二つの絵 第二節

  百合二輪 二つの絵 第二節



 「日葵ひまり、進路は決まりました?」

 机に突っ伏してアガサ・クリスティを読む。外が寒くなって、暖房は強くなった。

 そのせいで、勉強中眠たくてしようがない。

 モーリス・ルブランを読んでいた日葵は、本にブックマーカーを挟むと募集要項のプリントアウトを掲げる。

 「法律家になるのですね」

 「皐月さつきと本当の結婚をしたい」

 公然の秘密であった日葵の恋人の名前を、最近は日葵自身も口にする様になった。

 「結婚ですか」

 渋谷区や世田谷区のパートナーシップ証明書は、あくまで企業や病院等に同性のパートナーへの配慮をお願いする程度の物であって、本当の結婚では無い。完全な同性婚を実現するには憲法を改正しなければならない。事実婚と同様の権利を認めさせる事でさえ容易い事ではない。日葵は真っ直ぐ突き進む、障害があれば噛み砕いてでも。

 「黙認をしてくれている親の期待にも応えたい」

 「黙認ですか。羨ましいです」

 「いろいろ、やらかした」

 日葵はたった三ヶ月で何をやらかしたのであろう。

 「私はまだ親に許されていません」

 中学校の時のしでかし。

 親友の友達への告白と、拒絶、そして不登校。親は私の行いを許容しなかった。気の迷いじゃない。あれは本当の恋だったのに。でもこの学校に転入学してからは私は自分の性的指向を隠していた。苗代なわしろ先生に出会うまでは。あふれ出る気持ちはどうしようもなかった。

 だが私は親に介入されるのを防ぐために、十九歳【十八歳成人までの経過措置】までは問題となる行動は避けなければならない。

 「時を待つしかない」

 そう言いながら日葵は鞄の中からストップウォッチを取りだした。後ろに『楓若葉なつは』と書かれた擦り切れたストップウォッチ。陸上部時代の物だろうか。

 「実時間で問題集ですね、何です」

 「英語」

 日葵は表紙をこちらに見せる

 同じ過去問集から、同じページを探し出す。

 「勝負です」

 日葵は私より英語がほんの少し苦手だ、勝機は十分にある。

 まずは単語の問題を解く。これは満点だ。

 次は文法、これも問題無い。

 構文、穴埋め、文意、作文

 「日葵、押し倒したらどうしましょう」

 「好きにすればいい」

 「まずはキスから、それ以外あり得ないです。それ以上はどうしましょうか」

 「それも好きにすればいい」

 「本当に良いのでしょうか」

 「出来た」

 日葵は、一足先に問題集を解き終えた。

 「十五分残った」

 「お喋りの分負けました」

 私も解き終えた。まさか日葵に英語で負けるとは。

 「採点が本番です」


 日葵がコーヒーを入れてくれる。採点は一点差で私が勝った。勝負はおあいこという事だ。

 「まずは押し倒す勇気ですね」

 「事故と言う事もある」

 こういう時は、絶対に日葵の実体験だ。

 「でも、相手への礼儀として、押し倒す時は自ら意志を持ってするべきだと思います」

 私は謎の理論を展開する。押し倒すというのは相手の意志を無視する事だ。事故という事で逃げるのは卑怯だ。

 「事故は狙って出来ない」

 日葵は重大な事を指摘した。

 その通りだ。コーヒーを飲みながら、頭の中で苗代先生を押し倒すシミュレーションをする。事故に備えて予め言う事を決めておかなくては。

 その時、化学準備室の扉が叩かれた。依頼者だろうか。

 「これは戸田とだ先生、探偵クラブへの依頼でしょうか」

 扉の前に立っていたのは美術の戸田先生だ。探偵クラブの手が黒くなる看板をしきりに触っている。

 「これは、誰が作ったのかね」

 「私の妹です」

 妹が夜鍋して二日ほどで作ってしまった物だ。

 「この学校の生徒か」

 「いえ公立の中学です」

 「よく出来ている。美術系の学校に行った方が良い。必要なら推薦状を書いても良い」

 「都立芸高に行くと言っています」

 「それはいいね」

 そこまで素晴らしい出来の物だとは思っていなかった。我が妹凄い。

 そもそも、焼杉の板が何種類もある事時点で妹はどこか変わり者だ。

 戸田先生は化学準備室に入ると、依頼内容を話し始めた。

 「私は来年度で退職でね。美術室の保管庫から自分の作品を選び出していたんだ」

 戸田先生はキャンバスクリップで挟んだ二枚の絵をメインテーブルに置く。

 「昔描いた絵で、二枚同じ物があってね。二枚描いた覚えはない。どちらが本物なのか、どうして二枚あるのか調べてくれないかな」

 戸田先生は四隅のクリップを外すと二枚の絵を机に並べた。F40サイズのキャンバスに描かれた女性の油絵。確かに全く同じ絵だった。

 「先生ヌード画です、モデルは生徒ですか」

 日葵は、顔を近づけて二つの絵を検分する。日葵は美術が得意だ。戸田先生に技術は優れていると評価されている。

 「その頃は新人美術部員で交互にモデルをしていたんだ。今は親がうるさくて出来ないけれど」

 「綺麗な娘です」

 モデルは机の上に立ち、前で腕を組んでいる。程よく筋肉が付いてとてもスタイルが良い。何故日葵は生徒と分かったのであろう。いや同年代の女性の裸を知り尽くしているのはこの中では日葵だけだ。

 「先生タブロー【完成した油絵に塗るニス】は」

 日葵は画面を撫でながら謎の呪文を唱えている。

 「ああ、除去して来るんだったな、かまわんよ」

 日葵はとても乗り気の様だ。それほど難しくはないであろう。

 「先生。この依頼お受けします」

 探偵クラブとしてこの依頼を引き受ける事にした。

 「ありがたい。それとなんだが、君達三人のデッサンを取らせてもらっていいかな」

 「私達でしょうか、苗代先生も」

 「絵にしたいんだ」

 「ヌードでしょうか?」

 いや、私は何を期待しているのだろう。でも苗代先生の衣服を剥ぐ絶好の機会でもある。日葵の筋肉の付いた裸に興味もある。基本的に私は女性の裸に興奮する質である。そのせいで着替えの時は少々つらい。

 「ははは、制服で描くつもりだよ。苗代先生は白衣でな」

 先生は豪胆に笑う。

 落胆した。取りあえず苗代先生を呼ぶ。

 「うわっ、ヌード」

 苗代先生はいけない物を見てしまったかの様に、大げさに手で遮った上に、目も閉じた。


 「なんだか有機溶媒の匂いがする」

 苗代先生が化学実験室に入ってくる。

 「先生テレピン油です」

 日葵は、ボロ布を手に取りテレピン油の瓶に付けると、二枚の油絵のタブローを丁寧に拭き取る。

 「なるほどα—ピネン【テレピンの主成分】か」

 先生は、二枚のヌード画を正視しない様に、微妙に角度を付けて丸椅子に座る。先生も女性の裸に性的興奮を抱くのであろうか。それにしても絵にまで興奮する必要はないのに。

 「先生、興奮しています?」背後に忍び寄って、首を抱く。

 「してない」

 苗代先生は大声で否定した。

 「先生?」

 「なんでもない、ごめん」

 先生は顔を真っ赤にして、縮こまる。私が盗み聞きした苗代先生と日葵との会話。先生はあれから女性の裸を意識しすぎているのだ。過敏になった先生を慰める。

 「先生が望むなら、好きなだけ私の裸を見せて上げます」

 「春日……」

 先生はそれから無言だった。

 「やっぱり、何かが違う気がする」

 日葵はタブローを拭き取り終え、二つの絵を机の上に並べる。

 「お疲れ様です」

 手を洗った日葵に、私はタオルとコーヒーカップを渡す。

 私には二つの絵はやはり全く一緒に見えた。もちろん筆致は完全に一緒ではない。それでも、二つの絵に傾向の違いを見出す事は出来なかった。どちらも同じ作者の絵に見える。これは模写ではなく贋作に近い。

 「見て美智子」

 日葵は絵の背景にあるカーテンを指さした、これは美術室のカーテンだ。背景は赤みの濃い茶色で描かれておりそれが白色の肌を浮き立たせている。カーテンは肌より主張しない様に押さえた色調で黄色と白のグラデーションで塗られている。

 二つのカーテンになにか違いがあるだろうか。

 「こちらは塗りが薄い、筆運びもやわらかい」

 日葵は言うが、私には違いが分からない。

 「違いはあるという事でしょうか? 日葵」

 「おそらくチタニウムホワイト【酸化チタンを使った白色の油絵の具】でシルバーホワイト【鉛白を使った白色の油絵の具】を模倣している」

 「どちらが本物でしょう」

 「シルバーホワイトの方、推測を確かめないと」

 「先生区別する方法はありますか?」

 「ごめん、聞いてなかった」

 なにかを考え込んでいた苗代先生は、私の呼びかけに頭を起こした。

 「先生?」

 私は苗代先生の顔を覗き込む。目線が踊る。先生の手を握った。

 「先生チタニウムホワイトとシルバーホワイトを区別する方法はありますか」

 先生の手にじんわりと汗が滲む。

 「ごめん、期末考査の採点をしなきゃ」

 苗代先生は、俯いたまま化学教諭室に戻っていった。

 「先生……」

 「勉強しよう」

 タオルで髪を拭きながら、日葵は背後から私を呼ぶ。


  続く

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