第5話 真実を愛する

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 八月下旬。扇風機の前で涼んでいると、柱で鳴き続けていた一匹の蝉が縁側に止まった。正確には止まったのではないことを、凜太は知る。足を閉じ、硬直している蝉を掴むと、桜の木の下に置いた。

「若、お時間ですよ」

「参ります。少々お待ち下さい」

 母の春子に呼ばれ、凜太は茶室に行くと着物を着た女性が正座で待ち構えていた。

「あなたは……」

「お知り合いでしたか」

「え、ええ……お盆のとき、霊園で。あのときはおばあさまとご一緒でしたね」

「はい。西条明美と申します」

 改めて自己紹介をし、明美は大学生だと明かした。日本各地に会社を持つ、呉服商の娘だと春子は説明する。だが凜太にとって、それはどうでもいいことだった。

「美しい茶室ですね」

「ありがとうございます。ですが練習用の茶室なのです。離れにもう一つ茶室があります。初めての生徒は、まずはこちらでお教えすることになっています」

 春子は何か言いたげな顔で、茶室を後にした。

 凜太は道具を一つ一つ説明していき、お茶を点てた。干菓子である落雁を勧め、お茶を勧める。回し方、飲み方、吸い切りについて説明した。

「音を立てて飲むなど、慣れませんわ」

「初めての方は驚かれます。飲み終わったという合図ですから、茶室で行うのは何もおかしくはございません。そう、お上手ですよ」

「とても落ち着きますね」

「ありがとうございます。家元が購入した掛け軸で、こだわりがあるようなのです」

「そうではなく、あなたのお声が、です」

 もちろん掛け軸も美しいと、明美は付け足した。

「実は、此処に来るまで、引け目があったのです。私より年下でありながら、すでに家を継ぐお稽古もなさっていて、成績も優秀で特進クラスだと、何度も聞かされました」

「大袈裟です」

「私の人生なのに、なぜ比べられなければならないんだろうと何度も思いました。今日こうしてお稽古をして頂き、改めて学んでいきたいと感じました。どうかお願い致します」

 明美は深々と頭を下げた。外では蝉が合唱し、遠くで鹿威しの音が鳴る。


 九月の休み明けテストも上々の結果を残し、家元は満足げに頷いた。ご機嫌取りだけのテストをゴミ箱に投げ入れ、凜太は読みかけの本に集中する。

──今週の日曜日、家に来ないか?

 友人以上の関係である彼からのメールに、凜太はすぐに返信した。

──ぜひ、お邪魔します。

──話したいことがあるんだ。

──もう関係を終わらせたいと?

──なんでそう、マイナスな思考なんだよ。写真撮らせてほしくて。

 凜太は指を彷徨わせながら、一文字ずつ押していく。

──私をですか?モデルなら外にいくらでも映えるものがあるかと思います。

──お前以上に、映えるものなんかない。

──ときめきを返して下さい。そういうことは、簡単に言うものじゃない。

──本心だよ。あと、できれば浴衣で来てほしい。

──分かりました。

 日曜日は生憎の曇り空で、今にも雨が降りそうなほど薄暗い天候になった。傘を持ち、いつもの和菓子屋に寄ると女将が笑顔で出迎えた。

「もうそろそろ降りそうですね」

「ええ、久しぶりの恵みの雨です。栗饅頭をひと箱お願いします」

 おまけに煎餅を二枚付けてくれ、凜太はお礼を言い店を出た。まだ雨は降っていない。

 車庫には車はなく、ぽっかりと穴が空いている。チャイムを鳴らすと、すぐに玄関の扉が開いた。

「お土産です」

「毎度悪いな。冷たいもの何か用意するよ」

「ありがとうございます」

 ふと気になり、凜太は背後を振り返る。岡田の表札が付く家は静まり返っていて、車もない。

「奈々子とはちゃんと話したよ。普通に戻るには時間はかかるって言われた」

「岡田さんの気持ちは、私には分かります」

「一馬さんとはどうだ?」

「全然会っていません。結婚生活が充実しているのでしょう」

 氷の入ったサイダーと、凜太が買った栗饅頭をお茶請けに、ふたりは乾杯した。丸ごと栗が入り、こしあんで作られた饅頭は食べ応えもある。

「写真の件ですが、本当に私で良いのですか?」

「なかなか人を撮るって経験がないんだ。虫や花ばっかりだから」

「大抵は嫌がりますよね」

「親父も撮るのは好きなのに撮られるのは嫌だって一点張りで」

「なんだか、今日の淳之さんは良く話します」

「そうか?」

「普段はぶっきらぼうで素っ気ないのに」

「悪かったな」

「違います。心地良いという意味です。明るすぎる人は苦手なので」

「クラスに一人はいるようなムードメーカーみたいなか?」

「ええ」

 ストローを用意しているのは凜太の飲み物だけだ。淳之は、豪快にグラスを傾ける。炭酸に揺られ、ストローが踊っている。

「炭酸は動きがあり、美しい飲み物だと思います。試しに撮ってみて下さい」

 部屋から持ってきたカメラは本格的で、単焦点レンズを付けた一眼レフカメラをグラスに向けた。

「ほら」

「……こんなにお上手だったのですね」

「そうでもないさ。親父のお下がりで、カメラの性能のおかげだ。そのまま俯き加減で撮りたい」

 返事より先にシャッターが押された。

「凜太はよく儚げな顔をする」

「幸薄いと自分では思います」

「物は言い様だな。部屋で撮ってもいいか?」

 部屋。凜太は先日のやりとりを思い出し、ひとり思いを馳せた。長い睫毛が何度か瞬くと、自然に唇が重なった。甘い菓子の味がし、求めるように舌を絡め合う。

「一馬さんとも、こういうことをしょっちゅうしたのか?」

「一馬兄さんは関係ないでしょう。今しているのはあなたです。本当によく喋りますね。何か話したいことでもありましたか?」

「まあ……部屋で話す」

 凜太はそれ以上何も聞かず、歯切れの悪い淳之に連れられるまま部屋に行った。花浅葱色のベッドが目に入り、凜太は無意識に視線を外した。青で統一された部屋は、意外にもサッカー関連のものがほとんどない。ぱっと見て目に入るのは、机の横にあるサッカーボールくらいだ。

「何にもないだろ?トロフィーとかは、ほとんどリビングなんだ」

「でもサッカー雑誌もありますね。海外の選手を取り扱っている本のようですが、好きな選手がいるのですか?」

「いる。ゴールキーパーで、目指してる人が」

 始まるマシンガントークは声のトーンがいくらか上がっている。

「悪い。分からないよな」

「海外の選手はあまり詳しくはありませんが、饒舌になるあなたを見るのはとても楽しい」

「そうかよ」

「何処に座れば良いですか?」

「……じゃあ、ベッドで」

「かしこまりました」

 緊張した淳之に気づかぬふりをし、ベッドに腰掛けた。

「斜めから見ると、余計綺麗に見える」

「煽てなくても、逃げませんよ。服装は浴衣で?」

「ああ」

「裸になれと、言われるのかと思いました」

「少し脱いでもらえると、嬉しいけど」

「なぜ小声」

「もういいから。とりあえず一枚撮るぞ」

「撮りながらでいいので、悩みをどうぞ。解決に導けるか分かりませんが、お聞きします」

 耳に馴染むシャッター音が鳴り、続けてもう一度部屋に響いた。

「前に触れたけど、プロの写真家になるか、サッカー選手を目指すか、悩んでる」

「だろうと思いました」

「プロも輩出してる大学から話がきてる。でも、写真家の専門学校も捨てがたいんだ。もうすぐ願書の受付も始まるし」

「サッカーの大学はどちらですか?」

「都内。実家から通える」

「私は答えが出ていると思います」

 凜太が髪の毛を耳に掛けると、そのタイミングでシャッター音が鳴る。長い睫毛に色気を感じ、淳之は喉を鳴らした。

「あなたは先ほど、目指しているサッカー選手がいると仰いました。それが全てではないですか」

「顔はそのままで視線こっちに向けて」

「好きに選べる夢です。最終的には淳之さんが決めることですが、私は後悔してほしくはないです。でも、サッカーを語るあなたは眩しく見えました」

「凜太は」

「勘違いしてほしくないのは、別に夢を託そうとか思っているわけではないですよ」

「サッカー選手になりたかったのか?」

 質問には答えず、浴衣の帯に手を伸ばした。

「お父上は何時にお帰りですか?」

「夜には……帰ると思う」

「私はあなたに欲情しています」

「だから、なんでそうはっきり言うかな……」

「筋肉質な身体はとてもタイプです。汗の匂いも、ずっと嗅いでいたい。どうします?私は結構性欲が強いので、きっと最後まで止まれない」

 最後は何を差す言葉なのか、淳之は聞くべきか悩んだ。艶めかしい手つきは、帯を解く寸前で止まっている。

「まずさっきの質問に答えてくれ」

「夢の話ですか?子供の頃は、確かにサッカー選手が夢でした。家元にも、どうせすぐに飽きるだろうと放っておかれました。ですが私はどんどんのめり込んでいった。試合中、キーパーとしてボールを取った瞬間、発作が起きたのです。手放したボールは入ってしまい、負けました。僕が病院に運ばれ、目を覚ましたときには廊下に家族がいました」

「何か言ってたのか?」

「喘息のおかげでサッカーを辞めさせられる。安心したと、私が聞いているとも知らずに喜んでおりました」

 息を吐き、机の側にあるボールを見た。使い古されたものは今の凜太にとって、無意味であるものだ。

「そして監督からだと封筒を渡されました。中身は原稿用紙が二枚。負けたのはお前のせいだから、反省文を書けとメッセージまで残されていました」

「はあ?なんて奴だよ」

「子供ながら、夢を諦めなければならず人生終わりだと思い知らされました。高校生になって、あのときの教師はおかしいと判ります。でも無力な子供は、回りの大人が全てなんです。私もそうでした。従うしかなかった。自分のせいで負けてしまってごめんなさいと、謝罪文を書きました。そんな怖い顔しないで下さい」

 淳之は小柄な身体を抱き寄せると、唇を寄せた。凜太は舌を受け止め、太股を擦り合わせた。

「見たい」

「何をですか?」

「凜太のここ」

「写真を撮るのですか?」

「撮らねえよ。何処かに流出したら大変だ」

 帯を解き、ベッドに下に落とす。重なる胸元を開け、浴衣も剥ぐと真っ白な下着のままベッドに座った。

「それ何て言うんだ?」

「襦袢といいます。下着のようなものです」

 下には何も付けておらず、真っ白な身体が現れた。首もとから徐々に淳之の視線は下がった。

「やべえ」

「やばい?」

「その、興奮する。俺こんな趣味あったんだな……」

「触らないんですか?」

「俺の力で触ったら潰しそうだ」

 凜太は見えるように足を開いた。薄暗い部屋の中、苦しそうな淳之の息遣いが聞こえ、凜太は顔を近づけた。




「今日さ、本当に写真撮りたかったんだ」

「言い訳がましいとしか思えません。期待はしていたんでしょう?」

 半笑いで問いかけると、罰が悪そうにそっぽを向いた。滑り気を帯びた男根を口で汚れを取り、凜太も自身の身なりを整える。

「夢の話を、誰かにしたのは初めてです」


 二学期が始まり、残暑が身体に障り限界に達しそうになっていた。水筒の氷はとっくに溶け、温くなった麦茶を飲み干した。返ってきたテストはいつも通りの点数で、特に変わり映えはしない。恨めしそうに見るクラスメイトに気づかぬまま、凜太は用紙を鞄にしまった。

 蝉たちに見送られ、凜太は校門を遠回りするようにグラウンドに立ち寄った。先輩のいなくなった陸上部やサッカー部が占拠している。それらしい人を目で追うが、見当たらなかった。

 校門前には男子生徒が固まっていて、何やら小声で話している。凜太は小柄な身体を小さくし、間を潜り抜けた。

「あの、凜太さん」

 白のワンピースにサンダルを履いた女性は、西条明美だった。

「どうしたんですか?」

「すみません、驚かせてしまいました。此処の高校だと聞いていたもので、もしかしたら会えるのではないかと思いまして」

「次のお稽古は日曜日ですよ」

「ええ……そうですね」

 意図が分からないまま凜太は彼女の言葉を待つが、視線を宙に泳がせるだけで何も言わない。直射がさらに凜太の身体を犯していった。

「あの、よろしければお茶でも飲んで涼みませんか?凜太さん、少し息切れを起こしてますよ」

「ええ……湿気と暑さのせいです」

 喘息のことは、明美は知らない。言うつもりもなかった。

「何処か茶屋にでも寄りませんか?」

「はい。ぜひ」

 誘ったのはいいが、凜太には女性を誘う場所など知る由もなかった。古い知人のいる茶房などは以ての外で、良くあるチェーン店へ入ることにした。凜太と同じ高校生や家族連れも多く、女子高生が座る通路を挟んだ向かい側へ案内された。

「凜太さんは、よく此処へ?」

「ほとんど参りません。家で涼むことが多いので」

「私も……実は初めてなのです」

 明美が決める間、凜太は辺りを見回した。一人の女子高校生が無遠慮に見つめてくる。強い眼力は、岡田奈々子だった。岡田は何か言おうと開口するが、隙間なく口を閉じる。前には明美がいるため、声掛けも出来なかった。

 注文したサイダーとコーヒーがやってくるまで、当たり障りのない会話を繰り返した。

「突然やってきて、驚かれましたよね」

「まあ……少し」

「実は、折り入ってご相談があるのです」

 食器の重なる音や話し声などで岡田たちは何を話しているのかは聞き取れないが、聞き耳を立てられていると感じた。

「凜太さんに、恋人のふりをして頂きたいのです」

「……なぜ、私なのですか」

 驚いたのは凜太だけではなく、岡田も一瞬真後ろに視線を送った。

「凜太さんは、お付き合いされている方はいらっしゃいますか?」

「お答え出来ません」

「……その言い方だと、いると仰っているようなものですわ」

「西条さんと私の見解は異なります」

「今は、そのように思っておきます」

 明美は重い口を開き、ことの成り行きを説明した。父親が浮気をしている可能性があり、真相を確かめため、日曜日に出掛けてほしいとの誘いだった。

「日曜日はお茶の稽古があります。それが終わってからですか?」

「いえ、その……時間帯が被ってしまうのです」

「なるほど。私も共犯者になれと、そういうことですか」

「頼める方は凜太さんしかおりません」

「でもどうして浮気をしていると?そもそも勘違いの可能性もあります」

「勘違いで終わればそれでいいのです。私がリビングに行くと、携帯電話でこそこそと何か話していて、棚上のメモ帳に何か書いていました。私に気づいた父は慌ててメモを一枚むしり取り、そのまま部屋へ行きました。私はそのメモ帳を鉛筆で擦りました。薫という名と、日時とホテルの名前が浮かび上がったのです」

「まるで探偵のようなやり方ですね」

 浮き輪のように浮かぶストローを差し、凜太はサイダーを口にする。気づかないうちに喉が渇いていたのか、グラスの半分ほどを飲み干した。

「やってしまった後で、とてつもない後悔に襲われました。でも知ってしまった以上、放ってはおけないのです」

「良く判りました。ですが、恋人の振りと関係がありますか?友達の振りでもいいかと思うのですが」

「男性と二人っきりでお出掛けするなど、恋人以外でするべきことではありません」

「西条さんのご家庭の問題ですね。私はあくまで友達として、西条さんは恋人だと思って頂いて結構です」

 明美は不服そうに頷いた。

「家元もおりませんし、構いませんよ。お受けします」

「助かりましたわ。では、連絡先を交換して下さい」

「私はあまり携帯端末は見ません。日曜日はチェックするようにしますが、連絡が遅れることはしばしばあります」

 明美がコーヒーに視線を下げた瞬間を見計らい、凜太は岡田を見た。彼女はすでに立ち上がり、会計を誰がするかと揉めている。居場所と運が悪かったと、嘆息を吐いた。

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