第6話 中川(3)

 −−−これが山田か。

 中川は口角を上げたままの姿勢で振り向き、そこに立っている制服の女性を認めた。白髪混じりの髪を後ろにひっつめている小柄な女性。ベビーピンクの制服の大きなリボンのふちが色褪せている。

 「え、あ、あの伝票が……」

 よく耳を傾けないと聞き取れないような小さな声で、山田は喋る。声は可愛かった。

 (これはまた−−−)

 中川は口笛でも吹きたくなるような衝動に駆られた。

 (徹底的にいじめぬきたくなるようなタイプやな)

 胸の内にかすかな苛立ちが生まれたのを、意識しながら中川は山田を見下ろした。

 (それにしても、今までどこにいたんや?一度も見たことないで)

 中川は、「状況はわからないけれど険悪な雰囲気を取り持つように笑顔で振る舞う良い人」に見えるように、にこにことしながら状況を見守った。

 「山田さん、今じゃなくてもいいでしょ。今、お客さん見えてるし、後にして」

 森が冷たい声で言った。どこにも気遣いの無い男に向かって取り繕わない森の声を、中川は初めて耳にした。

 「あ……あのう……すみませ……」

 語尾もはっきりしない小さな声で山田はあっさりと引き下がった。表情からは、なにも窺えない。すこし怯えたような顔つきをしているだけだ。ちらり、と中川の顔をその小さい女は見た。思いがけない視線の移動の素早さに、中川は気づかない振りをしながら笑顔を崩さなかった。

 「あ、わたくし、福原事務用品の営業の中川と申します。お世話になっております」

 中川は、森や古田の険悪な視線を背中に感じながら、ゆっくりと歩み去ろうとする山田の後ろ姿に声をかけた。胸元から名刺を出しながら、もはや身についた足が長く見える大股のストライドで山田に歩み寄った。

 「……え……?」

 女がひどくゆっくりと振り返り、ぼんやりと中川を見上げる。女のゆっくりとした反応に中川はさらに胸の中で苛立ちが泡のように生まれるのを感じながら、笑顔で名刺を差し出した。

 (とろとろ、とろとろしやがって)

 「福原事務用品の中川と申します。お世話になっております。事務用品のご用命は、いつもあなたのおそばに、の弊社へ!」

 2階事務室の全事務員−−−12名−−−の注目が中川の背中を通り越して、目の前の女に注がれている。山田の表情からそれが手に取るようにわかった。

 「あ……あ、あたし、名刺がなくて……」

 (自分の名刺を与えられていないってか。そういう扱いなわけやな。さっき「倉庫」って言ってたし、敷地の端の倉庫勤務っぽいな)

 敷地の端にある倉庫らしき建物をぼんやりと思い描きながら、中川は口を開いた。

 「あっ、お名刺を今お持ちでないんですよね。初めてお会いするのでご挨拶だけでも、と思いまして。福原事務用品の中川良人です。良い人間と書いて、よしと、です。よろしくお願いします」

 中川は下の名前の解説までした。相手が名刺を持っていない以上、相手の下の名前を聞き出す呼び水として自分も下の名前を名乗るしかなかった。

 「あ……山田、です……あの……あ、山田ノリコ……」

 目の前にいる中川にすら聞き取りにくいほど小さな声で、山田はノリコだと名乗った。漢字は分からない。中川の名乗りに合わせて、漢字を説明することは思いつかないらしかった。頻繁にうつむきながら話すので、とぎれとぎれにしか声は聞こえなかった。中川の後ろで耳を澄ましている事務員たちには、まったく何も聞こえていないだろう。ただ、8割方下を向いてときにちらっと盗み見るように中川に視線を移すおとなしい女が見えるだけだろう。

 「山田ノリコさんですね、どうぞよろしくお願いします」

 中川は小首を傾げながら笑顔を作り、山田ノリコの名前を口にして気づいた。

 (あ−−−紀子と一緒じゃねえか、へえ)

 中川の背中に視線を突き刺しているであろう古田紀子の、グロスで濡れた唇を思い描きながら、目の前のノリコの口紅のはげた荒れた唇を見下ろした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る