第20話 魔が差す7

その日以来、松田と井原は何度か逢瀬を重ねた。

主に身体を重ねるだけの数時間だったが、二人のほんのささやかな楽しみだった。


そんなある日、二人が夜勤でペアになった。


18:47 夕飯の食事介助も片づき、あと1時間余りで遅番スタッフが退勤し3階フロアは二人きりになる。

2階は植野が一人で受け持つので滅多な事が無い限り上には上がってこないであろう。


20:00遅番スタッフの所が退勤した。


『井原さーん。』

松田の声がした。

『どしたの?』

『ちょっと田村さんち来て欲しいです。』 


田村えみは雲雀ユニットの91歳の女性だ。この月初め、転倒し右腕を折っている。

認知症は軽度だが「他人様に迷惑をかけてはいけない」と気丈な性格の持ち主で、その為か、骨折してからは排泄の際はスタッフを呼んでくれと頼んでいるのにも関わらず自力でトイレに行ってしまうので危なっかしくて仕方が無い。


そもそもそう言った利用者が転倒してしまうのは不可抗力の様なものなのだが「その時にスタッフは何をやっていたんだ」と家族から誹りを受けた場合何も言い返せない。

 厳密には二人のスタッフが毎分毎秒見張っているのは不可能なので空白の時間は出来て然りなのだが。


『んん?どした?』

二人で田村の居室に入った。田村はベッドサイドに腰掛けていた。


『あのねぇ、アタシここ辞めようと思うんだけども。』

田村の言葉を受け井原は心の中で舌打ちした。一番面倒くさいパターンだ。


『どうしたんですか?』

井原は訊ねる。

『金盗まれたとか言ってます。』

松田が耳打ちした。

『え?』

井原は耳を疑った。自分の他に盗人がいるのか?

確かに田村は認知症はあるが、物取られ妄想は無い。初めてのパターンだ。


『あのねえ、これ見て。ここに小銭幾らか入れてたの。金額ははっきりしないんだけんども、そっくり空っぽなの。』


田村は財布を見せた。

本当だ、空っぽだった。


『使っちゃったってことは?』

松田が訊ねる。

『だとしても丁度全部なくなることは、無いと思うの。』

その通りだ。田村はボケてはいても頭はいい。

『今日誰が雲雀入ってたっけ?』

『朝はわかんないすけど、遅番は山内さんですね。』

山内とは40代の派遣社員だ。

ヒョロリとした体格にのび太君を思わせる髪型と眼鏡。

とても盗みを働く人間には見えない。


『あの人は一回もうちの部屋にはきてないのよお。』

田村はいった。

『今日部屋を空けました?』

井原が訊く。

『いんや、食事以外はずーっとこの部屋にいたのよお。でも昨日はシーツ交換だったからねえ。』

『誰が入りました?』


『大場さん。』


際どい人物の名前が出た。

井原は心底面倒になった。

これが他の認知症利用者なら勘違いで押し通すのだが。

 

大場も「その手」の噂のある人物だった。


井原としては人のことを言えないが、大場も一部の利用者に物をあげた貰ったの現場は何度も目撃されているし、時にはクリアな利用者との金の貸し借りの噂もある。


『ちょっと、これは一度上に相談させてもらっていいですか?因みに幾らくらい入ってましたかねえ?』


『千円も無かったと思うよお。』

少額なのがまだ救いだ。こないだの六千円とは雲泥の差ではないか。



とりあえず田村とは、翌日叶谷と相談すると言うことで話をつけ退室した。


『大場さんやるかなぁ?』

松田が呟いた。

『どうだろうねー?』

『これが所くんとかなら楽なんすけどね!』

『確かに!あはははは』

『さて…』

『さて?』

これが合図だった。

その後二人は空き部屋に消えた。


翌日


『申し送りお願いします』

早番の舟木が言った。

舟木は鴛ユニットのリーダーである。


『はい。昨日はー』

井原は淡々と申し送りを済ませた。

『あともう一つ、これはオフレコで。』

『オフレコ?』

舟木は怪訝な顔をした。


『雲雀の田村さんがお金盗まれたとか言ってます。』

『あらま。いくら?』

舟木はあくまで冷静である。


『千円も無かったらしいですが。』

『昨日って田村さんお風呂じゃないすよね?』

『はい、でもシーツ交換だったらしくて。』

『ちなみに誰がやったの?』

『大場さんらしいです。』


井原の言葉に一瞬舟木の表情が濁る。

ベテランの名が出て面倒くさいのはリーダーとて同じである。


『とりあえず俺に預けてもらえます?午後フリーだし。』

『うん、お願いします。』


丸投げするのは井原の特技である。


9:00

井原と松田は早々に退勤した。




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