刑事事件

第14話 魔が差す

7:00

業務の大半が夜勤から早番へバトンタッチする時間である。

井原香苗は6:57にタイムカードを押し、本日の配属である大瑠璃ユニットへは7:05に出向いた。


『井原さん、何回か言ってるけど申し送りとかもあるから最低五分前には来てくださいね?』

宮野がチクりと刺した。

リーダーだかなんだか知らないが自分より二回りも下の人間に偉そうな口を叩かれる筋合いはない、井原は頭の中で宮野に毒づいた。


井原は今年で56になるパート介護士だ。

経験年数は15年と大ベテランの域だが、これまでに5カ所の介護の職場を転々としていた。


根気のあるなしよりも対人関係に問題があった。

井原は己のスキルに過剰な自信があった。

それは経験値に基づくものと言うより、新米の頃からだった。


介護の仕事は激務と言われる内容だが、その内容さえ叩き込みさえすれば、余程覚えの悪い者でなければ2カ月程で独り立ち出来る。


故に、良くも悪くもすぐに「慣れる」スタッフが多く「自分は出来る」と勘違いしやすい。

ちなみに「慣れる」と「スレる」はこの場合同義だ。


井原も仕事の覚えとスピードには定評があった。

一部社員などからは「早いけど雑」や「あの人の介護は家族に見せられない」などと批判されることこそあれ、逆に「余裕があっていい」と評する者もいた。


長所しか受け容れることの出来ない器量の持ち主である井原は常に居丈高であり利用者の間でも悪評が耐えなかったが一部の利用者には好かれた。

「井原さんが来てくれると楽しい。」

そう言う利用者が何人かいた。


井原は申し送りを済ませ、さっさと大瑠璃ユニット9号室へ向かった。

その背中を見つめ宮野は呟いた。

『こりねえなあの人も。』

大瑠璃ユニット9号室の戸を叩く井原のポケットはパンパンに膨らんでいた。


『おはよー!』

井原は快活な声で言った。

『あら井原さんおはよう。』

9号室の主、松坂とみ子。

オストメイトであり、リウマチを患う利用者であるが認知面は極めてクリア。

 食事やスタッフの好き嫌いをもろに口に出し、すぐに上の人間に苦情を上げることから敬遠されがちな利用者である。


『今日は井原さんがここの受け持ちかい?』

『そうよー。よろしくね。』

と言って井原はポケットから饅頭一つとパイやクッキーなどのお菓子を取り出し、手渡した。


『いつも悪いねぇ。』

松坂は笑う。

『ここのご飯だけじゃとみ子さんにゃ物足んないでしょう?』

井原はおべっかを使うように言う。


『そら、休憩の時これでなんか飲みなね。』

松坂は井原に100円玉を手渡した。


松坂にとってこれは習慣である。

気に入るスタッフには心付けを渡し飼い慣らしているつもりだ。

中でも一番のお気に入りは言わずもがなこの井原はである。


『あら申し訳ないですー。』

井原は言いつつも躊躇なく受け取る。

『金抱えて死んでもつまんないからねぇ。伊原さんみたいなひとに全部やっちゃうの。』

松坂は冗談めかして言う。



松坂の亡くなった旦那は相当な資産家だった。 


元々豪農で鳴らしていた地元の有名人だったが、松坂の旦那の土地(元は田圃だが)に巨大ショッピングモールが立つと言う話が出た。


 「売って大金得ても、子に遺す段になりゃ税金でふんだくられるから賃料で毎月貰ってる。」とのことで、おかげで旦那亡き今も松坂始めその子世代も左団扇とまでは行かないが、息子はいつも松坂の面会にはレクサスのLSを乗り付け、いつもゴルフ焼けした肌で訪れる。


松坂の威光もあってか息子夫婦は松坂の面会時には松坂の言いなりになり、やれ寿司屋に行くから福祉車両を貸せと言い出したり、もしくはユニットが臭いから芳香剤を四隅に置けと命令したり、特定のスタッフの名を挙げ「母が〇〇に乱暴に扱われたと言っている。そいつを呼び出せ。」と事務所に怒鳴り込む事もしばしばあった。


しかし井原はそんな松坂を敬遠せず、むしろ積極的に関わっている。

「あの人はあたしじゃないとダメってうるさいのよ。」

と嘯いているが、実際は「難しい利用者に重宝されている自分」を演じていたいだけなのを他のスタッフも分かっていた。


『今日はとみ子さん、お風呂だからね。』

『井原さんが入れてくれるの?』

『いや、あたしは今日はお風呂担当じゃないの。ごめんねぇ。』

そんな会話をいくつか交わし井原は退室した。


既に20分を松坂との雑談に費やしてしまった井原は足早に他の利用者を起床介助をして回る。

『ほらっ!起きるよ!』

乱暴に起こし、乱暴にパジャマから普段着に更衣させる。


『あら、スミちゃん可哀想にねぇ。』

井原は太田スミの整容をしつつ頭を撫でた。

申し送りでは「まあ、体動があって、色々怪我はあるけど内々に。主任とナースには言っとくから。」と言われた。

誰の目にも異常な怪我だがリーダーがそう言い切るならパートがとやかく言う権利はない。

大方所あたりがやったのだろう。と納得した。


が、こうしたなあなあが「あいつもこいつも不正に荷担してる。自分だけじゃない。」と言う意識を生み、現場全体のコンプライアンス意識が低下するという悪循環が生まれていた。


ちなみにひだまりでは午前中業務に整容を含む起床介助、朝食の介助、その後口腔ケア、排泄介助、ユニットや各居室のモップがけ及びトイレと洗面掃除、介護記録の記入、10時になれば水分補給介助、その後レクリエーションと分刻みに仕事が詰まっており、松坂1人に数十分費やす井原がまともにこれらをこなせるはずもない。


なので

「スミちゃん以外は尿量少ないし午前中の排泄はやんなくていっか。今日お風呂だしね~。整容もどうせお風呂なら無し無し。」

となし崩しに業務を省いていき、なんとか形として仕事を終えている様に見せかけるしかない。


ベテランほどこう言った「抜き方」に精通している。


『スミちゃんいますかー?』

と、ベテランナース黒瀬。

年は二つ程、井原よりも上だが二人は何かと気が合った。ちなみにひだまりでは黒瀬以外に常勤ナースはいなく、あとは派遣で賄っている。

『あ、黒瀬さんおはよ!』

『井原さんおはよー!スミちゃんまたゴチンしちゃったって?』

『みたいなの。みてみて。』

二人で、蚤をとる猿とようにスミの頭を覗き込んだ。

『あーらら。今日はお風呂やめとくか。』

と、黒瀬。

『ラッキー!』

井原は笑った。



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