第5章 進行


 充足の日々は、真和の普段の振る舞いにも影響を与え始めた。

 これまでの彼はただ他人の言うがままに従い、流されるだけだった。が、


「ねぇあなた、今晩は何が食べたい? なーんて、アナタに聞いても……」

「生姜焼き、かな」

「え?」

「生姜焼きの、気分かも、しれない」

「………」

 

 この、冗談のつもりがすごいことになった、とヨシ子が翌日大学時代の友人に語る出来事をきっかけに、彼はぽつりぽつりと己の主張を口にするようになった。


「ただいま」

「お帰りなさい! 頼んだDVDちゃんとレンタル屋さんにあったー……って、それ、なーに?」

「日記帳だよ」

「え、アナタそんなのつけてたっけ?」

「……いや。いい機会だから、始めてみようかって、ね」

「へ、へー」


 これまで自分の趣味など持ち合わせていなかったというのに突然、それもヨシ子に何の相談もなく真和が新しい何かを始めたり、


「あ、あ、待って、ま……」

「ん」

「くぅ……!」


 夫婦の営みが日を追うごとに激しくなり、遂には強く求めてくる真和に応えきれずヨシ子が意識を失うまでになった。

 このようなことは真和とヨシ子が夫婦になって以来、どころか出会ってからすら初めてのことだった。


(最近のあの人、前にも増して変わってきてる気がする……)


 ここ数日で真和が起こした劇的な変化に、さしものヨシ子も驚愕した。

 よもや新しい環境がこんなにも影響を与えるとは思ってもいなかった。野性味とでも評すればいいのか、これまで塵ほどにも表してこなかった積極性が発露していた。

 その立ち居振る舞いは以前の真和とは別人であるかのようで、間近で彼のことを見続けてきたヨシ子だからこそ、その急激な変化の一つ一つに細やかに気づき、余計に愕然とする。

 だが。


(とはいっても、あの人はあの人だわ)


 それをヨシ子はさして問題にしなかった。

 確かに真和の変化は激しかったが、それでも変わっていない部分を彼女は把握していた。


 真和は自分の意見を言うようになったが、こちらの希望を折ったりはしない。

 基本的には前と変わらずヨシ子の言葉を待つし、選択権を与えられた際に、困ったような顔で助けを求めてこなくなっただけだ。

 夜の生活にしてもそう。ヨシ子が本気で止めてといえば、真和は間違いなく動きを止める。

 彼女が気絶するまで抱かれているのは、何よりもその行為が心地いいからに他ならない。

 真和に抱かれている時に感じる、これまで感じたことのない刺激と高揚。

 視線を合わせた時に彼の瞳から受ける、力強さ。


(一心不乱に私だけを見てくれている……)


 彼が私を愛してくれている。

 これまで内向的だった真和が見せ始めた、熱く、そして途方もないくらいに深い愛情の念。

 出会った頃から期待できないととうに切り捨てていたものが突然手に入った幸運。それは彼女にとって宝くじの一等を手に入れるよりも喜ばしく、また得難いことだった。

 その想いを振り払うなどという愚かなことを、ヨシ子がするわけがなかった。

 彼女のプライドが、それを許さない。


「……もっと、自分を磨かないと! あの人の持ってる愛情を、受け止めきれるくらいに!」


 料理の腕を上げながら、運動もして体力をつけよう。

 出来ることならずっと彼のそばにいてその想いを甘受したいが、これはより良い未来への投資だと割り切る。

 これまでの真和とは明らかに違うその立ち居振る舞いをどこか魅力的に感じている自分がいることを、ヨシ子は自覚していた。

 故に彼女は、そんな彼にもっと見合う自分になろうと決意した。

 そうでなくてはならなかった。

 庭の柿の木のように雄大で、頼り甲斐のあるところを見せ始めた真和を、これまでと同じように導ける己であるために。

 誰も見たことのない彼の顔を見る。それが出来るのはこの世界でただ一人、自分だけなのだから。


「アナタ!」

「ん?」


 ヨシ子的にダサいジャージ姿を惜しげもなく見せながら、彼女は庭の柿の木の下に立つ愛する夫へ声を張る。


「私、頑張るからね!」


 それは大学時代、真和に向かってモーションを掛け続けていた時と同じ、恋をしている女の声音で。


「行ってきます!」


 弾む思いを隠し切れない様子で駆け出したヨシ子を、真和は、


「行ってらっしゃい」


 ただ静かに微笑み、見送っていた。

 彼の足元では今日もまた、多くのアリ達が巣穴を出たり入ったりを繰り返していた。

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