第4話 中川(2) 

 (山田、ってどの女や?)

 中川は女子トイレ横で「古田紀子が、同僚の山田よりも、山田の夫と親しい」話を耳にしてから、坂田印刷では山田という女を探すようにしていた。

 (名前はフルネームで覚えておく方がいい、特に女は)

 中川は明るく挨拶しながら、坂田印刷2階の事務室に入って行った。1階は作業場と搬出口になっているため、そこにはほとんど女性はいない。今時の印刷作業は機械化が進んでいるので、力のある男でないとできないわけではないが、坂田印刷には女性は事務員しかいなかった。それも4人とも全員、ベビーピンクの大きなリボンをつけた制服を着せられた平社員だけだった。

 (女は、こうやって責任のない仕事をやってんのが一番いいよな。責任ある立場につくような女は、俺の愛想にもニコリともしやしねえし、ほんま可愛くねえ)

 中川は、自分の直属の女性上司である井上の顔を思い浮かべた。

 (ツンツンしやがって。まあ、でもあんだけツンツンしてんのは、俺のことを意識してんのかもしれねえけど。ツンデレかもな。まあちょっと歳はいってるけど、美人やし、案外……)

 チン!

 中川が上司の井上に対して妄想をさらに働かせようとしたときに、ちょうど坂田印刷のエレベーターのドアが開いた。ドアが開いたその場がいきなり事務室になっている。関係者以外は出入りしないので、廊下や内扉があらためて設けられているわけではない造りになっていた。

 つまり、エレベーターのドアが開いた瞬間に、中川は爽やかな笑顔を作っておく必要があるということだった。


 「っちわーっす。いつもあなたのおそばに、の福原事務用品の中川でございます!」

 私大のアメフトサークルで鍛えた大声とノリのいい振る舞いは、十分に役に立っていた。エレベーターの扉が開いた瞬間に、中川は感じのいい笑顔を作り終えていた。

 「いつも能天気でいいですね、営業さんは」

 エレベーターに乗り込もうとしていた総務課長の平原が、陰気な顔で嫌味を言って来る。平原総務課長は絶対に、出入りの営業マンの名前を口にしない。頑なに「営業さん」と言う。それも見下したように。そして、鼻で嗤って銀縁のメガネを押し上げるのだ。

 「あー、俺、頭悪いんでぇ、元気だけが取り柄っすから。平原さんみたいにシュッとしてて、頭良かったらええねんけど、アホですから。あははは」

 中川は「アホの子」と呼ばれる振る舞いで、100%の笑顔で流した。

 (あーいっつもいっつも陰気な顔しやがって。おめーが、事務の古田紀子にぞっこんでしょぼいもん貢いでるくせに、鼻であしらわれてんの、知ってんねんぞ)

 「お出かけですかぁ?外、暑いんでぇ、気をつけてくださいね!」

 中川が笑顔で言うと、平原は姿勢の悪い痩せた背中を見せたまま、首だけ振り返って言った。

 「君みたいにバカだと、こう暑くても平気だろうがね」

 シュッとエレベーターのドアが閉まるのを最後まで笑顔で見送りながら、中川は心の中で嗤った。

 (てめぇは、古田紀子の乳も揉んだことねえくせに。けっ、ばーか!)

 

 「えーっと、今日はボールペン1ダース、A4コピー用紙500枚の束が5、社名入り封筒が200……」

 中川は総務課の一番手前にいる森真希の横に台車を置いて、納品の伝票を読み上げて行った。中川は、すばやく事務室内の人間の動きと表情をチェックする。森の奥にいる古田紀子は、今日もヘアスタイルを整えて、きれいに見えるように足を揃えて机から出している。

 (この女は、足が自慢なんだよな。雰囲気美人で)

 中川はそういうことを考えながら、納品書に牽引を押していく森を、少し上から見下ろす。森のきれいに編み込まれた明るめの髪と、丁寧に作り込まれた化粧顔を観察した。

 (この女は、噂話が好きな割にはガードが固い。臆病なんだよな。絶対にこういう女は、落ちない。旦那一筋タイプだが、人の不倫話は大好物って感じだよな)

 「はい、大丈夫です。中川さん、これお返ししますね」

 森の愛想のよい笑顔に、中川は元気に答える。

 「いつもおおきに!」

 「いつも元気ですね〜」

 森の向かいに座っている南原優花が、作った可愛らしい話し方と声で話しかけてくる。

 (この女も噂好きで……っと、山田は?)

 森と南原と会話をしていると、奥の古田の視線を感じるが、目を合わさなかった。いつも自分が中心でいたいと思っている女、特に中心にいられると思っている女には、軽い無視、それも他の女に愛想を振りまくのが一番効く、と中川は知っていた。それに面倒くささもあった。張り付いたような作り込んだ笑顔で、にっこり微笑んで、きれいな脚を見せつけるように近づいてくる紀子が、実際うっとうしいこともあった。取り澄ました声色で答える紀子に、後ろで響く印刷機の音やすすけた事務室の背景が、バカみたいにそぐわなくて、中川はときに辟易した。

 (山田はどこやねん……山田は)

 自分も紀子と変わらない張り付けた笑顔で、中川は山田を探した。夫が古田紀子と親しいという山田はどこだ。すでに中川は、山田を探し出さなければすまされないような焦りを感じていた。自分でもこの焦燥の理由がわからなかった。

 その時である。

 「あの……倉庫の……ですけど」

 消え入りそうな声が聞こえた。振り返ると、50代がらみの地味な女が中川から少し離れて立っていた。森に用事があるらしく、中川の横の森に視線をやっている。

 「ーーー山田、さん。なに」

 低い声で、質問形なのに語尾を上げず、森がその地味な女に訊いた。

 

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