第2話 悪戯

 八月下旬になり、中学最後の夏休みももうすぐ終わりを迎えようとしていた。開けた障子の組子には、蜻蛉が一匹止まり、羽を休めている。秋はもう目前だ。

「凜太さん、お飲物とお茶請けはいかが?」

「ありがとうございます。休憩しようと思っていたので、嬉しいです」

 幼い頃から凜太の面倒を良く見てきた女中の春日は、襖を開けて卓子にお盆を乗せた。

「甘酒ですか?」

「私も昔はよく飲んでおりましたよ。凜太さんは食が細いから、少しでも栄養になればと思って」

「甘酒は夏の季語ですね。風情があります」

「よう知っていらっしゃいます。私も子供の頃は身体が弱く、よく親に飲ませられていたんですよ。酒屋のトメさんとこの甘酒で、今年も花火大会で販売するんだって張り切っていました」

 お茶請けには春日の漬けた蕪と茄子の漬け物だ。

「茄子もこれからが美味しい季節ですね」

「ええ、凜太さんはいつも美味しいって言って下さるから、作り甲斐がありますよ。勉強頑張って下さいね」

 春日が立ち去ると、凜太は甘酒に口を付けた。甘みは強いが喉越しが爽やかで、冷えた液体は喉を潤していく。爪楊枝で茄子を刺し、甘みが口に残る中噛み締める。塩味のある漬け物は甘酒によく合っていた。

 お盆を下げに台所まで行くと、母の春子が夕食の支度を始めていた。

「家元は本日、麻生さんと泊まりで温泉旅行に出掛けました」

「そうですか」

 温泉と聞き、動揺せずにはいられなかった。叔父の一馬と旅行に出掛け、帰り際に振られた経験は今でも尾を引いている。凜太にとって、生まれて初めての失恋だった。元から実らない恋だと分かっていても、いざ突きつけられると放心状態になり、何日もご飯が喉を通らない日々が続いた。それが夏バテへと繋がってしまった。

「温泉といえば、若が倒れた日、写真家の八重澤さんの息子さんに助けられたでしょう」

「え、ええ……あのときはご心配をおかけしました」

「明日は気温が少し下がるのよ。お詫びの品を届けて頂けますか?」

「判りました」

「花火大会だし、そのまま河川敷へ行ってきても構いませんよ」

「まさか。私は受験生です」

「一日くらい休んでも罰は当たりません」

 行くような友人はおらず、凜太にとってあまり嬉しい話題ではなかった。

 翌日、起床すると母の言う通り気温は低く、いつもより汗ばみが少なかった。午前中は勉学に励み、昼食を食べた後気温の下がる夕方頃を見計らって、凜太は浴衣に袖を通した。

 下駄の音は風流だと凜太は感じる。アスファルトの上を歩けば安らぎを覚え、いつまでも鳴らしていたくなる。

 八重澤のお宅にやってきて、凜太はブザーを鳴らした。もう一度鳴らすが、誰も出てこない。気温がいつもより低いとはいえ、背中が汗ばみ鎖骨に汗が流れ落ちる。戻ろうとした矢先、ボールを蹴る音が聞こえた。凜太も何度も聞いた音だ。女性と何か言い争っている声が聞こえ、隠れようとしても物陰などない。やがて、相手も凜太に気づいた。

「……葉純?」

 名前を呼ばれたのは初めてだった。泥のついた顔や腕をそのままに、ひどく驚いた顔をしている。凜太は深く頭を下げた。

「どうしたんだ?具合は良くなったのか?」

「お陰様で。こちらは私の母の春子からです」

 中身は分からないまま、瓶包みを手渡した。

「ねえ、その子誰?中学生よね?」

「いいだろ、誰でも」

「良くないわよ。隠し事しないでっていつも言ってるでしょ」

「ちょっとした知り合い」

「それじゃ判んないわよ」

 またも言い争いを始めた二人に、凜太はもう一度お辞儀をすると踵を返そうとするが、腕を淳之に掴まれてしまった。

「待てよ。寄ってけ」

「でも」

「親父もいねえんだ。また倒れられたら困るし、冷たいものでも出すよ」

「……後悔しませんか?」

 淳之は困惑した表情を浮かべた。凜太を睨む女性に、淳之は家に帰るように促す。女性は淳之にまた怒鳴りつけると、道路を挟んだ向かいの家に入っていった。表札には「岡田」と書かれている。

 腕を放そうとしない淳之に観念し、凜太はお言葉に甘えることにした。玄関には男性物の靴が数足置かれ、女性物は見当たらない。リビングはサッカーのトロフィーや、賞状などが飾られていた。

「さっきの悪いな。幼なじみなんだ。岡田奈々子っていって、サッカー部のマネージャーで、同い年の高校二年生」

「親しい間柄なんですね」

「母親のいない俺を同情してるのか、口うるさいんだ。よく喧嘩してる」

「心配してくれる方がいらっしゃるのであれば、大事になさるべきです」

 淳之は瓶包みの中身を開けた。

「甘酒だったんですね」

「知らずに持ってきたのか」

「母に渡されたので」

「冷蔵庫だな、これは」

 甘酒を冷蔵庫に入れると、淳之は代わりにコーラを取り出し、氷を入れたグラスに入れ凜太に差し出した。

「さすがに汗臭いから、シャワー浴びてくる」

「……浴びるんですか」

「臭いだろ?ちょっと待っててくれ」

 残された凜太はソファーに座り、額縁の中の賞状を見る。小学一年生の頃から何かしら受賞し、トロフィーもある。それが二位であれ一位であれ、凜太には尊いものに見えた。

 グラスの中の氷がカランと鳴り、凜太の眠気を誘った。


 目を開けると辺りが暗闇で、慣れるまでに時間がかかった。外からは人の楽しげな笑い声が聞こえてくる。膝には薄手のタオルケットが掛けられていた。

「起きたか?」

 声のする方はキッチンで、そちらは明かりが煌々としている。

「すみません。寝てしまいました」

「いいよ。家の人に連絡しなくて大丈夫か?」

「花火大会にでも行けと言われていたので、問題ないです」

 凜太は大きく背伸びをし、キッチンに足を踏み入れた。

「肉焼くけど、好きか?」

「はい」

「本当に?」

「……はい」

「一番好きな食べ物は?」

「ホヤです」

「飲んべえになりそうだな」

 ソースに漬けた豚肉をフライパンに落とすと、食欲をそそる香りが充満した。

「私の祖母はあまりお肉を食べない人なので、ほとんど魚なんです」

「ばあちゃんが実権を握ってる感じか」

「ええ。好きだからいいのですが、たまに違うものが食べたくなります。ホヤとか」

 皿にはすでにキャベツの千切りが盛られている。みそ汁はレトルトのもので、乾燥した豆腐とワカメがまだ膨らまない状態で入っている。焼き上がった豚肉を皿に盛れば、生姜焼きの完成だ。

 ポットからお湯を注ぎ、味噌汁を作るとテーブルに並べた。

「また私がお世話になってしまいました」

「ひとりで食っても味気ないだろ」

「お父上は?」

「仕事で北海道に行ってる」

 豚肉はしっかり味が染みていて、生姜が利いている。凜太はパリパリとキャベツを噛んだ。

「サッカーに対する愛情が伝わってきます」

「この部屋に帰ってくるたび、俺もそう思う」

「プロになるのですか?」

「まだ、さすがにそこまでは」

「でも、少しは思うところがあるんでしょう?」

「結構攻めるんだな、お前」

 淳之はぼりぼりと頭を掻いた。

「親父の跡継ぎたいってのもあるんだ」

「カメラマンですか?」

「同時進行で、そっちもやってる」

「選べる夢があるのは素晴らしいです。とても美味しい生姜焼きでした。食べますか?」

 四枚のうち、余った二枚を差し出した。

「母親が失踪して、男手一つで育ててくれたんだ。感謝してる」

「そうだったんですか」

「葉純はやりたいことないのか?」

「生まれたときから跡継ぎと決められてますから。お茶を点てるのは好きだから良いのです」

「兄弟はいないのか?」

「姉がいます。宝石店で働いています」

「早々と離脱したわけだ」

「性格的にも、私の方が向いていると思うので」

 凜太の分けた二枚の生姜焼きも、淳之は腹の中に収めていく。

「父は……亡くなっていますから、今は祖母が家元なんです」

 話すべきではない宗家の話を、気づいたら口にしていた。誰かに聞いてもらいたかったのかもしれないと、そう言い訳した。

「母親じゃなく?」

 淳之は嫌がりもせず、耳を傾けた。

「葉純家に嫁いできて、僕が生まれて間もなくのときに父は亡くなりました。母の春子と家元の千鶴子は血が繋がらないんです。春子は頭が上がりません。それは僕もですが」

「複雑だな」

「姉は家元に逆らいますが」

 淳之は声を出して笑った。

「姉が家を継ぐのに向いてない理由が何となく判ったよ。西瓜は胃に入るか?」

 凜太は小さく頷いた。ふたりで片付けをしていると、外でドンという音が響き、心臓が跳ね上がった。花火が始まった。外から歓声が聞こえ、凜太も庭の方へ目を向ける。

「花火見ながら食うか」

 切り分けた西瓜を縁側に置き、ふたり並んで腰を下ろした。火種が上がり、大きな傘が開いた。見上げる人々を包んでいく。ハートの形や、どこかで見たアニメのキャラクターが歪な形で宙に舞った。

「こうして人と花火を見たのは、初めてかもしれません」

「俺も。親父は日本中飛び回っているしな」

「いつもひとりでご飯を召し上がってるんですか?」

「だからこそ、いるときは絶対にふたりで取るようにしてる」

「少々、憧れます。私の家は人が多いですから、時々ひとりになりたくなるんです」

「お互いに無い物ねだりだな」

 覗き込む顔は穏やかで、普段のぶっきらぼうな顔とは違って見えた。凜太は、不器用な彼の優しさが心地良いと感じた。


 秋になり金木犀の香りが風に靡き、冬になれば木枯らしが吹き、枯れ葉の運動会が始まる。受験は推薦ではなく、敢えて一般入試で受けた。家元は大いに反対したが、凜太は断固として譲らなかった。

 制服はブレザーに変わり、凜太は慣れない手付きでネクタイを締める。何度かやり直しても曲がってしまい、結局は女中の春日により教えてもらった。

「凜太さんも、もう高校生なんですねえ。身長が随分と伸びましたね」

「膝がぎしぎしと鳴るときがあります」

 母と共に高校の校門を潜り、凜太は特進クラスに入った。名前の知らない顔見知りは数人いた。

 親同士が与太話を始める中、凜太は持ってきた本を開いた。クラスに馴染むには最初が肝心だが、凜太は特に興味を示さなかった。

 有り難い校長の長話も終え、教室に戻ると野次馬が集まってきている。特進クラスを見渡しては口笛を吹き、からかう輩もいた。

 校舎を回り、凜太はグラウンドの前を通った。入学式だというのに、すでに部活動は行われている。凜太は近くまで行き、縦横無尽に走り回る彼らに目を凝らした。

「凜太……」

 嘆くような声で、春子は凜太の肩に手を回した。若ではなく、凜太だ。

「きっと、またいずれ出来るようになりますよ」

「もう諦めています」

「前よりも、お薬は少なくなったでしょう」

 枝が揺れ桜の花びらが目の前を掠めた。春の風は桜の甘い香りがし、凜太はふいに桜餅が食べたくなった。

「春子さん、桜餅が食べたいです」

「まあ……それなら帰りにスーパーにでも寄りましょうか。でも春日さんが今夜はちらし寿司を拵えてくれるそうですよ」

 引き返そうとしたときだ。足下にボールが転がり、前も似たようなことがあったな、とふと思う。サッカー部の少年が、凜太を見て大きく手を振っていた。

 凜太は左足で蹴り、男は胸元で受け取った。もう一度頭を下げた少年は、グラウンドの中心へ戻っていった。

「サッカーやってたのか?」

 低めの声にどきりとし、足を止めた。此処にくれば会えるかもしれないと、凜太は少しだけ期待をしていた。

「八重澤さん」

「久しぶり。声良くなったな。ガラガラ声じゃなくなった」

「八重澤さんは背が伸びました」

「お互い様だ」

 淳之は春子に向かい、頭を下げた。二度も凜太を助けているため、すでに顔見知りであることに凜太は背中が痒く感じた。春子は気を利かせて早々に立ち去り、必然とふたりきりになる。ふたりがこうして顔を会わせるのは、去年の花火大会以来だった。

「サッカー経験あるのか?」

 先ほどの質問は見逃しはせず、繰り返した。

「昔……少しだけ」

「ふうん。ちょっと蹴っていくか?」

「え」

「少しなら大丈夫だろ?無理にはすすめないけど」

「……前ほど喘息は酷くないので」

「ならグラウンド行こう」

 入っていいものか迷ったが、淳之は振り返り、早くこいと圧力をかけた。こうなれば動くしかなく、少し距離を置いて後ろ姿を眺めた。広い背中に伸びに伸びた上背は、凜太には到底届かないもので、少し嫉妬する。

 真新しい制服に身を包んだ新入生に、皆が注目し始めた。グラウンドといっても真ん中を陣取るわけではなく、端で淳之はボールを手に取った。地面は桜の花びらで覆われ、凜太はいっぱいに空気を吸った。

 リフティングを何度か繰り返し、淳之は視線を送る。凜太と目が合うと、加減された力でボールを蹴った。受け取ったボールで、今度は凜太がリフティングをし、十回ほど続けるとパスをした。

「先ほどは、なぜ私に経験者か聞いたんですか?」

「蹴り方が素人じゃないなって思った。それに陸上部もいたのに、ずっとボールを目で追ってただろ?サッカーに興味があるんだなと」

「あなたがいないか、見ていただけです」

 ボールの軌道がいきなり変わり、凜太は足を伸ばして止めた。

「止めろよ」

「?何がですか?」

「そういうの」

「サッカー?」

「違う。もういい。それよりリフティングもなかなか上手いな。どのくらいやってた?」

「数年間です。大した実力じゃない」

「ポジションは?」

「……ゴールキーパー」

 淳之は目を見開いた。凜太は力を込めてボールを蹴るが、軽々と止められてしまう。これが経験の差だ。

「自ら選んで?」

「ええ、手も使える面白いポジションだったので」

「そう考えるとその通りだな。唯一、キーパーだけだ」

「八重澤さんは?」

「人気があったのはフォワードで、俺は漏れてやらされたんだ」

「嫌々ですか」

「その言い方」

 はは、と声に出して淳之は笑った。気づけば、回りには人だかりが出来ていた。新人を見るため集まっただけではないと凜太が知ったのは、女子生徒に囲まれていたためだ。皆が淳之を見て興奮気味に話している。

「アツ、新入部員か?」

 親しげな様子から、淳之の同い年だろうと凜太は察した。ボールを受け止め、軽く頭を下げる。

「違う。ちょっとした知り合いで、サッカーやってたっていうから蹴りたくなっただけだ」

「一緒に入るか?」

 凜太は頭を振り、もう帰りますと伝えた。身体が汗ばみ、これ以上してしまったら限界を超える。

「俺も帰るわ」

「やってかないのか?」

「念の為、病院行ってくる。ほとんど大丈夫だけどな」

 ボールを片付け、淳之は行こうと促した。女子生徒の固まる横をすり抜けると黄色い声が上がるが、淳之は見向きもしない。凜太は居心地が悪くなった。

「怪我ですか?」

「腕の捻挫だ。もう治ってるけど、湿布切れたからついでに貰いに行く」

「なら私も行きます」

 診てもらう病院とは凜太も行きつけの診療所のようで、凜太はついでに喘息の薬も貰うことにした。

 診療所への道も桜の香りで満たされ、上を見ながら道のりを進んでいく。春は凜太の好きな季節だ。過ごしやすく、美しい花も咲く。家での勉強も、障子を開ければすぐ目の前は桜の木だ。池では鯉が泳ぎ、鹿威しが音を奏でる。

「凜太君はそろそろ来る頃だと思ったよ。いつもの薬だね」

「お願いします」

「八重澤君は湿布だね。痛みはあるかい?」

「無いです」

「もう完治する頃だけど、無理はしないように。痛みがあるままサッカーすると、変な癖がつくだろう?」

「はい」

「一週間分出しておくよ。調子が悪かったらまた来てね」

 一度にふたり入れられ、如月医師はにこやかな笑みを浮かべてすぐに問診は終わった。適当といえば適当だが、確かな腕も持っている。凜太は子供の頃から信頼していた。

 此処を出れば凜太はまたひとりで帰り道を歩く。だが淳之は、家まで送ると言い出した。

「そんなに離れてません」

「サッカー誘ったのは俺だ。倒れられたら困る」

 押し問答を繰り広げていると、後ろからクラクションを鳴らされた。淳之は咄嗟に凜太を庇うが、見覚えのあるフォルムに凜太は驚愕する。そして、自然に淳之から距離を取った。アメリカ車のような独特の形状の車は、凜太の知る限り持ち主は一人しかいない。

「一馬兄さん……」

「制服似合ってるなあ。もう友達できたのか?身長伸びたじゃないか」

 メールの一つも連絡を取っていないのに、まるで昨日会ったような口振りだ。小言の一つでも言いたくなったが、今となっては凜太にはそのような権限はない。

「お友達もこんにちは」

「こんにちは」

「乗ってく?凜太の家に向かおうとしてたんだろ?」

「えっと……」

 困惑気味に、淳之は凜太を見つめる。凜太は母親の弟で、叔父に当たると説明した。

「俺も凜太の家に行く予定だからさ。今日家元いないんだろ?近畿地方に行ってるって聞いたけど」

「相変わらずそういう情報は早いですね」

「俺あの人苦手だし。ほら、乗って」

 こうなれば、もう乗るしかなかった。ふたりで後部座席に座り、おとなしくシートベルトを締める。ふんわりと、甘い香水の香りがした。それは叔父が付けているものではなく、察した凜太は俯いて耐えた。

 大した距離ではなくすぐに着いた。屋敷の庭には見事に桜が咲き誇り、淳之も口を開けたまま宙を見上げている。

「八重澤さん、良ければ中に入って下さい」

「いや、でも」

「母が桜餅を買っています。久しぶりにボールを蹴って楽しかったので、お礼に」

「八重澤って言うの?もしかして写真家の八重澤敦史さんの息子さん?」

「すみません、ご挨拶が遅れました。八重澤淳之といいます。八重澤敦史は父です」

「やっぱり!この辺で八重澤っていないからなあ」

「いいから入りますよ」

 玄関先に出迎えた春子は、凜太を見ては笑顔になり、一馬を見ては呆れた顔をし、淳之を見てはにこやかに微笑んだ。凜太は一馬とは近くで会ったことを説明した。

「上がって下さい。ちょうど桜餅を買ってきたので、凜太の部屋で待っていてね」

「ありがとうございます」

「春子、俺もね」

 淳之を部屋に案内し、空気の入れ換えも兼ねて窓と障子を開けた。鯉がぱしゃんと水を跳ね、池の中を優雅に泳いでいる。水面には花びらが舞い、桃色の絨毯が敷かれていた。

「綺麗だなあ。こんなに広い屋敷で迷わないのか?」

「慣れました。子供の頃は迷子になった経験があります」

「だろうな。部屋は勉強道具一色か」

「運動が出来ないので、本を読むか勉強するしかありませんから」

「頭が良いのは入学式で証明された」

 入学式では新入生から代表で一人、校長から入学許可証書を受け取る儀式がある。選ばれるのは成績がトップだった者だ。大抵は特進クラスから選ばれるが、今年も例外はなく凜太が選ばれた。

 春子が持ってきてくれた桜餅は、花柄の皿に二つずつ置かれている。氷で冷やされた新茶を飲み、淳之はグラスを傾けた。

「いつも飲んでいるものと比べると苦みが少ないな」

「一番茶だからだと思います。二番茶や三番茶に比べ、カテキンが少ないんです」

「美味いってことか?」

「好みは人それぞれですね……二番茶や三番茶はカテキンも多く、僕はお茶らしくて好きですが。一番と付いているから一番美味しいとは違います」

 和菓子店で購入した桜餅は、春子の行きつけの店だ。関東風と関西風の桜餅が一つずつあり、凜太は関東風から口にした。

「親に敬語を使ってる人初めて見た」

「春子さんも、私に敬語を使いますよ。私は将来の家元になりますから」

「息苦しくないか?」

「さあ……他の家庭も経験していれば、何か思うことがあるかもしれません」

 桜の枝が揺れら花びらがお盆の上に舞った。

「生まれたときから決められた運命と、選べる道がある人。どちらが幸せなんでしょうね。お茶を点てるのは好きなので、反抗心はないんです。ただ」

 散る桜を見ながら、枝で休む小鳥を見た。春告鳥は辺りを見回し、しきりに鳴いている。警戒心の強い鳥であり、人前に現れるなど珍しい。

「家元になる資格はないんです」

「なんだそれ」

「私はまともではないと言っておきましょう」

 含みのある言い方にも怒らず、淳之は黙って耳を傾けた。それが凜太にとって、とても心地良かった。

 夕食は流石に帰ると言い、淳之はさっさと後ろを振り向いた。凜太は背中が見えなくなるまで見送っていると、背後にいる一馬に気がつかなかった。

「早々に彼氏できたの?」

「止めて下さい」

「なんで?年頃なんだしいたっておかしくないじゃん」

「おかしい。断じておかしい」

「何がよ」

「普通は彼女です。彼氏ではない」

「でも好意はあるんでしょ?」

 おちょくるような言い方から、真剣な言葉遣いに変わる。こういうところはずるいと、 凜太は思う。

「私……だけです。彼は知らない」

「そう、なら協力してあげよっか?」

「結構です」

「結構って便利な言葉だよ?肯定にも否定にもなるんだから」

「………………」

 凜太は屋敷に戻ろうとすれ違うと、手首を掴まれた。振り払うより先に後ろから抱き締められ、顎を無理矢理持ち上げられ唇が触れる。ほんの一瞬だった。

「今日此処に来たのは、結婚式の招待状を届けに来たんだ。夏に挙式予定だから、リンちゃんも来てよ」

 呆然と立ち尽くす凜太をよそに、一馬はさっさと車に乗り込んだ。

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