第1話 ノリコ(1) ノリコと中川

 ノリコは、突然、数字を入力する手を止めた。中川の最後のはにかんだ笑顔が、胸を高鳴らせたからである。そっと周囲を見渡す。誰もノリコに注目していない。今だに女子社員にだけ制服のある小さな印刷会社で、似合わなくなったベビーピンクの大きなリボンを胸元につけている40代後半の一般社員に注意を払う人間などいない。

 「じゃあ!僕、今日が最後なんで!」

 整っているのにそれを鼻にかけていないで、誰にでも爽やかな笑顔で接していた事務用品を納めている福原事務用品の営業、中川が「退職する」と、ノリコにそっと打ち明けたのは、2週間前のことだった。まるで、ノリコが密かに中川に憧れていたことを神様が知っていて、ノリコにだけ耳打ちしてくれたかのようなタイミングだった。

 

 2週間前のその日は、暑い日だった。夏にさしかかろうという日。内勤のノリコが珍しく、銀行へ行かされて戻ってきたところだった。

 「あ……ノリコ、さん」

 社屋に入ろう、というところで名前を呼ばれた。ノリコは一瞬、自分のことだと気付かず、眩しい光の下でシルエットになっている背の高い男の前を通り過ぎた。自分の下の名前を呼ぶ声など、もう何十年も聞いたことがなかったからだ。自分の名前を思い出すのは、夫の借金の証書に名前を書くときだけ。それがノリコのここ10年の生活だった。

 「待って」

 シルエットが素早く動いて、ノリコの前に長い手が伸びてきた。驚いたノリコが足をもつれさせたところに、その手は伸びてきた。小柄なノリコの背中を抱きかかえるように、長い腕は止まった。

 「なっ……!」

 反射的に体を硬くして振り払おうとする前に、腕は離れた。ノリコの腕は虚しく空を切った。

 「すみません、急に名前……声をかけて。驚かれましたよねー」

 明るくてきれいな笑顔がそこにあった。

 「あ……中川、さん」

 「僕の名前、覚えてくれてはったんですか?山田さん、いっつもクールやから僕のことなんて覚えてはらへんかなって」

 自分を下げるような軽口を叩くのは、関西人の営業マンの典型かもしれなかった。それでもノリコは新鮮に感じた。こんな軽口を叩いてくる人間はノリコの人生にはなかった。冗談も軽口も親密な振る舞いも、ノリコの家庭にはなかった。生まれた家庭にも、結婚した後にも。

 「いや、そんな、えっとちょっとびっくりして、もちろんそんな名前は覚えてて、えっと」

 ノリコは自分でも顔が真っ赤になっているのがわかった。自覚しているからこそ、余計に赤くなっていくのを止められなかった。厳しい日差しが外から差し込んでいる入り口だから、かえって暗いことがノリコにとっては救いだった。こんなに真っ赤になっていることが見えてしまうなんて恥ずかしかった。


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