第15話 魔が差す2

13:28 そろそろ入浴介助の時間が始まる頃合だ。

入浴介助は利用者の身体を洗う中介助、着脱を手伝い、処置などを兼務する外介助、誘導や内外のフォローを行うリーダーの三名で行う。

水、土、日は入浴が無いため残りの4日で全員を週2回入浴させなければならない。


3階は3ユニット満床(30床)のため、一日に15人入れなくてはならない。

また、浴室開放時間も16時までのため都合2時間半で15名を入れる計算だが、内訳すると一人頭最高でも10分しか割けない事が分かる。

そこに加え片付けや清掃があるのだから「10分ならなんとかなる」と高を括るわけにはいかない。


神田曰く

「定時に帰りたいならサッと洗ってサッと湯通し」

まるで野菜である。


『今日の入浴リーダーは誰?』

井原が松田と言う入職1年目の介護士に訊ねた。松田は元サラリーマンの32歳である。

『神田さんすね。』

『ふーん。じゃフォローいらないね?』


フォローとは入浴担当外のスタッフが着脱などを手伝うことである。

その間ユニットがお留守になるため御法度とされている。


『余裕じゃないすかね?スミさんもなんか怪我で入浴見送りらしいし。』

『でしょうね。ねえ、あれやっぱり所くんだと思う?』

『そりゃそうでしょお。遅番でしたからね。あいつも懲りないっすよ。』

松田は笑っていた。

『でも宮野さんが騒がないのが珍しいすね。』

正義漢宮野が夜勤であったのにも関わらず、不審な怪我を見つけて騒がないのはおかしい。

『あの子もそろそろなんじゃない?どっかで相談員のクチでも見つけたかな?』

『かもしんないですね。』

『松っつんもぼちぼちかな?』

井原は松田の尻を叩いた。

『そうですね。独立してデイでも経営しちゃおかな?はははっ。』

二人の笑い声が響く。


『おいーす。ミヨさん連れてくよ。』

神田が大瑠璃ユニットの利用者を迎えに来た。

『ミヨさん行ってらっしゃーい。』

井原は送り出す。

『んじゃ僕はそろそろ戻ります。』

松田は白鷺ユニットへ戻っていった。


ひとたび入浴介助が始まれば、ユニット担当者は『見守り』とは名ばかりの駐在と化す。

 もっと単純に言えば「やることがない」のだ。

夜勤明け、早番、日勤が居り頭数がある午前中に業務を詰め込み、入浴介助の関係で現場のスタッフが手薄になる午後は記録物の記入や見守りと言った緩い業務しか残されない様になっている。


ふいに井原のポケットでPHSが鳴った。

『井原さん。松坂さんに面会ですけど、もう風呂?』

主任の叶谷だ。

『いえ、まだですよ。』

『じゃあお通ししますね。』

通話が切れた。


松坂に面会。

小金持ちの松坂に。


松坂家の嫁は還暦を過ぎた専業主婦だ。

週に一度はこうして面会にやってくる。

『うちのお嫁さんは親思いなの。』

と松坂は嘯くが、誰もが松坂家の嫁は「金の力と息子の力で縛られている」事を承知している。

 大方資産家のとみ子の亡き夫に家や車をあてがわれているのだろう。

もしくは「母さんの面倒をこまめに見ろ」とあの馬鹿息子から言われているのかもしれない。


『お世話になっております。』

松坂の嫁がユニットまで来た。

『どうもお世話様ですぅ。』

『うちのお義母さんまたワガママ言ってないですか?』

松坂の嫁は伏し目がちに苦笑して言う。

『最近はそうでもないですよ。新人さんにも慣れてきて。』

二人はしばし談笑し嫁は松坂の居室に消えた。

15分ほどで嫁はそそくさと退室した。

『それじゃ、お願いします。』

嫁は足早にエレベーターに乗り込んだ。


来るスピードと去るスピードが倍ほど違うのは利用者の家族ではよくある光景だ。

親を施設に預けて後ろめたい思いを抱えてそうなる者もいれば、単純に「やっと厄介払い出来たのになんでちょいちょい会いに来なきゃなんないの」と言う感情が見え隠れしている者もいる。

松坂の嫁は後者である。


ちなみに面会で30分ほど拘束されている場合は大概お菓子類など届けに来た時で、嫁としては届けて終わりたい所を「一緒に食べていけ」と無理矢理足止めされる。


また15分ほどで開放される時は月に一度の「小遣い」を置いていく日である。

松坂はその小遣いでやれ飲み物やら、懇意のスタッフ(大体井原だが)に外から食べ物を買って来させる。

 その額も数千円あれば事足りそうなものだが決まって二万円なのだそうだ。


『松坂さん今いけるかな!?』

入浴介助で息を切らした神田が訊ねた。

『あ、ちょうどいいよ。今ご家族帰ったから。』

『おー、よかった。』

神田は松坂の居室に消え、すぐに松坂を連れて出てきた。

『鍵しめといてね、井原さん。』

松坂は言う。

『はーい、お風呂行ってらっしゃい、とみこさん。』

井原は送り出した。


松坂を連れた神田の背中が見えなくなったのを確認し、井原は松坂の居室に入った。

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