第2章 アリの巣
引っ越し作業が終わり、数日が経った頃のこと。
真和とヨシ子の共通の知り合いを呼んでバーベキューパーティーをする運びとなり、その前準備として真和が庭の手入れをすることになった。
家の前の主によって整えられた庭も、これからは自分達で世話をする必要がある。
パーティーでは火を扱うのもあってヨシ子から入念な草むしりを指示された真和は、上下にジャージ、その手に軍手を着込んで事に当たった。
彼にとっては貴重な休みの日だったが、ヨシ子の提案に否はなかった。
「………」
日差しを麦わら帽子で遮りながら、真和は黙々と作業を続ける。
生命力に溢れた雑草達を根から引き抜き、時に土を掘り返して根絶する。
並の人間ならすぐに飽きてしまうような単純な作業も、彼はただただ愚直に実行し続けた。
「……くぁー」
それでも溜まる疲労に遂には彼も音を上げて、中腰の姿勢を起こし、大きく伸びをする。
首に巻いたタオルで汗を拭いながらぬれ縁に腰かけ、事前に用意しておいたペットボトルの麦茶で喉を潤す。
「ふぅ」
ひと心地ついて気を落ち着けたところで、真和は休憩がてらしばし庭を鑑賞することにした。
前の住人が愛を注いでいたのであろうその庭には、いくつか彼の目を引く物があった。
ひとつ、手頃な石で囲った空間とその中にある質の違う土。
そこにはチューリップと書いてあるネームプレートが刺さっていたが、残念ながら球根は回収されており、新たに何かを植える必要があった。
ひとつ、隣家と土地を仕切る石壁に沿うようにして植えられている防火林。
その木の名前を真和は知らないが、常緑の葉の所々から姿をのぞかせる赤く美しい楕円形をした果実が、緑と赤のコントラストを作って彼の目を楽しませてくれた。
そしてもうひとつ、最も真和の目を引いたのは、一本の高く立派な柿の木だった。
「大したものだ」
真和は改めてその大きさに感嘆する。
高さ10mを越すその柿の木は真っ直ぐに伸び盛り、今は緑の葉を青々と生い茂らせている。
開花時期は過ぎているらしく、秋にはたっぷりと実を作るのだろうと思えば、ヨシ子の喜ぶ顔が目に浮かんだ。
思えばこの柿の木も、彼女の家選びの勘定に含まれていたのかもしれない。
「よし」
妻の顔を思い出したところで、真和は再び草むしりに戻る。
炎天下の日照は相変わらず気力と体力を奪い去っていくが、決められた事に対して要領の良い彼は、適切に休みを取って高効率で作業を進めていった。
作業を始めてから数時間。
一帯の草むしりを終え、作業も終盤に差し掛かっていた真和は柿の木の下にいた。
木の根元は日陰になっているにもかかわらず、土の栄養のおこぼれにあずかる雑草達が居座っており、最後の関門として真和に立ちはだかる。
真和は泥だらけの軍手でそれらを次々とむしり取り、柿の木を救う。
そんな戦いを続ける中、彼は柿の木の近くで奇妙な物を見つけた。
「……うん?」
それは、柿の木の近くの地面にぽっかりと開いた、小さな穴だった。
真和の小指ほどの幅しかない穴に、彼はしばし作業の手を止め目を向ける。
少しして、穴の中からその正体を教える決定的な物が姿を現す。
「……ああ」
真和が納得の声を上げたその視線の先に、一匹のアリがいた。
顎と触角を動かし周囲を警戒しながら、アリはゆっくりとその全身を穴から出す。
何の変哲もない頭部胸部腹部の三つからなる体節に三対六本の肢を胸部から生やした、黒色の動物界節足動物門汎甲殻類六脚亜門昆虫綱ハチ目スズメバチ上科アリ科の何がしかである。
一匹出てきてからは、そこから二匹、三匹と、次々と新たなアリが穴から這い出てくる。
真和が見つけた穴の正体は、何ということもない、ただのアリの巣だったのである。
「………」
穴の正体が分かってからも、真和はしばらくの間アリの巣を観察した。
別に大した理由はなく、疲れていて頭の回転が緩やかだったとか、小さい頃はアリをなんとなしに好んでいたことを思い出したとか、そんな幼心に見て以来の物を再発見した驚きだとか、そうしたありきたりな心の揺れ動きが彼にそうさせていたに過ぎない。
それでもその時の真和はアリの巣を、ひいては巣から這い出したアリ達を、真剣なまなざしで見つめていた。
アリ達は自分達を見つめる巨人のことなど気にも留めず、各々が役割を果たすために歩き出す。
彼らは餌を求めてそれぞれが思い思いに歩みを進め、好き勝手に巣から離れていく。
新たに巣から出てきたアリ達も同様に、それぞれの意思でもって庭中に散っていった。
そんな彼らの姿を見た真和は、彼自身、思っていた以上に失望してしまっていることに気がついた。
この時真和がアリ達に期待していたのは、隊列を組んで真っ直ぐに歩みを進める姿であり、散り散りに広がっていく姿などでは決してなかったのである。
「……ふぅん」
落胆のため息を鼻から零した真和は、アリの巣から興味を失い作業に戻る。
それから作業をつつがなく終わらせ、夜に労いの発泡酒をヨシ子と共にぬれ縁で味わいながら、明日のバーベキューパーティーについて話し合う頃には、アリの巣を見ていたことなど、ましてやそれで心が動かされていたことなど、彼の頭からすっかり抜け落ちてしまっていた。
何の変哲もない日常が、今日も続いていた。
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