よくできました
須野 セツ
よくできました
タクシーに乗って、「どこまでで」と聞かれたので逡巡した末に「三軒茶屋駅までで」と答えた。
その僅かながらの頭を使うやり取りすらも億劫になるほどに、私はやっとタクシーに乗りこむといった感じだった。
座り込んで早々に手に提げていたよれた袋とエルメスの鞄を端に押しやった。
パンプスが脱げそうになったが、かかとの気持ち悪い浮つきがいくぶん落ち着いたのでそのままにした。
サイズが合っていなかったのかもしれない。その確認も面倒なので次に買う靴のことをもう決めておこうと思った。
車は穏やかに発進した。
白髪の混じった平べったい頭が背もたれの上から覗いている。ミラー越しに見るおじさんの顔は気だるそうであり、そこに面白みはなかった。
だがそれよりも気前よく話しかけてくるほど仕事には慣れていなそうな運転手で私は心底安心していた。
寝るにしては夜はまだ騒がしく、運転手やはり目を閉じてまで避けるほどの男ではなかった。
私は押しやった袋を手元に寄せて、そっと中を開いた。
いかにも安っぽい袋に包まれているのはよくある着せ替え人形だ。
マリーゴールドみたいな陽性の黄色い髪、ビー玉型の瞳の上にはわざとらしく反りあがった睫毛が生えていて、鼻と口はそれに帳尻を合わせるかのように控えめにある。
顔の大きさは嫌味なく派手に備わっていて、二等身の身体に安定したところはもちろんない。
その装いはレースの入った光沢のあるもので、何通りもの種類の中でこの人形を選んだのは幼いころに買ってもらったものとよく似ていたからだった。
これを手に入れるために、わざわざ近くもないおもちゃ屋までひとりでやってきた。いつもはろくに使わない現金も財布の中にないと落ち着かなくて、狭いお札入れの中に何枚かを挟んでいた。
それはちゃんと功を奏した。
人形を持ってレジでクレジットカードを出したとき、店員はため息をつくようにカードが使えないことをぼそぼそ言った。
私は現金を多く入れた長方形の財布を誇らしげに出したが、決してそこに満足感はなかった。
バックミラーに映る運転手の目を気にしながら人形を手に持ってみる。ちらと目が合った気がしたが、その先は人形を射していた。
プラスチックの固さと布の大らかな手触りの両立で成り立ったこの感触を、幼い記憶とともに浸った。
私の頭には食卓でおままごとをしていた自分の姿が映った。人形のための料理を絵で描いて、それをお母さんに見せると「よくできました」といつも褒めてくれた。
それは嬉しいことだった。
だが、所詮はそれだけだった。
この人形を買って得られたものが記憶の一部分をなでるほかは特にないことに少なからず失望した。何を買ってみても結局はそうなのだ。
ずっと、私がしたいと願うことはほとんどが思い通りになった。
お金に困ったことがない私は友人と遊ぶには充分すぎるお小遣いがもらえたし、親に言えば欲しい服も鞄も買ってもらえた。
私が驚いたのはどんなに欲しかったものを手に入れても、明らかに満たされはしていないということだ。
まるで身体の中に決して杯を注がれることのない器があるようだった。
その器は私の高い服や鞄を見てもただ整然とそこに立っている。何を着ても、食べても、受け入れはしない。私はこの器を満たすために消費をして、満たされないことにはもはや苛立ちもしなかった。
お金はどれだけ使ってもなくならなかった。
人形。信じられないことに、それで夢中になって遊んでいたことがあるとお母さんは言った。当時に使っていた人形は幸運なことにもう捨てられていた。
その事実に私は少しだけ色めき立った。
好きだったものを手に入れる、という行為を想像するだけで器が満たされる予感があった。そうでなかったら、こんな人形を今さらになって買うはずがない。
私は人形への期待を失って、それを手から離した。膝の上に仰向けになった人形の目は辺りの街灯の光を時おり吸い込んでいた。
「お客さん、それブライス人形ですか」
運転手がミラー越しにこちらを見ていた。
その唐突な投げかけに驚いて、私は声を漏らしていた。
「はあ」
迂闊なことをしてしまった。
今さらになって人形を椅子の端に置いたものの、彼の視線はそのままだった。
車の速さは遅くなっていく。料金のメーターがまたひとつ上がった。
「うちの娘がね、それ欲しいっていうんですよ」
「値段も高くないしいいと思いますよ」
そのときの私は早く駅についてくれ、と思うばかりで返事はそぞろだった。
しかし、運転手の声が変わった。
「そりゃお客さんはすぐ買えるかもしれないですがね」
言ってからしまった、とばつの悪い顔で俯くも、私はここまでなんとなくでしか輪郭を把握していなかったその男のことを凝視するきっかけになった。
言いようのない初めての疼きだった。
タクシーは完全に止まった。
何か言う間も与えずに「お待たせしました。到着です」と業務的な声が相手から聞こえる。私は財布に手をかける。
「四〇〇〇円です」
紙幣を指でなぞってから、手をカード入れに移動させた。
「カードでお願いします」
振り返って大人しく頷いた運転手の顔は、私を上目遣いに見ながらその口元を僅かに歪ませていた。
そそくさとカードを受け取ると、機械をごそごそと漁るためにうつ伏せの姿勢になる。
そのとき露わになった頭頂部は、細い髪のまばらさがよく目立っていた。
カードを返すと、運転手は鞄を手に取ろうとする私のことを舐めるように見ていた。
鞄、靴、服、付けている髪飾りから、手に持った財布に及んだところで彼はようやく目を逸らした。
横目でその全てを受け入れていた私は、身体の中の器が次々と満たされていくことにひどく快感を覚えていた。
隠しきれない卑しさや零れ出るやっかみが彼自身の人生の諦めと共になって私を襲う。
それは牙というにはあまりに脆いもので、丸みはあるのに優しさとはまるで異質なものだった。
私はこのしがないタクシードライバーのためにお金を得て、身を取り繕っている。
その気付きにとてつもなく打ち震えた。
かけがえない欲ができた瞬間だった。
私は運転手の開けたドアから片足を下ろした。パンプスがさっきより上手くはまっている気がした。
ドアが再び閉まってから、その座席に人形が寝ているのを確認する。
その人形はどこか私に似ていて、やはりまったく欲しいものではなかった。
よくできました 須野 セツ @setsu_san3
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