第4話 真夏の前戯
蝉が鳴き始めた時期、凜太は冷えたほうじ茶を飲みながら宿題に明け暮れていた。高校生ともなると一年前の倍近くある。特進クラスは、夏休みはあってないようなものだった。凜太は夏期講習を一日たりとも休まずに参加している。辛いのは勉強ではなく、学校へ通う距離だ。中学のときと変わらないが、なんせこの暑さのせいで食が細いのにさらに低下していた。氷を削り、蜂蜜をかけ、なんとか栄養を摂っていた。
──明日、夏期講習か?
ぶっきらぼうな書き方は普段と同じ口調であり、凜太はこの人の醸し出す空気が好きだ。端末をタップし、すぐに返す。
──午前中で終わりです。
──学校で、大学生相手に練習試合があるんだ。
──頑張って下さい。
返事は来ない。もう一度見返し、凜太は話の意図が掴めなかったことを悔やんだ。
──応援しに行ってもいいですか?
──勉強で忙しくないか?
──いつも勉強をしているわけじゃありません。
──暇だったら来てくれ。少しでもいい。
──行きます。必ず。
淳之と連絡を取り合うようになり、端末を見る癖がついた。平然と数日間は放っておいてしまうので、しっかり見ろと言われたことがある。ふいに一馬の顔が浮かび、凜太は外に払った。
キッチンで洗い物をしている春日を見かけ、凜太は声をかけた。
「春日さん。明日なんですが、昼食はお弁当をふたつ作って頂けませんか?」
「おや、どうしたんです?」
「明日は学校で夏期講習があります。その後、少し残って勉強がしたいので」
「いいですよ」
「あの、できれば、おにぎりのような食べやすいものを」
春日はにっこり笑い、承諾した。凜太は詳しい事情を聞かずにいてくれた彼女に感謝した。
授業が始まる前、凜太はこそこそと中庭に行くと、すでに待ち人は待っていた。校舎からは見えない木陰に座り、スマホをじっと見つめている。待ち人は凜太を見つけると、片手を上げて横を指差した。
「夏期講習は何時からだ?」
「まだ、三十分以上あります」
「なら少しゆっくりできるな」
淳之はすでに着替えを済ませている。
「淳之さんが、キャプテンだとは知りませんでした」
「押し付けられたようなもんだ」
「器がないと、できないと思います」
「……どうも」
淳之は照れると目を剃らし、頭を掻く。今もその癖が表れていた。
「今日は少し涼しいな」
「昨日は蝉の鳴き声が良く聞こえ、風情がありました」
「庭に大きな桜の木があったよな。窓開けてると蝉入って来ないのか?」
「たまに。でも放っておいてます。夏にしか味わえないですから。こう涼しいと、スポーツもしやすいのでは?」
「暑いよりはやりやすいが、それは相手も同じだ」
渡すタイミングを逃してしまうと、どうにもならない。精霊蝗虫が目の前を飛び、凜太は驚き後退った。淳之は捕まえると、奥の草むらへそっと置いた。
「虫は平気か?」
「平気です。子供の頃は、池で泳ぐ水馬を数時間見ていたことがあります。家元に勉強しろと怒られました」
「大人が当たり前に分かることでも、子供にとっては不思議で理解できないことは沢山ある。水馬の生態とか」
「そうですね」
「その紙袋の中身とか」
せっかくのチャンスを見逃さず、凜太は二段重ねの弁当を差し出した。露草色をした一尺三寸ほどの風呂敷で包まれ、葉の模様柄は今の季節に合っている。
「な、え、まじでか」
「まじです」
「作った?」
「私ではなく、お手伝いさんの春日が作りました」
「春日さんにお礼を伝えてくれ」
「私より、春日さんの料理の方が美味しいですよ」
「そういう問題じゃねえの」
「風呂敷は私が包みました」
「じゃあ楽しみながら開ける」
淳之は両手で包みを抱え、固まっている。
「いつもひとりで飯食うから、こういうの初めてなんだ。誰かに作ってもらった弁当渡されたりするの」
「昼食は、いつもどうしてたんですか?」
「コンビニか、適当に握り飯作って持っていく。具は余ったからあげとか、漬け物」
「大きなおにぎりになりそうです」
生まれ持ったものなのかゴールキーパーという職業柄なのか、淳之の手は大きい。凜太は手のひらを向けると、淳之は重ねた。ふたりとも熱が籠もっていた。
「やはり、大きいですね」
淳之は堪らなくなり、重ね合わせた手を握った。凜太も同様に握り返す。手を腰に回すと、細い身体は簡単に引き寄せられた。唇が重なり、もう一度角度を変えて唇を合わせる。
「凜太が握ったおにぎりが食いたい」
素っ気なく言う淳之は、目を背け頭をがしがしと掻いた。
相変わらず日差しが強く、アスファルトに反射した陽光は体内を侵食していく。着物姿に日傘を差すと、すれ違う人々が一度は振り返る。着物も珍しいが、男子で日傘を使用する人はそうはいない。紫陽花柄の紫を基調とした日傘は、凜太を妖艶に見せた。
スーパーに寄ると、凜太はメモを取り出し乾物のコーナーに立ち寄った。おはぎを作るための小豆と、麻幹を頼まれたのだ。お盆の時期のせいか、棚は小豆一色になっている。
花屋には菊の花が店頭を占めていた。他には季節に見合った花が並べられている。凜太は、向日葵に目が留まった。
「何かお探しですか?」
愛想良く聞いてきた店員に頭を振った。他の花におしいられたのか、種のコーナーは少ない。凜太は向日葵の種を取り、レジに向かった。
家へ戻った凜太は、さっそく向日葵の種を庭に埋めた。条件さえ揃えば、種は今の時期に植えても発芽する。分かりやすいように、池を囲んで種を蒔いた。
車で霊園まで向かい、お参りを済ませると、凜太は輪の中を抜けた。一通りの挨拶巡りも終え、少々の息苦しさを覚えてしまったからだ。どれだけ葉純家が力を持っているか、思い知らされた。
菊の香りが充満した墓を蝉が合唱する中、包まれながら凜太は歩いた。後ろから名を呼ばれ、見知らぬ女性が立っていた。
「葉純さんのところのお孫さんね」
「葉純凜太と申します」
「ええ、存じ上げておりますよ。随分と大きくなられた。着物がとてもお似合いです」
老婆の横で佇む女性は、凜太を見て会釈する。清らかで薄く化粧を施しているが、年はそれほど離れていないように見えた。
「こちらは孫の明美です。そちらにお邪魔することになっているのだけれど、聞いてないかしら?」
話の意図が掴めず、凜太は首を横に振った。
「一度八月中に参ります。凜太さんのお茶を点てるところを生で拝見したいですわ」
凜太はようやく、お茶教室の生徒だと知る。何も聞いていないが、家元が生徒を決めるのはいつものことだ。
「いつでもお越し下さい。お待ちしています」
形式的な挨拶を交わし、逃げるように立ち去った。やがて墓地から離れると、蝉の声も幾分か落ち着き払った。整えられた霊園に、桔梗の花が咲いている。紫色をした小さな花は、蜂を惑わし蜜を与える。その様子をじっと見ていると、側に寄る人に気づかなかった。
「あの」
すらりと背の高い女性は、おどおどしながら目を泳がせている。凜太が立ち上がっても、女性は頭一つ分背が高い。
「墓地はどの辺りになりますか?」
「あちらです」
帽子を深く被り、表情は見えなかった。暑さ対策というより、顔を見られるのを拒んでいるかのようだ。場所を指しても、女性は動かない。
「よろしければ、ご案内致しましょうか?」
「墓の場所が、分からないんです」
これには凜太も困惑するしかない。墓地が分からないのではなく、お参りをしたい墓が分からないと言っている。
「お寺にお尋ねするべきかと思います」
「八重澤という家庭をご存じありませんか?」
凜太は固まった。良く知る名字は珍しく、この辺りではひとつしかない。佐藤や田中ではなく、ピンポイントで「八重澤」を「凜太」に尋ねた。思考を深め、凜太は無意識のうちに袂落としに手を添えた。中にはお金と電子機器が入っている。
連絡するべきか迷い、凜太は止めた。相手の素性が分からない以上、揉め事に発展する可能性もある。
「すみません。存じ上げません」
「そうですか」
女性は頭を下げ、墓地までとぼとぼと歩いていった。帽子のせいで顔はよく分からない。だが凜太はある仮定がひとつ脳に浮かんだ。
霊園の管理人に八重澤の墓の位置を聞き出し、凜太は向かった。女性の姿はないが、先ほど彼女が手に持っていた菊が飾られている。凜太は線香を添え、手を合わせた。
屋敷に戻ると、春日は忙しなく動き回っていた。凜太が手伝うと余計に仕事を増やしかねないので、親戚が集まるまで部屋でおとなしく教科書を開く。宿題はすべて終えていて、九月からの授業の予習に明け暮れていた。
お盆の日、大広間では宴会が行われる。親戚が集まるわけだから当然一馬も含まれるのだが、家元に彼は仕事で来られないと伝えられた。
「一年ぶりか?背も随分伸びたなあ」
「左様ですか。ありがとうございます」
一馬の義理の父親に当たる男は、艶福を気取る男で、祖母の三回忌に凜太に手を出した。凜太を独占し、上機嫌で酒を煽る。娘は謝罪の顔で何度も凜太に頭を下げるが、特に助けようともしない。頭が上がらないのは、彼女も同じだった。
ある程度義理を果たした後、凜太は早々に抜け自室に戻った。勉強する気も起きず、外の空気を吸おうと庭に出た。凜太に気づき、鯉たちは騒がしく動き回っている。餌を貰えると思ったのだろう。
外に人の気配を感じた。凜太は裏口から表に出ると、外壁に凭れ掛かりスマホを見つめる人がいた。
「一馬兄さん……」
一馬は凜太に気づくと、酷く驚いた様子で硬直した。それも一瞬で、いつものへらへらした笑みに戻る。
「やあ、偶然」
「何が偶然ですか。此処にいれば会う確率も上がるでしょう。中に入って下さい」
「いや、いいよ此処で」
「ご馳走はまだありますよ?」
「うん。食べてきたから。身長また伸びた?」
「そういえば入学式以来でしたね。本日だけで十数回同じことを言われました」
「はは、親戚一同集まるしねえ」
「……もしかして怪我しました?」
「……鼻良すぎじゃないの?」
「手当てします」
「いやいや、待ってよ。してないって。病院で働いてるから臭い移っただけだよ」
「薬品の香りが、とても強い」
一馬は病院で働いている。それ以外に、凜太は情報を知らなかった。病院即ち医者だと思っている。
「奥様をお呼びしましょうか?お迎えでしょう?」
一馬は何も答えない。薄い笑みを零したまま凜太を見下ろしている。家の明かりに集まり、蛾が辺りを飛び回り薄気味悪い。
「これあげる」
鞄から紙袋を取り出し、凜太に押し付けた。
「なんですか?」
「開けてごらん」
中身は凜太の好物の水饅頭だった。凜太の良く通う和菓子屋で、作る素材にもこだわった水饅頭は、お盆の期間から八月下旬限定で発売されているもので、いつも売り切れだった。
「これ、去年食べられなかったんです」
「喘息で倒れたりしてたらしいもんね」
「わざわざ買いに行ったんですか?」
「まさか。ついでに寄ったらあっただけ。そこまで俺も暇じゃないよ」
「ですよね。ありがとうございます。おひとつ食べます?」
「いいよ。俺は食べたし」
「ならふたつとも、私が全部頂きます」
凜太は大事に小袋を抱え、もう一度お礼を言った。
「せっかくだから彼氏と食べたら?」
「………………」
「え、図星?おめでとう」
「彼氏ではありません」
「淳之君さあ、サッカーでいろいろ注目されてるらしいじゃん」
「そうなのですか?」
「何も聞いてないの?」
「インターハイは一回戦で負けてしまったらしくて、本人は悔しがっていました。場所も遠く、日曜日はお茶の教室があるので応援に行けませんでしたが」
「あの一八〇センチ超えの恵まれた体格だしね。怪我さえなければ、試合にフルで出られたろうに。それじゃあ俺帰るよ」
背中が見えなくなるまで見送ったところで、一馬の目的が分からず、途方に暮れた。
──今年も一緒に花火観ないか?
そう連絡が来てから、凜太は新調した浴衣を着飾った。月下美人が大きく咲いた浴衣は、あまり男性が選ばない柄だが凜太の儚げな顔には良く合っていた。
「高校生になってご友人もでき、春日は嬉しゅうございますよ」
「いつまで友達でいて下さるか分かりませんが」
「お友達は大事になさって下さい。浴衣もこれからどんどん新調しなければなりませんね」
「身長が伸びたと感じております」
「家元は泊まりで温泉旅行です。凜太さんも羽を伸ばして下さいませ」
去年と同じく、外は家族連れや友人同士の集まりで賑わっている。公園などでは屋台も並び、賑わいを見せていた。凜太は駅前の和菓子屋に行くと、子供の頃から知る女将は嬉しそうに目元を緩ませた。
「この前一馬君も来てくれたんですよ」
「聞きました。寄ったみたいですね」
水饅頭のコーナーは、限定品はすでに売り切れてしまっている。ふと、凜太は小さな札に気づいた。
「今年から、二個限定になったんですか?」
「ええ、あまりに人気でねえ。お一人様二個ではなく、グループで二個に変えたんですよ。それでも午前中には売り切れちゃって」
一馬の言葉と食い違う。一馬は、もう食べたと言っていた。
「えと……そちらの水饅頭の六個入りと、琥珀糖を一箱お願いします」
考えたくない事実まで思考にはまりそうになり、凜太はなるべく考えないようにした。菓子箱を受け取り、友人以上の存在である彼の家まで歩いた。外壁には蝉の抜け殻が引っ付いていて、子どもたちが群がっている。凜太も子供の頃は、庭の桜の木についた抜け殻でよく遊んでいた。
淳之の家の外壁にも、蝉の抜け殻を発見した。よく見ると形がそれぞれ違い、手が太いものが蜩、ひと回り大きいものが熊蝉だ。
「何してんだ?」
外壁を見ていた凜太に、家主が上から覗き込んだ。
「蝉の抜け殻を発見しました」
「水馬を見続けるくらいだから、ほっといたら抜け殻でも数時間見てそうだな。倒れるから中入ってくれ」
「お邪魔します」
二の腕部分の布地を上げ、逞しい二の腕が剥き出しになっている。抱かれたいと、凜太はやましい気持ちを隠した。ドアが閉まると同時に淳之は振り返り、逞しい腕で凜太を抱き締めた。凜太も背中に手を回す。汗の匂いが堪らなくなり、下半身を押し付けた。
「凜太」
「こうなるから、時と場所は選んで下さい」
「選んだつもりだ」
「あなたは何も分かっていない。それとこれお土産です。水饅頭は日持ちしないので、冷やして召し上がって下さい」
熱い息を吐く淳之は肩を竦め、菓子箱を受け取った。
「なんだかまたトロフィー増えましたね」
「俺ひとりで取ったわけじゃない」
「けれど素晴らしいです。サッカーであなたが注目されていると、一馬兄さんから聞きました」
淳之は冷たく冷えたサイダーと、メロンをテーブルの上に置いた。ガラス皿が夏の風物詩を思わせる。凜太はお礼を述べた。
「多分雑誌か何かで読んだんだと思う」
「もしやインタビューですか?」
「けっこう前に受けたんだ。けど主将として代表で受けただけだから、俺個人ってわけじゃない」
「なぜもっと早くに言わなかったのですか」
淳之は頭をぽりぽりと掻き、サイダーを飲んだ。
「興味ないかと思って」
「あるに決まってるでしょう」
「部屋に雑誌あるけど、後で読むか?」
「読みます」
「意味分かってる?」
フォークを持つ手が止まり、メロンが皿に落ちてしまった。
「居間だから親父も使う空間だし、なんとか耐えてるけど。部屋入ったら多分、抑えが効かない」
「私、男ですよ?」
「知ってるよ。さっきも充分確認できたし」
「抱けるのですか?それとも抱かれたい?」
「……抱きたい」
「経験はありますか?」
「……ねえよ。頼むからはっきり言わないでくれ。どうしていいか分からない」
「こういうのは、はっきり話し合った方がいいですよ」
冷えたメロンを嚥下すると、身体が反応し唾液が溢れ出る。凜太は残る果肉を口に含んだまま、淳之と口を合わせた。舌で淳之の唇をこじ開けるとすんなり開く。果肉を舌で押しやると、淳之はじゅ、と音を立てて吸い取った。
「気持ちいいです、とても」
「俺も」
唇を離すと、淳之は外を見て息を呑んだ。凜太も彼の視線の先を見ると、サッカー部マネージャーの岡田奈々子が外壁より向こう側から覗いていた。奈々子は凜太と目が合うと睨み付け、走って何処かへ行ってしまった。
「すみません、どうしよう」
「カーテン閉めなかった俺が悪い」
「でも」
「奈々子は知ってる」
呼び捨てに、二人の関係性が良く滲み出ていた。
「知ってるって?え?」
「あのさ、驚かないで聞いてほしいんだけど」
「はい」
「奈々子に告られたんだよ」
「はい」
「……怒らないのか?」
「岡田さんの様子を見ていれば、察しはついていました」
「インターハイ終わって、話があるって言われて、帰り道で告られた。けど俺全然知らなくて、口うるさい兄弟みたいに思ってたから驚いた」
「なんと返したのですか?」
「好きな奴いるからって。当たり障りのない言い方だけど、それがいいと思って」
グラスの氷が小気味良い音を立て、崩れた。
「今日の花火大会も誘われてたんだ。でも断られるかもしれないけど、好きな奴誘いたいからって言った」
「岡田さん、浴衣着ていましたけど……」
玄関から物音が聞こえ、ふたりは息を殺した。立ち上がろうとした凜太を制し、淳之はひとりで物音のする方へ向かう。戻ってきた淳之の手には、紙袋が握られていた。
「残暑見舞いですか」
「残中とは違うのか?」
「残中見舞いは梅雨明けから七月中、残暑見舞いは八月から九月上旬くらいを指します」
「さすがだな」
「岡田さんからのようですね」
熨斗には岡田信友と名前がある。岡田奈々子の父親の名だ。
「ご連絡した方がよろしいかと思います」
「ちょっと待っててくれるか?」
「その間、夕飯の準備でもしていますか?」
「夕飯は寿司取ってある」
カーテンを閉め、淳之は家を出ると残り香だけが残り、凜太は空虚感を感じた。
その後、凜太は十分、二十分と待っていたが、一向に淳之は帰ってこない。スマホもテーブルに置いたままだ。せっかくだからトロフィーを見せてもらおうと立ち上がったとき、スマホが明るくなった。電話を知らせる画面に、フルネームで父親の名前が映し出された。全員フルネームで登録しているのかもしれない。出るのは失礼だと凜太は放置していたが、再度画面が光った。緊急の用件かもしれないと、凜太はスマホに手を伸ばした。
『淳之か?帰りは明日になるって言ってたけど、今日帰れそうなんだ』
「あの……」
『……誰だ?』
息子ではないと分かり、敦史の声は低くなった。
「申し遅れました。お久しぶりです。少し前に写真を撮って頂きました、葉純凜太です」
『ああ、葉純さんとこの。久しぶりだな。淳之はどうしたんだい?』
「すみません。二度も光ったので緊急時だと思い、電話に出てしまったのです」
凜太は今、淳之がいないことと、花火を観る約束をしために家にお邪魔していると簡潔に説明した。
『どうぞゆっくりなさって下さい。仲良くして下さりありがとうございます』
「私の方こそ、お世話になりっぱなしです」
『ふたりっきりの方がいいかい?』
それはどういう意味であるか、凜太は電話越しに考えた。先に沈黙を破ったのは敦史で、夕飯は食べていってほしいと言い残し、電話を切った。
それからしばらくして、淳之は帰ってきた。顔を真っ赤に腫らした岡田を連れている。
「とりあえずタオル取ってくるからソファーに座ってろ」
父からの電話があったと伝えられないまま、淳之は台所に姿を消した。ソファーに恋敵が座ると、凜太は何も言えなくなり、沈黙を破ろうとしなかった。外ではオレンジ色の光りがカーテンの隙間から差し、蜩が音色を奏でている。
「付き合ってんの?」
小声が聞き取れず、凜太は横にいる彼女を見た。
「アイツのこと、好きなの?」
「淳之さんですか?」
「それ以外誰がいるのよ」
「話す理由はないかと」
「バラしてもいいわけ?」
「ばらすとは?」
「キスしてたでしょ?学校中に話したら、いられなくなるわよ」
「元々、小学生からクラスで孤立するタイプですし、それは高校生になってからも変わっていません。困るのは淳之さんの方だと思いますよ。彼は部活でも後輩に慕われている」
むすっとした表情は、高校二年生とは思えないほど子供じみている。
「男同士って……気持ち悪いし、結婚も出来ないのになんで好きになるの」
「気持ち悪いかは個々の趣味趣向の問題で、私は女性とキスができません。想像もしたくありません。結婚に関しては、確かにその通りですが、海外だと認められている国もあります。私には結婚願望はありませんが、もし何を捨ててでも結婚したくなった場合、海外へ行くとあう手もあります」
「淳之は普通だったのよ。あなたが狂わせたの?」
「さあ……それは彼に聞いて下さい」
凜太は扉の陰に潜む淳之を見た。濡らしたタオルを岡田に渡し、前のソファーに腰を下ろす。
「お前の普通を押し付けるな。それと凜太を傷付けない約束で連れてきたんだぞ。これ以上言うなら帰れ」
「疑問を口にしただけよ」
「どうだか」
「淳之はプロになるのよ。あなたそれを分かっているの?」
「プロ?サッカー選手になるのですか?」
凜太の疑問は、岡田を驚かせた。
「何も知らないのね。支えていけるとは思えない」
「俺が話してなかっただけだ。それにまだはっきり決めてない」
「私は淳之と同じ大学に行くわ。マネージャーやるって決めてるもの。あなたは?」
「まだ高校一年なので、大学までは決めていません」
「何張り合ってんだよ。凜太には凜太の人生がある。好きになってくれるのは嬉しいけど、お前のことは恋愛対象として見られない」
「男が好きなの?」
「違う。凜太だからだ」
付き合っているわけではないのだが、キスを見られた以上否定もせず二人の会話を淡々と聞いていた。また泣き始めた岡田を淳之は送るといい、再びひとり部屋に取り残された。
十分ほどで帰ってきた淳之は隣に座り、深く息を吐いた。
「お疲れ様でした」
「おう……」
「新しくサイダー入れて参りましょうか?」
「頼む」
冷蔵庫からペットボトルを取り出し、氷を入れたグラスに注いだ。淳之に渡すと一気に半分ほど飲み干した。
「俺のどこがいいんだよ。無愛想だし、サッカーくらいしか出来ることないし」
「少なくとも、私は好きですが」
「……本当か?」
「付き合うかはまた別です」
「なんでそんなに頑ななんだ」
「臆病だからかもしれません。いざ壁に直面したとき、逃げ道が欲しいのです。耐えられない壁に一度当たっていますから」
「恋人じゃなくてもキス出来るのか」
「はい。純情でなくてすみません」
「それは……少し嫉妬するけどさ」
凜太は距離を詰めた。それを合図に、お互いの影が重なった。一度深いキスをすれば、箍が外れたように角度を変えて舌を絡めた。またもや下半身を押し付けそうになったとき、車のライトが部屋を照らす。それまで凜太は、電話の件をすっかり忘れていた。
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