは理解した。
「………」
誰がそれをしたのかは明白だった。
そしてそれを行った張本人が、真和に先んじて声を掛けてきた。
「私が埋めたのよ」
罪の告白に声のした方を見れば、そこには真和の妻、ヨシ子が立っていた。
彼女は悔しげに下唇を噛み、アリの巣のあった場所を睨みつけ、再び口を開く。
「アナタに教えてもらった日から私ね、アナタの様子を観察したの。アナタ、本当に毎日、毎日、飽きもせず、朝も、夕方も、夜も、あのアリの巣をずっと見てたのね」
「………」
「この家に住み始めてからずっと、私幸せだったの。だって、アナタは前より優しくなって、一緒にいてくれて、子作りも頑張ってくれて。おかげでご近所付き合いも楽しく出来て、お義父さんやお義母さんとの関係も良好で、全部が上手くいってて、ああ、私、世界中の誰よりも幸せなんだなぁって、心からそう思ってたの」
でも、と。ヨシ子の言葉は続いた。
「私、アナタに愛されてるって思ってた。誰よりも強く、深く。でもあの日、アナタが私よりも好きな物があるって知って、私びっくりして、信じられなくて、怖くなって……今の私の幸せな日々は、アナタがいてくれたからこそあるのに、もしもアナタが私を見てくれなくなっちゃったらって思ったら、怖くて……!」
そこまで口にしたところでヨシ子は駆け出し、真和の胸の中に飛び込んだ。
胸の内で唸る彼女は、涙を流していた。
結婚式での嬉し涙以来一度として見なかった彼女の涙に、真和の心は再び強く打ち据えられる。
「あれがアナタにとって大事な物だってのは分かってたの。でも、どうしても、どうしても許せなくて。私許せなくて……! 私あれ、許せない……許せないの……ダメだったのぉ!!」
誰かの視線もあるかもしれない庭で、それも仕事で使うスーツの自分に縋り寄って、みっともなく涙を流して泣いている。
人生で初めて見る妻のあられもない姿に、真和の両腕は自然と彼女を抱きしめていた。
それは優しい力加減でヨシ子を包み、さらにそっと添えた掌で背中をよしよしと撫でさする。
「……ごめん」
その言葉は、真和の口から零れていた。
「ごめんな、ヨシ子」
「ひぅっ、ぅっ……」
「不安にさせたな。怖がらせちゃったな。ごめん」
「う、うぇぇ……」
優しい声音で囁き掛ける真和の言葉に、ヨシ子は埋めていた顔を上げ、彼の目を見た。
「ヨシ子が俺のためにこれまで頑張ってくれたこと、ちゃんと、覚えてる。大学にいた頃からしつこく付きまとってきて、あれやこれやとちょっかい出してきてた時のことも、屋上で、付き合ってください。って、告白してくれたことも、仕事が安定するまで、じっ……と耐えて待っていてくれたことも、自分からは何もやろうとしない俺の手を引いて、導いてくれたことも。……たくさん愛し合ったことも、全部、全部覚えてる」
「………」
「ヨシ子がいてくれたから、俺はこの年で課長になれたし、こんな立派なマイホームだって手に入れられたんだ。これからも、ヨシ子には傍にいて手を引っ張り続けて欲しい」
「ぅ、ぅぅ……!」
「俺にとってヨシ子は、大切な人なんだ」
「……ぅぁ! ごめ、ね……ごめん、ねぇ……!」
真和の言葉に感極まって、大粒の涙を零しながらヨシ子もまた謝罪の言葉を口にする。
そんな彼女を再び胸のうちに抱きしめながら、真和は己の不義理を深く反省した。
今この胸の中に抱いている女性は自分の妻なのだ。
何よりも愛情を注ぐべきは彼女であり、誰よりも見つめるべきは彼女なのだと自分に言い聞かせる。
「ごめんな、ヨシ子」
「ごめんねぇ……アナタぁ……!」
二人抱きしめ合う初秋の夕暮れ。
遥か遠く赤い空の果て、いわし雲が泳いでいた。
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