第5話 ノリコ(3)

 中川は、ノリコにもっとも近づいた男だった。中学時代も高校時代も大学時代も、こんな風に輝いている男が、ノリコの半径30㎝に入ってきたことはない。ノリコは夫も子供もいるのだから、男に触れたことがないわけではない。ただの行為のようではなく、ノリコ自身を認めながらこんなに近くに来た男は、ノリコの人生には存在しなかった。ノリコはいつも空気だった。いないように扱われたし、それ以上のことを人生に望むことは、小学生のときに諦めた。

 膝丈のスカートも「はしたない」と叱られた。

「そんな服を着たがるなんて色気付いて、不良になって、バカな男に孕まされてボロ雑巾みたいな人生を送りたいの?おぞましい」

 少しでも女の子らしい格好をしたい素ぶりを見せるだけで、母親はノリコを詰った。四十代後半になっても、母の声はノリコを責め立てる。

 「ーーーですね」

 「えっ」

 母親の声に気を取られて、一瞬どこにいるか分からなかった。目の前に中川の笑顔がある。小柄なノリコにあわせて、長身の体を折り曲げてノリコの顔を覗き込んでいる。

 「あっあの」

 ノリコは驚いて、耳まで血が上って熱くなるのを止められなかった。

(はしたない。男に笑いかけられて赤くなるなんて)

 母の声が心のなかに浮かび上がる。

 「大丈夫ですか?顔が赤いですよ?熱中症とか……」

 中川は間近に顔を近づけたまま、心配そうな表情を作る。ノリコは鼻の奥がつん、とした。喉のあたりに息苦しいものがつまったような、胸のあたりが踊るような感じが広がった。

 「だっ、大丈夫でーーー」

 ノリコは反射的になんでもないように振舞おうとして、のけぞった。

 チャリーンチャリンチャリン。

 金属音を響かせて、ノリコは財布ごと床にぶちまけていた。中から小銭が飛び出してそこら中に広がる。

 (ほら!調子に乗るからこんな目に遭うんだよ!恥ずかしい奴め)

 今度はノリコの頭のなかで夫の声が響いた。

 (恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい)

 ノリコは更に全身を朱に染めて、地面にがばっと伏せてお金を拾い出した。一刻も早くここから去りたかった。中川の前から、みっともない自分を消し去りたかった。

 「はい」

 必死に這いつくばってノリコがお金を集めていると、中川の大きな手が目の前に差し出された。中川も膝をついてお金を拾ってくれていたらしい。

 ノリコは跪いた姿勢で、中川の差し伸べた手を呆けたように見つめた。遠くでテレビの音がガヤガヤと聞こえる。受付の警備員は中でテレビを見ていて、お金を落としたことにも気づいてないらしい。反対側の作業場からは印刷機が動く大きな音がしているが、仕切りで社屋の入り口は死界になっている。

 この世で二人きりのように思えた。ノリコは、ぼんやりと中川を見上げた。

 「はい」

 中川はお金を受け取ろうとしないノリコの手を左手で取って包み込み、右手で百円玉をノリコの掌に柔らかく置いた。そして、両手で包み込んだ。

 「大事なお金やーーー。もう落とさんといてくださいね」

 「ーーーあっ」

 ありがとうございます、と口の中でもごもごと言いながら、ノリコは手をひったくって、前のめりになりながら、階段を駆け上がった。駆け上がったからではない心臓の拍動が、痛かった。それでも後ろも見ずに、駆け上がった。

 

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