第21話 魔が差す8

数日後、井原は日勤として鴛ユニットに出勤した。

この日の鴛ユニットの早番は舟木である。


『はよざす。早いすね。』

『でしょー。ははははは!』

現在8:36である。五分前行動を加味すると10分以上遅刻している。

舟木は利用者受けも良くスタッフからの信望も厚い。

その裏には、井原や所を筆頭とするダメ職員や一向に改善されない職務体制などに対する一種の諦観があった。


「ダメならダメで仕方ない。持ちうる駒と武器で戦っていきましょう。」


「上を見ず、問題起こさず、頑張らず」

と言うのが信条だ。


給料は小遣い程度にしか上がらないのだから

決して上を見ず(結果リーダーにはなってしまったが)、高齢者相手に問題を起こして割に合わない責任を負うことはせず、未だふらふらと定まらない政府の方針に翻弄される制度の中で決して無駄な頑張りをしない。

 一見この「頑張らず」の一言に眉をひそめる人間もいるが、介護士の頑張りが利用者の利益とイコールになることはあまりない。


例えば「頑張ってご飯を食べさせよう」と、満腹を訴える利用者に無理矢理全量摂取させたり「頑張ってリハビリやろう」と、90を超えた利用者に運動を強いたりする。


「静かにフェードアウトしていきたい」と言う利用者の潜在的な願望は押し込められていく。


舟木にとってはこれも含め「無駄な頑張り」でありばかばかしいこと外ならないのであった。


だから宮野の様にいきり立って不正を正そうとしたり義憤に燃えて他者とぶつかったりは決してしない。


舟木はある意味、悟りを開いた介護士の境地である。


『そう言えば田村さんどうなりました?』井原は尋ねた。

『うん、あの後俺が部屋をひっくり返すようにして探しまくってるフリしたんすよ。たっぷり1時間。その後たっぷりお話聞いて、そしたは「もういいわ」だって。』


『さっすが舟木リーダー!』

井原は本心から感心した。

問題を大きくするで無し、うやむやにするでもなく沈静化させたのだから。



井原に申し送りを済ませ、舟木はユニット業務から事務作業の為1階事務室に退散した。


『お疲れです。』

キャスター付の椅子を滑らせて叶谷が話しかけた。

『どもお疲れです。』

『井原さんはどうだった?』

『うん、反省云々と言うより関係ないくらいに思ってるねありゃ。』

舟木と叶谷は基本タメ口である。


『そっか。もうあの人は「赤信号」だね。』

叶谷が言った。

『随分長い黄色だったね。んふふふふ。』

言いながら舟木の鼻から含み笑いが漏れた。


『田村さんも大概クリアなんだけどなー。まだらボケてんだよね。』

舟木が言う。

『そうね。そこが厄介。それで命拾いしかけたんだけどね井原さんは。』


ことの顛末はこうであった。

田村が金を盗まれたと井原と松田に話した日、実はその日に金が無くなったのではなかった。

実は舟木は大場に後日即確認していた。

大場は確かにシーツ交換に入ったがその際財布は田村に預けていた。

それは隣のユニットにいた神田が立ち会って見ている。

田村はその場面のみすっぽりと記憶が飛んでいた。


ではいつ金は無くなっていたのか?


それはそのシーツ交換の前日の入浴の時と言うのが有力であると結論づけられた。


入浴の際利用者を浴室まで誘導していたのは井原だった。

当時一緒に入浴に携わった職員の話では、井原は田村を浴室まで誘導したのち「田村さんの靴下を持ってくるの忘れた」と田村の居室へ一人向かった。

戻ってくるのが異様に遅かったのを覚えていると言うことである。

「更に言えば、靴下は忘れていなかった」とも言っていた。

その日田村達が入浴中雲雀ユニットを任されていた職員の話では「確かに井原さんは靴下を取りに来ただけにしては長く部屋に入っていた。そして靴下を持って、何故か一度1階に下りた。」とのことだ。


恐らく井原はその時に靴下を取りに行くと言って金を抜き取り、小銭をポケットにいれてジャラジャラさせておくわけにもいかず一度ロッカールームへ行ったのだ。


『でもその時のことが頭にあってあんな見事に演技してられるのはすげーよな。』舟木は感心した。


『田村さんの口から大場さんの名前が出てラッキーと思ったんじゃないかな?』

『だろーね。んふふふふふ』

二人は笑った。


『でも一応これで×10だから井原さんはサヨナラかな。』

叶谷は言った。

この×10と言うのはその人間がやったとおおよそ断言できる不正や犯罪行為、ないし苦情などの件数をさしている。


ちなみに所は本人の認める物だけでも×が7つ付いている。


『来週次長来て面談だって。俺立ち会いたくないよー。』

叶谷は項垂れた。

『もめるのかなー。パートのおばちゃんはしたたかだからね。』



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