第3話 ノリコ(2)
「ああっ!また!こんなに贅沢して!」
横から出て来た手が水道の栓を、せわしなく締める。ノリコは自分が朝の洗い物をしながら、ぼんやりしていたことに気づいた。
「また!こんなに!無駄遣いして!!僕にはあんなにも、支出管理を厳しく言うくせに!」
夫が真後ろでノリコを甲高い声で詰り続ける。毎日これの繰り返しであった。水道の水の出し方、食事、電気、ガス……と、夫はわずかな無駄も見逃さないで、ノリコを責め立てて来る。
「まったく!僕にはあんなにも明細を出せ、ってうるさいくせに、自分はこうやって無駄遣いばっかり」
夫はノリコの非を責め立てられるところがあれば、どのようなチャンスも見逃さなかった。「正しさ」で裁いてやろう、とノリコを見張っているのだ。
(それは、あなたに稼ぎがないから、私の給料だけで一家3人の生活をまかなっているから、生活を切り詰めざるを得ないんじゃないの……)
ノリコは、謝るまで責め立て続ける夫に胸のなかで返事をした。この言葉は数え切れないほど、夫に言い続けた。その度に夫は、ときに激しく謝罪し、反省し、「僕が死ねばいいんと思ってるんでしょ?!」と極論を吐き、頭を抱えて机に打ちつけたりする。そして、3回会社をクビになってからは職探しもしない。それでも「俺はT大卒だ、舐めるな」と言い回っては、軋轢を起こして来る。その尻拭いはすべてノリコがする羽目になる。そういう夫に、まともに何かを言うことをノリコは諦めた。
「ーーー働いてください」
ただ、それを静かに繰り返すだけだ。
「聞いてるのか!お前は!そうやって、ちょっと稼いでるからって男をバカにして」
しかし、ここ2週間は夫の執拗な小言も気にならなかった。ふわふわした気持ちで物思いにふけってしまい、ふと気づくと水が出しっ放しだったり、電気を消し忘れていた。
あの日、急に新札が必要になり、ノリコが銀行に両替に行かされた日以来だった。光溢れる外と、建物に一歩入った暗さとのコントラストが、あまりにも鮮やかな日だった。福原事務用品の中川は、入り口でノリコの名前を口にし、ノリコの体を支えたのだった。一瞬のことだったけれども、後から反芻すればするほど、まるであの日、自分が死んで生き返ったかのようにノリコには思えた。
そこで、中川は言ったのだ。
「今月末で退職するんですよー。ここではようしてもらったのに、名残り惜しいですわ、ほんま。山田さんと、こうやって外でお話しさしてもらうのって、初めてですよね」
3階建ての大きいとは言えない社屋の薄暗い玄関で、ノリコは背の高い男が伸びをしながら言うのに衝撃を受けた。中川を、動物園でゆったりと伸びをするチーターのようだな、と心のどこかで思いながら。
「……えっ……?」
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