第3章 変化


 真和が再びアリの巣を認識したのは、バーベキューパーティーを行った翌朝のことだった。

 彼は家の中の片づけをするヨシ子と役割分担し、庭の手入れを任されていた。

 散らかったゴミを拾って袋に入れている最中、地面を見つめるその視線の先にそれを発見する。


「お」


 アリの行列だった。

 大勢のアリ達が隊列を組み、真っ直ぐに歩みを進めて移動する姿がそこにはあった。

 それを見た真和の視線は、自然とあの時見つけたアリの巣の方を向いた。

 行列は、確かにあのアリの巣から伸びていた。


「おお……!」


 思わず、真和は手に持っていたゴミ袋を地面に置いて行列に近づいていく。

 先日と違いアリ達は整然とした動きで列を成し、二列になって行き交っている。

 巣へと向かうアリ達の顎にはよく見れば何かが咥えられていて、じっと目を凝らして観察すれば、目より先に鼻でその正体を看破する。


「……パイナップルか!」


 昨夜のバーベキューで出した折に、知り合いの誰かが落としてそのままにしていたのを何となしに思い出し、真和は心当たりの場所へと移動する。


 果たして、アリの行列は彼の予想した通り、地面に落ちたパイナップルを目的地にしていた。

 真和の歩数にして巣から十数歩の距離、しかしアリには長いその道のりを彼らは踏破し、見事甘く瑞々しい果肉をその手にしていたのだ。


「ふぅー……」


 事の仔細を確認し、真和は深く息を吐く。

 彼の心は俄かに熱を持ち、鼓動は知らず知らずのうちに早くなっていた。

 一時はアリ達に対して裏切られたかのような失望を胸に抱いていたが、今の真和の心の中には、いつからか忘れ去っていた胸躍らせる高揚が新たに芽生えていた。


「……ヨシ子には内緒だぞ?」


 一心不乱にパイナップルに噛みつくアリ達に向かい、真和は口元に人差し指を立てて合図する。

 普段なら例えアリが集っていようが構わず摘まみ上げて捨ててしまうところだったが、彼はそうしなかった。

 運ばれていくパイナップルから視線を外し再び作業に戻る真和の心には、いつもと違う何かが起こっていた。


 それは何がしかの功徳を積んだような、あるいは親に隠れてささやかな悪戯をしたかのような、善とも悪とも付かない心の揺れ動き。

 胸の内を満たす不思議な感覚に、真和は言い知れないくすぐったさを感じていた。


「アナタ、今日はご機嫌ね?」


 顔に出ていたのだろう、晩飯時にヨシ子は色めく真和を見てしばし訝しみ、けれど深くは詮索せずにそれを受け入れた。

 愛する夫が付き合い始めて初めて見せた顔を彼女は純粋に喜び、順風満帆な新生活の始まりにさらなる期待を膨らませる。


 夫婦の中に満ちた高揚は、自然とその営みを誘発し、ヨシ子の口からそれを告げさせる。


「ねぇ、アナタ。ようやく落ち着いたんだし、そろそろどうかしら?」

「……もちろん、喜んで」


 真和に否やなど当然なく、その晩、夫婦は愛を紡いだ。

 その日の交わりは二人がこれまで経験したどんな熱をも凌駕するほどに燃え上がり、幸福を生み育んだ。


 そして、その日を境に、真和の日常は少しずつ変化し始める。


 それは例えば彼の職場で。


「部長、例の件の資料が纏まりました」

「おお! ありがとう、藤本君……しかし」

「何でしょうか?」

「これまでの君も仕事はキッチリとこなしてくれていたが、最近は特にポテンシャルが高まっているように思うよ。今日もこのまま直帰かい?」

「はい」

「ううむ。この調子で追加の案件をこなしてもらえたらもっと業績は上がるのだが……」

「ぶちょー! ダメですって。課長は新居で待ってる嫁さんのために全力出してるんですから」

「……!」

「ほほっ、そうだったね。これは失礼した」

「いえ……」

「今の時点で藤本君は二人分くらい働いてくれてるんだ。何の遠慮もしなくていいよ。その分の体力は存分に君のお嫁さんのために使ってあげなさい」

「ぶちょー! それセクハラですって」

「杉田君! キミはちょっかい出してないで自分の仕事をこなしなさい!」

「はーい。……課長ー、今度お宅に招待してくださいねー!」

「分かった。妻に聞いておくよ」

「よろしくお願いしまーす!」

「杉田君!」


 真和自身にそこまでの自覚はなかったが、確かに仕事の能率が上がっていた。

 これまでは多少足の出ていた仕事量でも、定時を迎える頃には完了するようになり、前よりも自分の時間を使えるようになった。


 さらに、ヨシ子との関係にも変化があった。


「ねぇ、映画借りて来たんだけど一緒に見ましょう?」

「うん」

「今日のはご近所の高橋さんからお勧めされた奴なんだけどね。動物もの」

「それってまた怖い奴?」

「ううん、可愛い奴。この間見たのつまらなかったもんね。だからしばらく怖いのはいいって言ってあるの」

「ははっ」

「さ、見ましょ見ましょ」

「うん」


 早く帰るようになったおかげで一緒に過ごす時間が増え、共に何かをして過ごす時間も比例して増えた。

 

「……ね! ここに引っ越してよかったでしょ? 前より私達、上手くいってる気がする」

「そうだね」

「ふふっ」


 今も風呂上りに二人、ソファに身を寄せ合って座り、新たに買った大型テレビで映画鑑賞。

 大画面で繰り広げられる動物愛の物語を仲良く眺めるその姿は、おしどり夫婦と呼んで遜色ないほどには誰の目にも甘く映るだろう。


「……気づいてる? 最近のアナタ、前よりも優しくなってるのよ?」

「え?」

「……夜は激しいけど」

「………」


 マンション住まいだった頃は遠慮がちだった夫婦の営みも今や憚ることなく行われ、最近そのことをヨシ子が親に報告したらしく、初孫を早く見せろと催促の電話を受けた。


 前よりも円満に生活のすべてが回っていると、真和は強く感じていた。

 妻も、親も、友人も、上司も、部下も、同僚も、そのすべての関係が今、好ましい形で循環していた。


 口数少なく主体性のない男の人生に訪れた、蜜月の時。

 そんな日々を過ごす彼の生活には、あのアリの巣との交流もまた、続いていた。

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