二つの絵 第四節

  百合二輪 二つの絵 第四節


 楓若葉なつは 日葵ひまりは家からティーポットを持ってくると、アールグレイティーを入れるようになった。私はいつも分けてもらうだけなので、悪くなってカルディーでトワイニングのレディグレイを見付けて化学準備室に持ち込んだ。

 「良い香り」

 日葵は茶葉を蒸らす。

 「レモンピールとオレンジピールだそうです」缶の裏書きを読み上げる。

 私は苗代なわしろ先生にミルクを分けてもらうために、化学教諭室にお邪魔する。

 「春日かすが、楓若葉、休憩か?」

 苗代先生は、本棚の上段から、日葵のディズニーランド土産であるクッキー缶を降ろした。

 「楓若葉のお土産、今日で食べきってしまおう」

 「日葵、こっちでお茶にしましょう」

 私は壁向こうの日葵に声をかける

 無理矢理唇を奪ってから、先生は落ち着きを取り戻し優しくなった。先生から返事は貰っていないけれど私は十分に幸せだった。

 本棚脇の冷蔵庫から、牛乳パックを取り出す。日葵が各自のカップに注いだレディグレイに、私がミルクを注いでいく。アールグレイなど柑橘系のフレーバーティーはミルクティーが合うのだ。

 皆で円座になって座り、レディグレイのミルクティーを堪能する。

 「シルバーホワイトとチタニウムホワイトの識別はどうですか?」

 各自のミルクティーも残り少なくなった頃、日葵は懸案となっていた件を苗代先生に聞いた。

 「ああ、そうだ。忘れるとこだった」

 「戸田先生の依頼です」

 「シルバーホワイトって何だ、チタニウムホワイトは酸化チタンと分かるけど」

 「鉛白、塩基性炭酸鉛です。硫化すれば硫化鉛になって黒くなると」

 日葵は、シルバーホワイトについて調べが付いている様だ。

 「硫化か、硫化水素は危険だからなぁ」

 苗代先生はミルクティーの残りを、口の中に流し込むと立ち上がる。

 「じゃあ、やってみよう」

 私達は化学実験室に向かった。

 日葵は二枚の絵の枠部分から白い絵の具をメスで削り取って、試験管に入れる。

 「まずは、固まった乾性油を柔らかくしないと」

 苗代先生は試験管にアルカリを入れて、湯煎で温める。

 「全部溶かすのは無理だな。液が滲みる程度で妥協するか」

 ガラスロートで濾し取ると、水洗する。

 別の試験管にそれぞれの切片を入れるとチオアセトアミドの水溶液をピペットで加える。

 「これを還元すれば、サンプルの硫化が完了だ」

 先生は試験管を揺らしながらブンゼンバーナーの遠火にあてる。

 「これ突沸すると危険なんだ」

 それを冷やすと、もう一度濾過する。

 「わずかに黒い」

 日葵が覗き込む。私にはよく分からない。

 「正直良く見えない。実体顕微鏡を使おう」

 苗代先生は化学準備室に入って実体顕微鏡を探す。

 「先生私がやります」私も化学準備室に入る。

 「少し整理したのです」

 探し回る苗代先生の後ろで、実体顕微鏡の箱を持ち上げる。

 「こちらです。先生」

 膝を曲げたまま首だけ振り向くと、至近に苗代先生の顔があった。先生も振り向いたのだ。

 「わわ」

 先生の顔が赤面する。そのまま後ろに下がって、体勢を崩しかける。

 「ふふ、キスされるかと思いました」

 私は実体顕微鏡をかかえて化学実験室に向かう。

 「春日、返事はすぐにする。まだ迷いが」

 苗代先生は私のすぐ後ろで囁く

 「急がなくとも良いのです。私は待っています」


 二枚の絵をキャンバスクリップで挟み、美術室に赴く。

 一方のキャンバスの脇には区別のためにマスキングテープの切れ端が貼ってある。

 美術室の扉は開放されていた。美術部の活動中のようだ。テレピン油の突き刺す匂いと、乾性油の悪臭が辺りを漂っている。

 戸田先生は部員の間を周りながら指導中だった。

 「戸田先生、探偵クラブです」

 日葵が声をかけると、部員が一斉に振り向いた。この様な反応も最近は慣れた。

 戸田先生はイーゼルの間を巧みに抜ける。

 「やあ、春日さん、楓若葉さん、何か分かったかね」

 「区別は出来ます」

 「流石だね、教諭室で聞こう」

 部員が私達を気にしている事に気が付くと、戸田先生は美術教諭室に私達を案内した。

 「部員は、君達をモデルにしたいんじゃないかな」

 戸田先生は手を洗いながら、冗談を口にする。

 怯えて、脂汗を垂らしながら私達を描くのだろうか。サイケデリックな絵が出来上がりそうだ。

 「で、どちらが本物なんだ」

 「先生にご判断頂くしかありません、こちらが……」

 「シルバーホワイトでマスキングテープが付いている方がチタニウムホワイトです」

 名前を忘れてしまったので、日葵が説明を引き継いだ。鉛なのに何故シルバーなのだろう。

 「シルバーホワイトの使用は学生には禁じているから、こちらが私の作品だろう。学生が模写したのか、凄い技術だね」

 戸田先生は、模写の絵を持ち上げると子細に眺めた。

 「ここまで上手かった学生というと……」

 「キャンバス枠のキャンバス側に誰かの記名が」

 日葵が戸田先生の脇にまわって、記名のあるキャンバスの位置を指し示す。記名がある事を発見したのは日葵だ。パレットナイフをキャンバスの隙間に差し込んで調べた。画面の破損を恐れてそれ以上の調査は出来なかった。

 「わざわざ隠しているのだね」

 「キャンバスを剥がせませんか」

 「それは、したく無いな」

 戸田先生はソファーに座って考え込む。ソファー横のキャビネットに入っていた美術部の卒業者名簿を取り出すとめくり始めた。

 「吉田かもしれない、吉田 菊子。三十年前の卒業生で美大に行った」

 「確かめる手段は?」

 「まだ収蔵庫に作品が残っているはず」

 戸田先生は美術教諭室のもう一つの扉を開ける。テレピン油と、若い乾性油の匂いがする美術室と違って、こちらは完成した油絵のむっと饐えた匂いがする。

 「さ、こちらへ」

 収蔵庫は美術室と同じぐらい広さの部屋だ。収納棚が並び、キャンバスはスライド式のキャンバス架台に掛けられている。

 「基本的には卒業後持ち帰らないと捨てるのだが、素晴らしい作品は捨てられなくてな」

 戸田先生はスライドを何個も引いては、吉田さんの作品を探す。

 「確かここら辺だ。菊のサイン。あった」

 「あっ、モデルが同じ人です」

 依頼の絵のヌードモデルと、吉田さんの絵のモデルは同じ人だった。同じ人であると私でも分かるぐらいに巧みに描かれている。

 「美術部の親友の絵ばかり描く癖があってな、ここにある絵ほとんどそうだ」

 スライドを引き出すと、戸田先生の言う通りだった。モチーフは違っても絵の中心には必ず同じ人が居た。

 「同じモデルで描いても、自分の絵に満足いかなかったのかのな。それで精緻な模写を」

 戸田先生は、吉田さんが絵を模写をした理由を推察する。

 「吉田さんは彼女の裸の絵そのものを描きたかったのでは。私には分かる」

 日葵が突然カミングアウトを始めた。日葵が他人に感情移入するなんて珍しい。

 「ほう」

 「吉田さんの絵は技術の巧拙、画風の変化はあっても、初めから足りないものは無い。うらやましい」

 「私は二人がそんな関係にあった事を否定はせんぞ。吉田は遅れて入部した。吉田は彼女のヌードを描き損ねたのかもな、ははは」

 戸田先生は笑う。

 ならば何故、吉田さんはこれらの絵を置いたまま卒業したのであろうか。

 「楓若葉さん、初期の絵とこの卒業間近の絵の違いが分かるか?」

 戸田先生は最後の方の絵を取り出して日葵に見せた。

 「……あっ、吉田さんは全てを手に入れた」

 「そうかもしれんな」

 「良かった」

 「吉田の絵で分かっただろう。君の絵に足りないのは共感だ。君の絵からは感情が伝わらない」

 戸田先生は日葵に優しく諭す。

 それは、今の日葵にはまだ難しい事かもしれない。


 年末年始の期間、私は気分が晴れなかった。やはり日葵と勉強しないと身が入らない。

 そして何より、苗代先生が居ない。寂しかった。先生は栃木の実家に帰ったのであろう。苦しんでいるのは私だけでは無く、苗代先生もそうだ。

 あのキスで私と先生の心は通じ合ったはず。でも先生は責任有る社会人として、代償を払う覚悟が必要だ。刑事罰、社会的制裁、職業倫理、学校への責任、私の親への責任。

 全てのリスクを天秤に掛けて、苗代先生は私の腕の中に飛び込んでくれるだろうか。


 令和二年一月六日、雪の降りしきる中、私は遅れ気味に登校した。早めに登校していた日葵とハイタッチを交わす。

 「あけまして、おめでとうございます」

 「あけましておめでとう」

 日葵は非常に晴れやかな笑顔だ。皐月さんと会う話しは無かったはず、裸の写真でも交換し合ったのだろうか。

 窓から外を見ると、愛しの苗代先生が必死に歩いている。完全に遅刻だ。一人暮らしで悪天候の日には早めに出勤すると決めつつ、果たせない駄目大人な感じだ。先生と結婚したら、そんな所をちゃんとしてあげられるのにな。

 「先生遅刻ですよ」

 クラスからの批判の目をものともせずに窓を開け、手を振る。

 苗代先生は校舎を見上げると、そのまま前に転んだ。

 「先生!」


 昼のHRが終わった後、化学教諭室に直行した。今日は午前しか授業が無い。

 「先生、大丈夫ですか」

 「大丈夫じゃ無い」

 苗代先生は破れたままのストッキングや、シミの付いたスカートを見せた。

 「申し訳ありません」

 「春日のせいじゃ無い。バスが混んでて遅れたんだ」

 苗代先生は言い訳をする。先生の通勤経路のバス区間は歩いて二十分程度だ。歩けば遅刻しなかったはずで、先生の判断ミスだ。でもそのうっかり気質な面を含めて私は好きだ。

 「先生、美智子いいか」

 日葵が化学教諭室の扉を開けた。日葵は部屋の中に入ってきて、苗代先生の席の前で、腕を広げた。

 「戸田先生ここなら入ります」

 日葵に続いて戸田先生が化学教諭室に入ってきた。布を掛けた大きな額縁を、台車に載せている。何の絵だろう。もしかしてここに飾るのだろうか。

 「苗代先生、ちょっとすまないけどここに釘を打たせてもらうね」

 戸田先生は電動ドリルを取り出すと苗代先生の机の上に乗って、壁のコンクリートに穴を開ける。

 「はっ?」

 苗代先生はまだ事態を把握していない様だ。穴が開くと、電動ドライバでコンクリートビスを打ち込む。

 「これで、このサイズの額縁にも耐えられるはずだ」

 戸田先生は、額縁から布を取り去る。それは私達三人の絵だった。中央は白衣を着た苗代先生、少し上を見上げている。右は日葵、たいを少し左にして、首を曲げ前方をしっかり見据えている。左は私、苗代先生の方を向いて視線は先生と合っている。それぞれの思いを表現した素晴らしい絵だ。

 「戸田先生、あのデッサンはこの絵のためだったのですね」

 「そうだ、そしてこれが依頼の報酬になる。受け取ってくれるかな」

 「はい、喜んで」

 日葵と一緒に額縁の端を持ち上げる。中央は戸田先生が持ち、ビスに掛け紐を渡した。

 「華があるだろうこの絵は、一年ほどしたらタブローを塗ってくれ」

 そうして戸田先生は去っていった。

 「はっ、この絵は一体」


 「私には眩しい、この絵は」

 苗代先生は化学教諭室の壁にもたれながら、呟く。

 「先生、少なくとも私の事を眩しいと思う必要は無いのですよ」

 「春日、私は……」

 「今でなくとも良いのです、待っています」

 「今言わないと」

 苗代先生の返事だ。そう確信していたけれども、聞く勇気が無かった。私と先生の間に差し込まれた障害はあまりにも多い。

 「先生、美智子、私は戸田先生の所で後片付けが」

 日葵は察しよく部屋を離れた。何時からこんなに空気を読む子に。

 「春日から好きと言われて、悪い気はしなかった」

 私はその事を知っていた。

 「それを、上手く理解出来なくて苦しかった。でもつい見てしまう」

 「先生が私の事を目で追っていらっしゃる事は知っていました」

 中学生の時、私の初恋は視線の動きを、友達が察して露呈した。そこからは破れる事を覚悟で告白するしか無かった。目を隠すのは難しい。だけれど好きな人からの視線なら、それは嬉しい。

 「春日」

 「私の裸を見たかったですか、触ってみたかったですか」

 「見たかった、触ってみたかった」

 「先生、言ってくだされば良かった」

 苗代先生は性の事も坦々とした言葉で話す。返事の結論はどうであれ、先生は自らの性欲の事は受け入れたのだ。

 「楓若葉に質問したんだ。それで、やっぱり自分もそうなんだろうと」

 苗代先生は沈黙を置く。私は机に腰を掛けると、先生の目を真っ直ぐに見る。

 「先生がいらっしゃるのを待っていました」

 「楓若葉から聞いたのか」

 「そうです」

 本当は盗み聞きしたとは口が裂けても言えない。

 「押し倒されるなんて」

 「私とて我慢出来ない時もあるのです」

 「いろんな障害がある」

 「分かっています」

 苗代先生は教諭で、私は生徒だ。

 「春日、好きだ。でも私は……」

 「私も好きです、先生。情欲も愛の形です。私は喜んで」


  続く

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る