別れと約束 第一節
百合二輪 別れと約束 第一節
「ヘッドホンだと肩が凝る」
Audibleというオンライン商品を最近はリスニングの教材にしている。面白いが長いので、あまり長い間やり過ぎると疲れてしまう。
小休止に、インスタントコーヒーを入れる。
一人だとどうにも勉強に身が入らない。模試の結果は悪くないので、一月ぐらい少し気を抜いても良いのかもしれないが。
「先生、一緒に勉強しませんか」
壁向こうの
「
先生は、初デート以来少しだけ名前で呼んでくれるようになった。
ただ
日葵は、春休みを利用して
皐月さんの家に泊まるそうだ。
黙認とはそういう事なのだろうが、行き着く所までいったレズビアンのカップルが、黙認だけで相手の家の一つ屋根の下に泊まるというのもシュールな話しだ。何かをやらかさないか心配だ。
私はこの春休みを化学準備室で過ごす。大好きな苗代先生の側に居たいからだ。苗代先生はどんどん可愛くなってしまい、私は食べてしまいたいのだが、そこだけはぐっと我慢している。教諭と在校生のカップルは珍しくもないはずだが、成人までぐっと我慢しないと制裁の対象になってしう。
私は理系クラスに進んだ。日葵は文系だ。進路は別れたが目指す大学は一緒になった。だからこそ一人の化学準備室は気が抜けてしまった感じだ。
「先生そちらに行きます。ミルク貸していただけますか?」
私は化学準備室から先生の居る化学教諭室に行く。私と日葵は度々ミルクを借りているが、返した事は無い。その代わり、日葵が紅茶を入れ私は紅茶の茶葉を提供している。
「いいよ、襲わないでね」
寂しくて襲われたいのだ。苗代先生は屈折している。ほらキス欲しそうな顔をしている。性行為に対する抑圧的な環境が先生の気持ちを
「先生、お待たせしました」
「違う、そういう訳じゃ……ん」
私は真横から先生に軽くキスをする。
「美智子、学校ではしないって……誰か来るって」
「誰も来ません」
腰を曲げ、苗代先生の唇のまわりを舐め取ると、そのまま口の中に舌を入れる。そして少し先生の肺から空気を拝借する。
「はぁあ」
先生の目が、とろりと溶け出す。
「み、美智子」
「先生の全てを奪いたいです」
「うん」
もう一度先生の唇を深く覆う。出来るのは接吻までだ。悔しくて仕方が無い。
その時、化学教諭室の扉が叩かれる音がした。
私はびっくりして、直立した。胸が高鳴る。聞かれただろうか。
「探偵クラブはこちらですか?」
誰か依頼者が化学教諭室の扉を叩いている。
声の若さからして、生徒だ。
苗代先生も、乱れたブラウスの襟を急いで直す。
「こ、ここは化学教諭室です。探偵クラブは隣です」
先生が上手いフォローをしてくれた。
「口紅ついている」
私が化学準備室に戻ろうとすると苗代先生がティッシュを差し出した。
依頼者である一年生の生徒を化学準備室に迎え入れる頃には、だいぶ動悸が収まった。
でもインスタントコーヒーは作り笑いで入れる事になった。
もう学校でのディープキスはやめよう。今まで誰も来なかった化学教諭室と言えども人は尋ねてくる可能性があるのだ。先生の鬱屈はひどくなるだろうけど、その分はどこかで埋め合わせなければ。もう頑張らずに体を重ねても良いかもしれない。
依頼者は
「返さなければならないのです。先輩に」
「それは一体何でしょうか」
私は金子さんに正対しながら依頼内容を聞く。
「リボンです」
先輩とは今年度の卒業者だ。卒業式の時、卒業者が後輩に制服のリボンを贈る習慣がある。
それは度々、後輩達の淡い恋心の発露となる。多くはその場限りで終わってしまうものなのだけれども。
「何故でしょう。貴女の先輩は納得の元、リボンを渡したのです」
「私が受け取るべきではなかったのです。先輩には恋人がいたのです」
この娘も屈折している。先輩に恋人がいたからといって、リボンを返す理由はどこにも無い。それでも選ばれなかった彼女の歪んだ恋心は、先輩と知りもしない恋人の恋路を整える事で満たされるのだ。
「先輩の恋人が誰かは分からないのですよね」
「はい」
「金子さん、陸上部に行きましょう。先輩は陸上部ですよね。そして先輩の連絡先は分からないと」
「そ、そうです」
この手の事はだいたいお決まりだ。
陸上部の部室は、グラウンド端の平屋の建物だ。一階にある化学準備室から二号館への連絡通路を抜けてそのままグラウンドに出てしまうのが一番早い。
「先輩の名前を教えていただけますか」
「佐田先輩。
フルネームが言える程度には恋をしていたらしい。そこまでいかない淡い思いも
「何故、先輩に恋人がいる事が分かったのですか」
「リボンの事を話したら、同級生の友達が告白をして、お付き合いしている恋人がいるからといって断られたって」
どうやら佐田先輩とその恋人は本気の恋をしているようだ。
「恋人とは女性なのですか」
きちんと確認しなくては。他校の男性ならリボンを返す理由にはならない。
「そうらしいです」
「春日先輩と、楓若葉先輩は恋人同士なのですか?」
金子さんの質問に目が点になった。まわりからはそう見られているのだろうか。いつも二人でいればその様な噂も立つか。
「そうですね、私も日葵も別々に恋人がいますよ」
羨望の目で見られてしまった。しかしどちらの恋路も高みを目指すが故に、茨が敷き詰められている。
そうしているうちに、陸上部の部室に着いた。
「おい、金子今日練習は、わっ」
本人の目の前で「わっ」とは失礼な。同じクラスの
「探偵クラブの春日と申します。少しお時間頂いてよろしいでしょうか」
「は、はい、佐田先輩の事? 名簿は無理ですよ。OB会の案内にしか使えません」
どうやら金子さんは、一度頼み込んで断られている様だ。
「先輩は三年まで現役だったのですか」
「ああ、佐田先輩は推薦組だから」
大学の推薦枠ではない、この学園には大学がある。二年の二月に進路を決める際に、推薦入学を望む場合そう書いて提出するだけである。生徒の殆どが大学受験を目指すので、推薦入学は素行や出欠に問題が無い限りまず通る。朝霞さんが二年生の三月に練習しているのも、やはり推薦組だからだ。
「先輩のロッカーはまだありますか」
「あるよ、家捜しとは良い趣味とは思えないけど、ほら」
部室内に案内される、換気用のファンがあるが汗臭い。日葵は前の学校では陸上部だったが、やはり汗臭い部室だったのだろうか。
「新入部員が集まるまでは、こんなものじゃないかな」
朝霞さんは違うロッカーの扉をパタパタさせる。
『佐田』の名前が書かれたロッカーを開ける。当然だが空だ。
部室の床に座り込んで、色々な場所を探す。
「春日さん、何も無いって」
朝霞さんが家捜しを覗き込む。
「ありますよ」
私は写真を、右手の人差し指と中指に挟んで取り出す。ロッカーの靴入れと棚板の間に挟まっていた。
「二月の送別会の時の写真だ、色々とすごいな春日さん」
何か別の意味で感心されているような気もする。
金子さんの方に向き直る。
「この写真はお持ちでしょうか」
「はい、全員が写っているので持っています」
「じゃあ、この写真は預かっておくよ。OB会の時に本人が取りに来るかもしれない」
写真を朝霞さんに手渡す。朝霞さんはそれを冊子の中に挟み込むと役員用と書かれたロッカーにしまった。あれがOB名簿だろう。
あとは、傘入れの中に入っていた、ドライフラワー化したキク科の花だ。
「春日先輩、何でしょうか」
「花束か何かからこぼれ落ちた物でしょう」
まだ柔らかく古い物とは思えなかった。
「これは持ち帰ってもよろしいですか」
「ああ、春日さん、良く分からないけど金子の助けになるなら。わざわざ失恋しに行くってどうかしていると思うけど」
朝霞さんのまっとうな疑問を聞きながら、汗臭い陸上部の部室をあとにした。
「今日は練習ではなかったのですか」
「はは、ずる休みしちゃいました」
「取りあえず、今日はこれだけです。この花の分析が出来たらまた連絡します」
練習をずる休みした上でその部室に顔を出すとは、金子さんはなかなか豪胆だ。
さてこの花をどう分析したらいいだろうか。カモミールの甘いリンゴのような匂いはするのだが。
「ありがとうございました」
「あとは、あの集合写真を持ってきていただけると嬉しいです」
続く
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