第3話 七月七日

 春が過ぎ、桜も葉桜へと変わった頃、凜太に新しく家族が増えた。池にもう一匹錦鯉が放たれ、すぐに仲間に溶け込み泳いでいる。白を基調とし、上から見ると落ち葉に見える模様は時間を忘れて見入るほど美しかった。

 餌やりを終えた凜太はスーツに袖を通すと、光沢のある銀色のネクタイを付けた。高校に入学し、ネクタイの付け方を学んだのは大きな財産だ。

「準備は整いましたか?」

「はい、すぐに参ります」

 廊下で待つ春日に見せると、うっすらと目に涙を溜め、ハンカチを取り出した。

「いずれ凜太さんもこうして旅立つのかと思うと……」

「それはないです。私はこの家を継ぐ者ですから」

「そ、そうでしたね。ネクタイもとても上手になられました」

「春日さんが教えて下さったからです」

 鯉に餌を与えたと告げ、凜太は使用人の運転する車に春子と乗り込んだ。

 空虚感だけが襲いかかり、気づかないふりをしていたくて、凜太は外の景色を見る。凜太の様子に気づかないふりをしながら、春子は脳天気に声をかけた。

「若の誕生日でもありますね」

「ええ」

「何が食べたいですか?ケーキ?」

「ケーキなど、一度も食べたことはありません」

 母親として年に一度の息子の誕生日ならばケーキくらい買いたいだろうが、家の権限はすべて家元にある。七月七日の誕生日であっても、祖母が好む和食以外許されなかった。

「気にしないで下さい。本日の結婚式で、美味しいご馳走が出るみたいです。おめでたい日ですし、これ以上の贅沢は罰が当たります」

 安心させるように、凜太は笑顔を作る。春子はそれ以上何も言わなかった。

 親戚中を回り挨拶を交わすと、ようやく席についた。家元の回りはまだ人が集まっている。同じ席ではないため、凜太は少し安堵した。

 大きなシャンデリアが煌々と光り、輝きに負けないほど新婦のウェディングドレスを照りつける。純白のドレスに身を包み、照れたように目を伏せながら微笑んでいる。隣に佇む一馬も、笑みを一切崩さない。それが却って恐ろしく見えた。

 愛を誓い合い、新郎がヴェールを上げる。唇が触れ合うと、会場中から拍手が沸き起こる。凜太は目を伏せ、膝の上で拳を作った。


 料理どころか水にもほとんど口にせず、凜太は半日ほぼ胃に何も入れていない。朝食も喉を通らなかった。天候は二人の結婚をお祝いするかのように、雲一つない。それが凜太の身体を蝕んでいく。岩燕が飛び回り、新郎新婦を祝福しているかのようだった。

 二次会は参加しないと伝えると、春子は渋った。おめでたい日だと言われても、凜太は頑なに首を振った。これ以上、一馬と同じ空間にはいたくなかった。

「参加したくないって言ってんだから、無理することないでしょうよ。私の車で送っていくわ」

「亜紀も参加しないのですか?」

「めんどくさい。それにアンタ、ご飯食べてないんでしょ?帰り食べていくわよ」

 ばっさりと母の言葉を切り捨てたのは、凜太より先に生まれた亜紀だ。頭を抱える春子をよそに、亜紀はさっさと運転席に乗った。

「姉さん、ありがとうございます」

「どういたしまして。私、ああいう場嫌いなのよね。めでたいけど」

「姉さんが嫌いなのは家元でしょう?」

 こつん、と頭に拳が乗る。

「分かってらっしゃる。肩が凝るのよね。私のせいでアンタが重荷になって申し訳ない」

「茶を点てるのは好きですから、重荷にはなっていませんよ」

「そっちじゃないわ。あんなのに惚れるなんて、先に気づいた時点で止めておけばよかった」

 瞬時に何を言っているのか理解できなかったが、すぐに一馬の話だと分かった。赤信号で車が止まり、亜紀は背もたれに身体を預けた。なんと答えようか考えあぐねていると、亜紀は嘆息を吐く。

「軽蔑しないんですか」

「なんで?」

「まともじゃない」

「あのね、私のいる世界ではいろんな人がいるの。人種も含めて千差万別よ。私からすると一馬の方がまともじゃないわ。クラゲみたいな生き方してると思ったらいきなり結婚だもの。どうせあいつから手出したんでしょ」

 私がいる世界とは、宝石の世界だ。姉は宝石商として、日本に留まらず世界を渡り歩いている。

「望んだのは私です」

「でも未成年に手を出した。アウトよ」

「私も終わりが近づいていると悟っていました。私はいずれ子を成して跡継ぎを作らなければならない存在です」

「出来るの?」

 答えが出ないまま、信号が青に変わる。こうして町の風景を見ると、同性同士で手を繋ぐ人など一組もいない。どれだけ異常か重くのし掛かる現実は、回りにいくらでもある。

「出来る出来ないとは考えていません」

「古臭い考えね。家元そっくりで吐き気がするわ。今は養子縁組もある時代なのに何言ってんだか」

「そこ、右に曲がって下さい」

 急にブレーキを掛けられ、凜太は足を踏み込み耐えた。横の亜紀は苛立ちを隠せず凜太を睨んでいる。凜太の案内で車が停止した場所は、河川敷だった。

「此処で大丈夫です」

「サッカーまだやってたの?」

「いえ、見てると落ち着くだけです」

「そう。もう行くけど、ちゃんとご飯食べなさいよ」

「はい」

 車を見送り、凜太は整地された草地を歩き、空いているベンチに座った。河川敷では、サッカーとスケートボードをしている人で溢れている。ベンチの横に、飛蝗が一匹張り付いた。後ろ足で高々とジャンプし、草むらの中へ消えていった。

 コート内のベンチには、控えの選手とマネージャーが座っている。淳之の幼なじみの岡田奈々子だ。先に岡田が気づき、凜太を訝しげな顔で見ている。あまりの視線の強さに落ち着かなくなり、凜太は帰ろうかと思っていた矢先に、ちょうど試合終了の笛が鳴った。

 結果は選手たちの喜び方で歴然だ。ゴールキーパーの淳之は首を傾げ、肩を竦めただけだった。女性の応援団もいて、凜太は声が掛けられなかった。

 お尻を払い、凜太は土手まで登ると、もう一度サッカー場を見る。岡田は選手たちに飲み物を配っていて、もう凜太を見ていない。岡田の代わりに、淳之と目が合った。身振りで何かを伝えようとし、それが喫茶店を差しているのだと理解した凜太は大きく頷く。ふと、笑った気がした。


 個人営業の喫茶店は、レトロな雰囲気で凜太には居心地の良い色彩だ。木の香りがし、まばらであるため、凜太は奥のソファー席に腰掛ける。

 アイスコーヒーを注文し、三十分ほど待つと淳之がやってきた。ひとりではなく、数人のサッカー部を引き連れてだ。だが淳之は手を上げると別れ、辺りをキョロキョロと見回し、凜太を見つけては席に直行した。

「お疲れ様でした」

「おう。目立ってたぞ。いつもの着物じゃなくて、今日はスーツか?」

「……ちょっと」

 淳之にはあまり触れられたくない話だったが、待つ姿勢の彼に観念し、凜太はため息混じりに答えた。

「結婚式だったんです」

「へえ、めでたいな」

「ええ……本当に。八重澤さんも会った、一馬兄さんを覚えていますか?」

「あの個性的な車の?叔父だっけか」

「あの人の結婚式です。この前家に来たのは、結婚式の招待状を届けに来たからなんです」

 淳之はコーラを注文し、ストローも使わず一気にぐいっと飲み干した。男らしい飲みっぷりだ。

「今日は遅くても平気か?」

「家元たちは、二次会に参加してますから」

「ならちょっと付き合わないか?」

 付き合うの単語に、凜太は少しだけ驚いた。

「どちらへ?」

「腹減ったからスーパー。で、家」

「ぜひ」

「ちょっと顔色悪いぞ。食べてるのか?」

「喉が通らないんです。水も飲めなくて」

「ならすぐ飯の支度するから手伝ってくれ」

 アイスコーヒーは半分ほど残し立ち上がると、サッカー部員は皆凜太たちを見ていた。中には幼なじみの岡田もいる。意味ありげな視線で、凜太は目を合わせられなかった。

 駅前のスーパーに寄り、ふたりで寄り添いながら淳之は食べたいものを聞いた。

「さっぱりしたものは?」

「それなら食べられそうです」

「けどせっかくだから実家で出てこないものをリクエストしてくれ」

「洋食?」

「それなら肉だ。さっぱりした肉」

 結局、淳之は肉が食べたいだけなのだ。含み笑いをすると、淳之もつられて笑う。割引シールの貼られた豚肉を取り、凜太に傾けた。

「うわ、すげー食いたい。洋食じゃないけど、冷しゃぶはどう?」

「好きです」

 淳之の視線の先には、デザートのコーナーにあるケーキだった。七夕に便乗した商品が並び、天の川に見立てたロールケーキは、星のチョコレートが付いている。

「甘いものは好きだよな?」

 断定した言い方は、入学式に桜餅を平らげたことを覚えていての聞き方だ。

「ケーキって美味しいのですか?」

 カゴに入れようとした淳之の手が止まる。

「そこまで和食にこだわるのか」

「こだわっているわけではありません。家元が好きでないだけです。食事も家元の権限が働きます」

「結婚式でどんな料理が出たんだ?」

「和食です」

「徹底してるな」

 豚肉とロールケーキ、そして野菜を何種類か買い、ふたりはスーパーを出た。

「ケーキ……本当に買いましたね」

「心配か?苦手だったら俺が全部食う」

「多分、好きだと思います。そうではなく、ケーキは特別な日に食べるものと伺っていたので」

「何も無くても食べる家庭はある。けどだいたい、クリスマスとか入学式とか、誕生日とか」

「……ありがとうございます」

「……おう?」

 家に着くと淳之は再びシャワーを浴びると言い、コーラをグラスに用意するとすぐにキッチンを出ていった。せめて野菜は切っておこうと、サラダ用のレタスや玉葱を切り、水にさらした。シャワールームへ消えてから三十分経ち、シャツに短パン姿で現れた。

「本日もお父上はいらっしゃらないのですか?」

「今日は泊まりで関西。けどいつもいないわけじゃないぞ。昨日まではいた」

 鍋にお湯を沸騰させると、肉を茹で、水で冷やす。水気を取り皿に並べれば完成する。あとは冷凍ご飯を解凍し、サラダも盛り付けた。よほどお腹が減っていたのか、淳之は無言で食べ進めた。

「喉を通らないかと思いました。こんなに量を多く食べたのは久しぶりです」

「良かったな」

「朝と昼を抜いたせいもあるかもしれません」

 ソファーで落ち着いていると、淳之はケーキを切り分け、持ってきた。水滴の付いたグラスの中身はアイスコーヒーだ。

「どっちかっていうと、冷しゃぶよりこっちがメイン」

「本当に頂いても?」

「そんなかしこまるほどのもんじゃないぞ」

 生クリームがたっぷり詰まったロールケーキは、生地はふかふかで卵の色がしっかりと色付いている。

「……本日は、まことにありがとうございます」

「急にどうした?」

「結婚式で少々、色々あったもので。特別な日に、特別なものが食べられるとは思ってもみませんでした」

「特別な日?七夕か?」

 言いあぐねていると、淳之ははっと気づいたようだ。

「もしかして……今日誕生日か?」

 凜太は小さく頷いた。

「なんでそれ早く言わないんだよ。これも二割引きのケーキだぞ」

「値段の問題ではありません。とても嬉しいのです」

 凜太はこれ以上のない微笑みを見せた。

「これで本当にいいのか?好物のホヤはないけど」

「ちなみに今が旬です」

「詳しいな。いやそうじゃなくてよ」

 淳之はソファーに深く腰を入れ、息を吐いた。

「俺と過ごしてていいのかよ」

「大変、名誉なことです」

「名誉って……結婚式で何かあったのか?」

 今度は、凜太が大きく息を吐く番だ。そうしなければ、昼間から抑えていたものが溢れ出しそうになるからだ。だがそれは無意味で、心配そうな声に、凜太の限界は超えた。ぼたぼたと垂れ落ちる涙は、スーツに吸い込まれていった。

「わざわざ、誕生日に結婚式を挙げなくていいと思いませんか?当てつけです、こんなの」

 淳之は突然の告白に衝撃を受け、息を潜めた。

「死人のような顔をして、唇を合わせても拍手をしていないのは私だけでした。こんなに、心が狭い人間だとは思わなかった」

「好きだったのか」

「初恋です」

「付き合ってた?」

「私の願望でしかありません。相手は私を性欲処理程度にしか思っていませんでしたから」

「せっ……」

 淳之は頭をぼりぼり掻き、目を泳がせた。

「いずれは別れなければならない相手でしたので、遅かれ早かれこういう時期はやってきました。それが今というだけです」

 凜太は差し出されたティッシュを受け取り、涙を拭いた。

「今は、何とも思っていません。ただ、ずるいです。私にだけ気持ちを押し付け、彼は結婚に走る。しかも私の誕生日に式を挙げる。未練がましさもありますが、恋愛感情とは違う未練なんです」

「そりゃあそんな別れ方をすればなあ……彼?」

「彼、です」

「勘違いだったら悪い。付き合ってた人って……一馬さん?」

「付き合ってはおりません。私の一方的な片想いで、性欲処理の相手です」

「わ、判ったって。その顔で連呼されるとギャップありすぎて戸惑うわ」

 凜太は不可解な顔で、もう一度ティッシュで涙を吸い取った。

「私を何だと思っているのですか?ただのお坊ちゃん?おとなしく見えるのは、喘息があるために興奮して怒りに任せるとまた倒れるからです。一度、怒り狂って喘息が発症しています」

「葉純のこと、少し理解したよ」

「普通は新婦側の方とお付き合いをしていたと思い込みますよね」

「それは俺の視野が狭いせいだ」

「あなたが正しい。八重澤さんは、普通に生きてほしいと思います。私のように、道を外れては駄目です」

「ちょっと待て」

 低い声が更に低くなり、淳之は凜太の細い肩に手を乗せた。

「普通ってなんだよ」

「女性と結婚し、子供を作ることです」

「古臭い考えだな」

「姉にも同じことを言われました」

「それが幸せだと思い込んでるなら、捨てろ」

「なぜ、あなたが怒るのですか」

「卑下するからだ」

「ではあなたは私とキスができますか」

 凜太は強い口調で言い放った。淳之はたじろぎ、手をもう片方の肩に乗せる。大きな影が覆い被さり、影の正体は凜太の肩を撫でた。小さな肩は震え、やがて唇が重なると凜太は驚愕し身体をさらに震わせた。一度離されもう一度重なり、次はおとなしく受け入れた。ほのかに香る石鹸の香りが、凜太の性欲を刺激した。

「あなたは……おかしい」

「どうして泣くんだ」

「話を聞いていましたか?」

「聞いた結果だ」

「あなたを待つ女子生徒のファンに聞かせてやりたい」

「なんでいきなり出てくるんだよ」

「差し入れを沢山貰っていました」

「断る方がおかしいだろ」

「面倒くさくて嫌になります」

 はあ、と吐息混じりに声を出した。

「面倒?」

「自分がです」

「嫉妬してたのか」

「そう……はっきりと、言わないで下さい」

 段々と声が小さくなり、凜太は横を向いた。

「なんか、可愛いな」

「ばか」

 淳之は豪快に頭を掻くと、再び凜太の肩に手を添えた。不穏な空気を感じ取り、凜太は距離を取ろうと試みるも此処はソファーの上だ。

「ちょっと」

「俺さ、女子が恋愛対象ってずっと思ってて、誰に教えられたわけでもないのにそれが普通だと思ってた。回りにいる男女は夫婦で、子供がいて家族が出来上がるもんだと思ってたからさ」

「雰囲気に呑まれない方がいいですよ。八重澤さんは毒されてる。男性同士なんて上手くいかないに決まってる」

「今の話だと、男女なら上手くいくって聞こえるんだが」

「その通りです」

「俺の母親は失踪してるんだけど」

「………………」

「男女なら上手くいくなんて幻想だぞ。俺の叔父にあたる人は結婚して半年で離婚してるし」

「あなたの気持ちが判らない」

「どうせ言っても信じないだろ」

「はい」

 断言すれば、淳之はうなだれた。

「どうすりゃいいんだ……」

「あなたはキスしなければ良かったんだ。私はそれ以上を期待してしまう。身体が反応してしまうんです」

「はっきり言うな」

「ありのままに言うと、あなたで抜いています」

 もはや淳之は絶句するしかない。

「そういうことです。結局行き着く先です。あなたは私を抱けますか?」

「いや、いきなりそれはないだろ」

「一馬兄さんとは、いきなりそこからでした」

「お前の家族を悪く言うつもりはないけどよ、それはおかしい」

「確かに。ちょっと早すぎたかと思います。私の家族は女性ばかりなので……友人もほとんどおりませんから。身体の変化にいち早く気づいてくれ、私の部屋で行われました。小学生の頃……十二歳でした」

 いきなり恥ずかしい格好にされ、無理矢理手でされた後はついでと言わんばかりに口付けを交わした。度々部屋や車の中で、そのような行為が行われた。

「中学生になり、しばらくしたら兄さんは家にすら近寄らなくなりました。私に飽きたのでしょう。そして、久しぶりに会ったと思ったら婚約を交わしたと。中学三年の夏でした。八月に温泉旅行へ行った帰りに、終わりにしようと言われ、本当に終わりました」

 かける言葉もなく、淳之は黙したまま耳を傾けた。

「この間会ったときは本当に久しぶりの再会だったのか」

「ええ、八月から入学式まで一度も」

「もう微塵も心は渡してないんだよな?」

「それはありません。私も受験生でそれどころではなかったですし、どちらにせよ私も会おうとしませんでした。ただ、私も人の子ですから、誕生日に結婚式を行われて招待され、苛立ちはありました」

「なら葉純が誰と付き合おうと問題ないな」

「それは……まあ」

 体育会系の力の前では、逃げられなかった。三度目の唇を受け止め、逞しい腕に手を添える。

「付き合ってほしいとは言いません。曖昧な関係でいい」

 逃げの言葉であり、弱いと自覚していても、凜太は言わずにいられなかった。心をすくい上げた淳之は、抱き締めるだけで沈黙という答えを出した。

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