第2話 中川(1)
ちょろい。
それが中川の感想だった。最初から最後まで、そうとしか思わなかった。
「ノリコさん」
下の名前を思わず口にしたように呼べば、相手が自分を意識しだすのは中学時代から知っていた技だった。まるでそのセリフを口にしなかったように二度と下の名前を呼ばないことが、相手の気持ちを駆り立てることも、中川は知っていた。何より自分の爽やかな笑顔と歯切れのよい明るさ、そして少しの陰影が、女たちの気持ちをくすぐることを熟知していた。それを使うことになんの躊躇もないことが自分の営業成績を伸ばしていることも知っていた。何よりの強みは、罪悪感など持たないことだった。
ノリコの働いている小さな印刷会社、坂田印刷で、中川が「転職するんだ」と声をかけたのはノリコを含めて4人だった。連絡先を教えてきたのはノリコだけだった。
「ちっ。あと二人は固いと思ったんやけどなぁ」
ノリコが連絡先を書いた紙をよこして来たのは、中川が福原事務用品会社に務める最後の日だった。中川は、ノリコが黙って発注書の間に挟んできたメモを見逃さなかった。いつも盗み見するように俺の顔を見てくる女が、石のように無表情で横を向いたまま発注書を渡してきたのだ。見逃すはずがなかった。石のような無表情は、緊張のあまり強張っているだけだとすぐに知れた。女と寝ることは仕事の一部だと思っている中川には、女は商売の道具だから、こまかなところまで見逃さないのだった。
この女、いけるわ。
中川がピン、と来たのは、坂田印刷にいつもの事務用品を納めに廊下を通っていたときに聞こえて来た会話がきっかけだった。
「ーーーあはは、ひどくない?それ」
「いや、古田さんの通常営業でしょ。山田のオットとか!あはははは!笑える!」
女子トイレのなかから声が聞こえて来たのだ。古田紀子と森真希、南原優花の声だな、と中川は見当をつけた。出入り先の社員の名前や人となりを覚えていて損はない。それが中川の営業の鉄則だった。
誰と誰が仲がいいのか。誰が仲が悪いのか。そういう情報を使って数字が取れるか。必要ならば後腐れのないように気をつけながら、個人的な関係に持ち込むことだって仕事だと思っていた。
(山田の夫……)
電話をかけている振りをしながら、女子トイレの声が聞こえる場所にとどまって、中川は記憶を探った。
(山田……あの地味な五〇代の女か。椅子から立ち上がってるのを見たことがねえ。あと笑ってるのも見たことがねえ……)
中川は電話の会話をメモするような仕草で、手帳に「山田、名前」と書きつけた。山田の下の名前は知らなかったのである。中川には珍しいことだった。山田、という女はまったくターゲットではなかったのだ。
「山田より、山田のオットと親しいからね?あたし」
古田が笑いながら冗談を言う。同僚の二人がどっと笑う声が聞こえる。
「山田のオットって、高学歴なんでしょ?」
「そ、そ。T大なんだよ。で、自分で商売やってるの」
「へー。山田もけっこういいとこ出てるんでしょ?」
「あー、山田、ガリ勉そうだもんね」
「山田のオットってスペックいいんだ?」
「古田、すげーな!山田のオット、古田にデレデレなんじゃん?」
「そんなことないのよお〜とっても紳士でえ」
「古田、肩が震えてるって。清純な演技はいいから。あはははは」
そこまで聞けば十分だった。中川は電話が終わった振りをして、事務物品を乗せた小さな台車をゆっくりと動かし始めた。廊下の向こうから制服の女性が来る。できるだけ爽やかな笑顔を見せる。颯爽と歩いているように長い脚をさばく。相手の顔を覚えていようがいまいが関係ない。まるでよく知っているように振る舞うだけだ。
「こんにちは〜!いつもお世話になっております」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます