別れと約束 第二節
百合二輪 別れと約束 第二節
「先生、こうして何もしないデートも良いです」
私と
「だって、今日は
先生は私の心音を楽しむかの様に胸に耳を当てる。
私達を乗せた葛西臨海公園の観覧車は高みに上る。晴れ渡った空のもと、東京湾の浦賀水道の手前まで見渡せる。
「美智子、やっぱキスは欲しい」
おねだりさんの先生のために口付けを交わす。身長差がある故に、私は両手で先生の顔を包み込むと見上げる先生の顔に、唇を降ろす。
正対した口付けの後、私は顔を少し傾けると今度は先生の唇を奪った。乱暴に舌を割り込ませると、先生の舌を引きずりだす。
「んん」
痺れる様な快感に身を委ねる。
このまま先生を襲ってしまいたい。私の自制心が悲鳴を上げる。今は我慢しよう。機会はいくらでもある。そう今日この後にでも。
舌と舌が別れを告げ、長い接吻が終わる。
酸欠気味の脳に酸素が送り込まれる。
いつもの様にトロリと溶けた先生の目は、まだ物足りないと言っている。
両の腕で先生の体を支えると、観覧車の座席に先生を押し倒す。
観覧車が前後に揺れた。
先生の耳に舌を沿わし、顎の線をたどって口へと至る。
「先生、キスして欲しいですか」
先生の口のすぐ上で、囁く。
「欲しい」
先生がその飢えを言葉にする。
私は、先生の手首を、手のひらで押さえ込むと先生の口のすぐ先で意地悪をする。
「先生、私の唇はここにあります」
先生は渇望する様に体を持ち上げる。手を押さえられているのでそれは
先生はもがきながら舌先を伸ばし、ようやく触れあう。私は頭を落とす。
入ってきた先生の舌が、私の口の中をかき回す。私の舌の根元を探っているのだ。
先生が苦しそうな声を上げる。
先生の舌を押し返す様に、舌を絡める。不意に胸の中の息を吸われた。先生は息が苦しくなったのだ。私は肺の全ての空気を先生に譲り渡すと息継ぎをする。
胸の動悸が止まらない。体が熱く火照り、全身に汗をかいている。
それでも先生の要求は止まらない。
私と先生の舌は絡み合い、互いの口に攻め込もうと切っ先を交わらす。
戦いは私の勝ちで終わり、先生の口に舌を差し入れる。
先生の舌は疲れ切り、私は先生の舌を弄ぶ。
もう先生の目は焦点が定まらない。唇を離す。糸引く唾液を吸って飲み込む。
「先生、そろそろ下です」
手を差し伸べると、先生は体を起こす。
観覧車でのデートが終わると私は時間差で清澄白河の先生の家に行く。
高校生である以上、夜の逢瀬という訳にはいかない。
私は目立つので、長くウェーブかかった髪をまとめ大きめのニット帽に収める。
先生のマンションに着くと、部屋番を指定して呼び出しボタンを押す。
「先生、ご在宅ですか」
「先生はやめて」
確かに先生は不味かったかもしれない。
「お昼ご飯作ったよ。待ってるから」
エレベーターで上がってドアの中に入ると、すぐに先生を腕に抱いてキスをした。
「美智子気が早い」
「まずはご飯にしましょう」
*
休日の終わった月曜日、私はどこかだるい体をひきずって登校した。
春休みなのでもちろん登校する必要は無いのだが、苗代先生が出勤しているので来るのだ。もちろん勉強するためでもある。
「先生」
軽くキスをする。先生の自宅での逢瀬が可能なので、学校での危険な深い口付けは止めた。それでも危険な事には変わりないのだが。
「さて
「勉強はいいのか」
「何故か今日は体が重いです」
「ん、まあ」
先生は目を逸らす。時間は限られていたので、制約の中で精一杯完走した。
「もし、これがカモミールだとすると、この娘が
私は金子さんから借りた、陸上部の集合写真から白い菊の花束を持った部員を割り出す。
「一応は確かめるのね」
「はい、先生お願いします」
苗代先生は蒸留器を組み立てる。
「精油だから水蒸気蒸留だな」
ジップロックから半分ドライフラワーになった菊の切り花を取り出す
先生は菊の切り花を二つ口フラスコに入れると、別のフラスコに水を入れバーナーの上に固定する。
「あんまりやらないだろう。ボーラーと言ってゴム栓にガラス管を通す穴を開ける器具だ」
「先生、これ結構固いです」
一方の端がギザギザになった円筒で、ゴム栓に穴を開ける。
「次はガラス管を曲げるんだ」
苗代先生は、ブンゼンバーナーの火力を強くすると、先の方の透明な炎の中にガラス管の途中をかざす。炎が黄色くなる。
「これはちょっと危険だし、慣れも必要なので私がやる」
先生は次々と必要なガラス管を作る。大学の専攻一年目がだいたいやらされるらしい。
「さて冷却器を組み立てよう」
二つ口フラスコにト字管とリービッヒ冷却器を接続する。
それらをポールに固定する。
「このゴム管を水道に繋いでくれ」
私は水道の蛇口のアタッチメントにゴム管を繋ぐ。
リービーヒ冷却器の中を水が循環するようにするのだ。
下向きのリービッヒ冷却器の先にビーカーを置く。
「サンプルが少ないので、失敗するかもしれない。そしたらクロマトグラフィーでやろう」
苗代先生は蒸留器全体の構成を確認する。
「まずは水ですね」
私は、水道の蛇口を開ける。リービッヒ冷却器は二連なので二つの蛇口だ。
「そこらへんでストップかな」
水圧が強すぎるとゴム管が外れてずぶ濡れになる。一年の化学の授業で経験した。水道はそのまま捨てるのでもったいないが、アスピレーターというもっと無駄遣いな物もある。
蒸気発生用のフラスコをブンゼンバーナーで熱する。
「アズレンが出てくれるといいです」
アズレンは、カモミールの精油成分だ。この蒸留器だとアズレンの単離まではいかず、いろいろな誘導体の混合物として抽出される。珍しい青い精油だ。
「最初の留分は捨ててしまおう」
先生はビーカーに少し溜まった水をシンクに捨てる。
「先生、カモミールの匂いがしてきました」
ビーカーの半分程度になるまで、蒸留を続ける。ほとんどは冷却された水である。
「傾けてみましょうか、あ、青いです」
ビーカーの上に薄い油の膜がはり、傾けると青い色を呈している。
「良かったぁ、クロマトグラフィーは消耗品代がかかるんだよなぁ」
「これで、確かめられました。佐田先輩が貰った花はカモミールです」
陸上部部室に金子さんを訪ねる。
「金子さん、いらっしゃいますか」
「
「私は受験組です」
「そうだったな、
「
「なんというか、人を寄せ付けない雰囲気があって」
日葵は孤高だ。あえて友達を作らなかった私と違って、根本的に友達を必要としない。日葵が私を友達に選んだ理由は結局の所良く分からない。同様に孤独をよしとする私が都合が良かったのかもしれない。
「お、金子来たぞ」
金子さんが勢いよくこちらに走ってきた。
「はあ、ちょっと息を整えさせてくださいね」
「金子ジャージ」
朝霞さんが金子さんにジャージの上着を投げて寄越した。
「先輩、ありがとうございます」
ある程度息を整えるとジャージを羽織る。梅の花が咲いてきたとは言えまだ寒い。
「練習中にお邪魔してすいません」
「いえ、春日先輩かまいませんよ」
「毎日練習があるのですか」
「適度に休みます。筋肉が回復しないので。それで依頼の事分かりました?」
「はっきりとは分かりませんでした。ただ佐田先輩に花束を贈って、受け取って貰えた娘がいます。心あたりはありませんか」
私の探りに、金子さんは動揺した。彼女なりに察してはいるわけだ。
借りた写真を取り出して金子さんに見せる。
「その娘はカモミールを佐田先輩に贈りました」
「ともちゃん、あの場にいたのに」
金子さんはしばらく下を向くと、いきなり全力疾走で走って行った。
「若いっていいよね」
朝霞さんが茶化す。
「ともちゃんとは誰でしょう?」
「木下、気が付いてた。分かってないのは金子だけだよ」
朝霞さんが指を指す。金子さんと誰かが話していた。
金子さんはとぼとぼと泣き顔で帰ってきた。
「リボンは返さなくっていいって」
木下さんはそれよりも、もっと大事なものを持っているからだ。カモーミールの花言葉は『逆境に際立つ力』その前途は決して楽なものでは無さそうだ。
「ともちゃんは友達だから、応援して上げたいけど、けど」
この娘は嫉妬を覚えたのだ。そうやって大人の階段を上る。
大泣きする金子さんを、朝霞さんと一緒に
*
後日、金子さんが切り花の束と、剣山を持って化学準備室に現れた。
「春日先輩、この間はありがとうございました」
「気は済みました?」
私は笑顔でインスタントコーヒーを出して聞く。
「いや、ともちゃんと大げんかしちゃって、気まずいです」
それもまた、彼女なりの結論なのだろう。
「今日は報酬を持ってきました、何か花を生けるのに良い器はありますか」
基本的に化学準備室は女子力が低い。花瓶や盆みたいな物は無い。
「デシケーターはどうでしょう」
物を乾燥させたり、真空引きして脱泡したりするのに使う容器だ
「これは画期的な花瓶ですね」
金子さんは笑った。普段中々見ない独特の形状をしている。
「じゃあ生けます」
「金子さんは生け花をするのですか」
「母に教わって……まだ何の資格も持っていないのですが」
金子さんは水切りをすると、次々と剣山に刺していく。
デシケーターの独特の形を生かした広がりのある生け花となった。
前景の梅を引き立てる、背景の葉と枝が二つの曲線を描き金子さんの技術の高さを示した。
「凄いですね」
「へへぇ、これで満足して頂けます」
「はい、ありがとうございます。苗代先生も喜びます」
続く
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