二つの絵 第一節
百合二輪 二つの絵 第一節
いつもの様に化学準備室に鞄を持って入る。
今日はシステム造園の
化学準備室は寒い。冬になり太陽は傾いて二号棟の影に入り、この部屋にはもう西日は差さない。暖房のスイッチを中にした。
いつも私より先に来ている
「先生、日葵を知りませんか」
壁越しに先生に呼びかけるも、応答がない。
先日の懐中時計のエッチング以来、人見知りな日葵が、苗代先生と親しく喋る様になった。それ自体は悪い事ではないはずなのだが、私の嫉妬心が頭をもたげてくる。日葵は美人だ。先生が面食いなら取られてしまう。
むくれて自席に座る。積み上げた参考書が三十センチぐらいになっている。日葵の席の後ろに並べたコナン・ドイルも読み終えてしまった。三年次まで約五ヶ月だ、教科書に先行して勉強するには、次の参考書や問題集を買ってこなければならない。一緒に別の探偵小説を古書店で見繕ってこよう。
暇なので参考書の整理を始める。待てども二人は帰ってこない。
仕方がないので雑念を振り切って、微積分を勉強しようとした。
でも頭の中で先生関数が無限大に発散する。
私の中の先生はどんどん大きくなっている。
苗代先生も最近私の事を意識している。私に向けられた視線。そうもっと私を見て先生。
すぐ先に先生がいるのに、ほんの少し届かない。手に入れたい先生を、この腕の中に。
悶々としていると、廊下を話しながら歩く音がする。苗代先生と日葵だ。
「
「いえ」
化学教諭室の扉を開けて二人が入ってくる。怪しい、絶対に怪しい。
「
「あれ、
壁越しに呼びかけられるが私は息を潜める。
「そか、なら話しちゃおうかな」
「何ですか」
「先日のお社の事件以来、私微妙に楓若葉に許された気がするんだけど」
「人見知りですから」
私は安堵した。日葵自身の事か。もし苗代先生の浮気を聞いてしまったら、こうして隠れて二人の会話を聞いている私は惨めだ。
「他人に心を開かない所あるよね」
「今は、先生は仲間です」
「どっちの?」
「と言うと?」
「いや冗談」
「一方は先生自身の問題かと」
「私自身の問題か」
「何か」
苗代先生はしばらく押し黙った。
「私は本当のとこどうなんだろ。聞いて良い?」
先生は椅子に座ると、日葵に丸椅子を勧めた。
「最近、春日を無意識に見てる。春日は美人だからまぶしい」
私は動悸がした。先生に美人だなんて言われるなんて。そして先生も視線の事を自覚していたのだ。
「気付いてました」
「これが同性愛なのかな。告白された当初はこんなんではなかったのに」
「人によって違うかと」
「どうすれば……裸とか見たい?」
「同性のですか?私は見たいです、特定の人ですが」
「人による?」
「多分」
「他には?」
「結論を
「なんで私みたいなチビを春日は好きになったんだろ」
「直接話すしか」
「失望させたくないし、幻滅させたくない、それに私は……」
先生は言葉を絞り出す。苗代先生、私はすべてを受け入れますよ。失望しませんし。幻滅もしません、ありのままの先生が好きですから。
「話してみないと」
「その通りだな、すまない楓若葉。少し頭冷やしてくる」
苗代先生は、化学教諭室から廊下に出て、去って行った。
替わりに、日葵が化学準備室に入ってくる。
「美智子、今日は何を」
「お社の遷座の件でシステム造園の方と打ち合わせをしていました」
「そう」
「先生とお話しをしていたのですか」
「聞いていたのでは」
状況証拠的に言い逃れの出来ない盗み聞きだ。
「なんだかモヤモヤとします。焦がれます」
苗代先生の気持ちが私を向いている事は分かった。でもその気持ちを確かなものにするには、待たなければならない。先生も苦しいのだろうけど、私も苦しい。
「押し倒せば」
「怒られませんか」
「人によるとしか」
「押し倒したのですか」
「さあ」
絶対に押し倒したのだ。
日葵は、ごまかすために問題集を解くふりをする。
その時、iPhoneのアラームが鳴った。
「そろそろ行きましょう、檜田さんが待っています」
体育館裏はすっかり藪が切り開かれていた。お社の前で、神主が
百合神様、どうか私と苗代先生の恋愛を成就させてください。チュッチュ出来ます様に。エッチ出来ます様に。
日葵は何を願ったのだろう。聞くまでもない事か。
懐中時計は元の袋と由緒書きを入れて新しい絹の袋に収め、お社の方にお戻ししてある。
つたないが、由緒書きは私と日葵が書いた。
神主は扉を開け懐中時計の入った袋を取り出すと、私の手の上に置いた。これから化学準備室に設けた神棚にお移しする。
学内を移動する私達と闖入者に、生徒達はいつも以上に怯える。
神棚は、西の窓の上に設けた。場所がそこしか無かった事もあるが、神棚を東向きに設置出来る絶好の場所でもあった。
「春日、楓若葉、いったい何……」
物音を聞きつけた苗代先生が化学準備室に現れるも絶句した。
化学教諭室に戻っていたようだ。
「先生驚かせてすいません。愛しています」
百合神様だから、目の前で先生への愛を囁いてもきっと怒られない。
檜田さんが脚立を用意して支えると、神主が登り立派な神明作りの神棚に懐中時計の袋を収めた。
用意した供物をそなえる。ちょっぴりお酒の匂いがするのは檜田さんが用意したからだ。
神主が再び祝詞を唱えると遷座の完了だ。
「何あれ」
「懐中時計です。百合神様としてお移り頂きました」
フリーズの解けた先生の背後から手を回し首を抱くと、先生の耳に囁いた。
「ひあぁ、か、か、春日」
可愛い反応、これだからたまらない。じんわりと先生の体温が私に移る。
「美智子、なぜ百合神様」
「懐中時計はあくまで依り代なのです。神様は、時計に託して止めてしまった彼女達の想いだからです」
「三位一体みたいなもの?」
卒業アルバムの集合写真に写った二人を思い遣る。
彼女達は想いを遂げる事なく、おそらくは男性と結婚したであろう。当時は時を止めるしかなかった想い。今は違う。
それから数日後の事。
日葵の痴情電話が一日に二回もあった。
日葵は皐月さんにロケット【ペンダント】をプレゼントしたらしくその報告と、到着したとの折り返しの電話だ。二回目は親が介在したらしく痴情度は抑え気味だったが、『愛してる』度は大幅アップだった。この二人親の前で『愛してる』をやっているのだろうか。
私は、慣れたが、苗代先生はどうだろう。教育上良くはない内容故に、心理的影響が出ていないか心配だ。
「日葵、そろそろ帰りましょう」
「帰ろう」
爽やかな笑顔で日葵は鞄を手にする。幸せそうで何よりだ。
だが日葵のまめさは私も見習わなければならない。
「先生、今度条件無しで映画を見に行きましょう」
帰り支度をしながら壁向こうの苗代先生をデートに誘う。
「条件無しって何、何点取ったとか無し?」
「何をしてもオッケーという意味です」
「今は期末考査の採点で忙しいの」
返事までしばらく間があった。採点が終わったら良いのだろうか? 先生はいつも隙だらけだ。
コートを着ると、化学実験室の裏口から中庭に出る。
化学実験室の裏口の隣には薬品保管庫がある。引火性や爆発性の薬品が保管されている。この薬品保管庫にアクセスするのが本来の裏口の役割だ。
そのまま校庭の脇を抜けながら校門に向かう。校庭そって植えられたポプラが葉を散らす。
「そういえば、日葵陸上をやっていたのですよね」
陸上部員は薄暗くなり始めた寒空の下、走り込みをしている。
「レギュラーメンバーではなかった」
そうとは話さなかったが、日葵は皐月さんのために陸上部を犠牲にしたのだ。転校をしてくる前の学校の時点で。
日葵は皐月さんに、引っ越しをするまでの三ヶ月の期限付きで交際を受け入れた。でも日葵は皐月さんに深く惹かれてしまった。期限に捕らわれたのは日葵の方だった。
「探偵クラブに付き合わせてしまってごめんなさい」
「いい、勉強も出来る」
校門を通ると、遮るもののない風が寒さを運ぶ。
「寒いですね。人肌が恋しくなりませんか?」
「ええ」
続く
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