第26話 介護業界
件(くだん)のリーダー会議から2日。
叶谷は1回にある、この施設唯一の喫煙所の戸を開いた。
『あれれ?おはよー!』
先客は神田だった。
『辞めたんじゃなかったの?』
『へへへ、一ヶ月持ちましたよ。』
叶谷はメンソールの煙草に火を付けた。
『まあ主任ともなりゃ禁煙してる場合じゃないやね。あはははは!』
神田は声高に笑った。
事情通は多くを口にしない。
そこへ永田が入ってきた。
『おざっす…あれ?叶谷くん、また始めたの?』
『神田さんにも言われました、はははは。』
永田は普段は叶谷を二人称で呼ばない。
同期でありながら年下であり、且つ相手は役職と言うのがあってか「叶谷くん」はおろか「主任」とも呼ばない。
喫煙所ではその縛りから解放された様に、叶谷が主任になる以前の一同期だった頃の呼び名「叶谷くん」に戻る。
叶谷もそれに対して変にリアクションはしないし、むしろ、心地よくさえ感じていた。
日々年上の同僚達に主任主任と呼ばれることに少なからずむず痒さを感じていたからだ。
「前任が突発的に辞めたから」
そんな理由で主任をやらされていることへの負い目のようなものもあった。
現にそんな事を陰で囁く者もいた。
「あいつは大した修羅場もくぐっていない」
そう見下す自称ベテランもいる。
そんな輩と向かい合い「なら貴方が代わりますが?」と余程言ってやりたかった。
大した手当もない役職に就く者の辛さを口に出してぶつけたかった。
叶谷は元々ヘビースモーカーではなかった。
二十歳を過ぎて手を出した煙草は朝吸い、昼食後吸い、帰宅してお疲れ様の一服、就寝前の一服程度だった。
が、主任になり事務所に籠もらざるを得なくなった途端本数は跳ね上がった。
(元々日だまりでは一服程度の小休憩には寛容だった)
出勤してまず一服、休憩に入り一服、業務再開直前に一服、三時に一服、業務終了し一服、これが慣例になった。
「多くの人は出来ないからやらないのではなくやりたくないから『出来ない』と思い込むのである。〇〇と言う目的があって△△する、でも実は△△と言う真の目的のために〇〇と言う嘘の目的を作り上げている。」
たまたまコンビニで取ったナントカと言う心理学の本に書いてあった。
事務所の雰囲気が嫌いで煙草に逃げているのは叶谷も自覚していた。
事実煙草がそんなに美味しいと思ったことは無い。
それでも喫煙所は好きだった。
皆煙草を吸うためと言う単純で無垢な目的のためにここにいる。
この狭い密室では誰も争いたくはなく、当たり障りのない会話だけが、それでも自然と無理なく交わされる。
『こないだお疲れさんだったねー。』
神田が叶谷に言った。
『こないだ?』
『リーダー会議。』
『宮野もジョーさんも話したりなかったみたいだね。』
永田も会話に入った。
『あの二人はね、趣味でやるべきだよ。仕事じゃなくて。』
神田は2本目に火を付けた。話したりないのは神田も同じらしい。
『ジョーさんもああ言ってて、接遇に全振りしてるもんだから肝心の通常業務が回んない回んない。』
永田は呆れたように苦笑した。
『ジョーさん最近もヤバい?』
と、叶谷。
『植野なんか最悪だよー。だってこないだ松坂が夜勤の派遣さんが気に入らねえとかって言い出したらそれ1時間聞いてんだぜ!?』
神田の声量は周囲を憚らない。
『あの人はなにしたいんですかねえ?』
叶谷は笑いながら煙を吐いた。
『そりゃ叶谷くんの椅子狙ってんだよ。』
永田が冗談めかしていった。
『いや、あいつは普通にただの変態なんだよ。介護やるために生まれたんだよ。』
神田の言い分には棘があったが、これには叶谷も納得した。
『ああゆう人が居なくなったら介護業界も終わりっすね。』
叶谷もついに釣られて意地悪く笑った。
『いやむしろ1回終わるべきなんだよ。』
神田は真顔で言う。
『だってそーだろ?この業界のブラックさ。処遇改善だって、まぁ貰えんのは有難いけどやたら手続き煩雑だわ条件つけるわ、分配だってあやふやだわ、国は見捨ててるよ俺等を。利用者とか家族だって一人の介護士対利用者の数考えもしねーで注文つけてくるしよ。だから1回滅ぶべき。そしたら「私共が間違ってましたー」ってなるのさ。』
神田は力説した。
『国や利用者が?』
永田が反応する。
『うん。要は俺等が舐められてんのさ。安い金で雇われちまってるから。買い手市場だな。実際職にあぶれてる人間が多い。選り好み出来ない人間がさ。流れ着くとこに流れ着かざるを得ない奴らが、俺等。あ、ごめん全員て意味じゃないかんね?あは!』
神田は朝からやさぐれている。
最後は茶化してみせたが実際どうなのだろうかと叶谷は思った。
数年前、ひだまりの新年会、酒の席で本人から聞いた話では神田は若い頃、それはそれは相当のワルだったらしい。
それが二十歳そこそこにして子供を授かり、全うに働かざるを得なくなった。
当初は食品メーカーに勤めたらしい。
が、性根はそう簡単に変わるはずもなく職場で上司や先輩と揉める、遅刻や欠勤を繰り返すなど繰り返した矢先飲酒運転が原因の死亡事故を起こしたとの事だ。
運転免許なくしてこの田舎で仕事の口はなく、やむなく自宅から数分自転車を走らせ通勤できる介護施設に就職した。それもデイサービスた。
神田の性格上前職を辞めた理由も開けっぴろげに話したのだろうが、それでも容易く採用されたのだそうだ。
神田はそこで経験を積み介護福祉士の国家資格を得、その後比較的給料の良い特養へと歩を進めた。それがひだまりだ。
神田の話は子細に至るまで想像に易い成り行きだったが、この永田はどうなのだろうか。
彼なら一般企業で通用しないでもなさそうだが。
叶谷は未だ永田とは一定のビジネスライクな距離感を保っている。
そこは踏み込めずにいた。
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