恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか
2-1.不破 陽染 <1>
ふと、昔のことを思い出す。
俺の両親は昔から放任主義の自由人で、俺を放置して世界中を飛び回っていることが多かった。そして現地で仲良くなった人をすぐ家に招くものだから、色んなタイプの人間を見てきた。
そんな中、特に印象に残っているのは、聞いたこともない国の占い師。
一週間ほど家に泊まるというので食事の世話をしていたら、家を出る前にお礼と言って俺のことを占ってくれたのだ。
曰く、物凄い女難の相が出ている、と。
俺はそのころから運命というものを信じていないが、人の好意を無下にするほど幼くもなかったので、占い師の言葉を信じたふりして「どうすればいいのか」と尋ねてみた。
すると占い師はこう言ったのだ。
―――運命なんて信じるな。そうすりゃ素敵な恋人ができるはずさ。
自分で占っておいてなんだそりゃ、という気持ちだったが、運命を信じるなという言葉が妙に気に入ったので、今でもその占い師のことは覚えている。
ただ、まさか5年越しにその占いが的中するとは思ってもいなかったのだが。
∞
「昨日のデートはどうだった?」
「親友、俺はもうダメかもしれない」
映画デートから明けて月曜。俺は朝っぱらから自分の席でうなだれていた。
親友は死体のような俺をツンツンと指で突きながら遊んでいる。
「なんだフラれたか」
「違う! フラれていない!」
そう、フラれた訳じゃないのだ。それ以上というか、予想の斜め上というか。
昨夜、彼女に命じられるままにフラフラと自宅へ戻り、風呂に入ろうと脱衣所で服を脱いだところでようやく何をされたのか理解した。
首筋にはそれまで無かった4箇所の傷跡がはっきりと残っていたのだ。それはまるで首筋を鋭い牙で噛んだような傷跡で、不思議なことに触ってみても痛みはない。
彼女は言った。「私が欲しかったのは、貴方の血だけ」と。
血を欲しがって、首筋に噛み付いて、異性を魅了する不思議な美貌。そんなの、まるで、まるで……。
ブンブンと頭を振って、自分の妄想を否定する。
そうだ、きっと俺は知らない内に彼女を怒らせてしまったのだ。だからあんな冗談を言われたんじゃないのだろうか。
そう、昨日は確か―――。
「彼女のお気に入りの喫茶店で待ち合わせして、一緒に映画を見て、二人で感想を語り合って、最後は夜の公園で……」
「性欲が爆発した?」
「違う! 夜の公園で、彼女に寄り添って……、それから……」
嫌われる要素が思いつかない。
そもそも公園に行くまでは物凄いいい雰囲気だったのだ。
待ち合わせ場所に着くのが遅かった?
選んだ映画のセンスがダメだった?
もしそうだったとしても、人の首筋に噛み付くほど怒らせてしまうものだろうか。
「はいはい、よく分からないけどのろけ話は結構だよ」
頭を抱えて悶絶してると、何を勘違いしたのか、颯はそう言って話を締めくくった。
この野郎、いつもは女子に囲まれて困ったとか、相手を傷付けないで告白を断るにはどうしたらいいかとか、さんざんイケメン苦労話に付き合ってやってるのに、薄情者め。
「おっはよー、クラスメイト諸君!」
親友の頬をつねっていると、クラスのマスコット、
女子の何人かが「おはよー」と挨拶を返す。そしてここからが不破の恒例行事、朝の挨拶周りの始まりだ。
「おはよー、部活の練習試合どうだった?」
「おう、勝ったぜ」
「おめでとー! あ、おっはよー。今日は何読んでるの?」
「……『水平思考の果ての果て』」
「それってなんかの賞取ったやつだよね。読み終わったら感想聞かせて。あ、お菓子食べてるいいなー」
「ほーれ、私は優しいから分けてあげよう」
「やったー」
こんな調子で、不破は登校すると男女問わず教室にいる全員に声をかけていく。当然、そんな彼女を毛嫌いしたり無視する生徒も何人かはいたのだが、拒否されようが無視されようが不破はめげず、翌日にはまた声をかけ続ける。
唯一の抜け道は、彼女より遅く登校することだ。不破はクラスの人気者なので、挨拶回りが終わると大抵誰かに捕まって授業開始までおしゃべりりしている。だから、彼女より遅く教室に入れば無理に声をかけられることもない。
結局、彼女を無視したい生徒はホームルーム直前に登校するようになり、それ以外の生徒は嫌がっているように見えても彼女の挨拶を楽しみにしてる節があった。
ちなみに俺も彼女を見習って真似しようと思ったことがあるが、颯に必死で止められた。
他の生徒に挨拶し終えたのか、不破は俺の机までやってきた。
「おっはよー! なんだ愛染、元気ないぞー」
「昨日色々あってな」
「なんだ、またフラれたの?」
「ぐはっ!?」
不破はこの学校で俺の中学時代の
というのも、妙に話しやすい性格のせいか、入学してすぐのころ、中学時代のエピソードをぽろりと喋ってしまったのだ。あれは一生の不覚だった。
不破に頼み込んで他の人には言わないよう釘を差したし、不破もその約束は守ってくれているのだが、時々こうして無邪気に俺の心を折りにくるので油断できない。
わざとやってるなら文句の一つも言うところだが、これで悪意がないのだから困ったものだ。
「はいはい、不破さんトドメを刺さないであげて」
「フられてない、俺はフらレてない……」
ショックでピクリとも動かくなった俺を見て、流石に失言だったと悟ったのか、申し訳なさそうに視線をそらした。
「えっと、なんかゴメンね」
∞
放課後、家の用事があるという颯と校門で別れてから、駅前の本屋にでも寄ろうと考えていたところで会いたくなかった相手に捕まった。
「あら、一人で帰ろうとするなんて意地が悪いですね」
「
正直お前とか
あんなことをされたのに、彼女を見ると無意識に従いたくなってしまう。
「途中まで一緒に帰りませんか?」
「い、いや……遠慮し」
「昨日デートした仲じゃないですか」
必死で抵抗しようと勇気を振り絞っては見たものの、口は思った通りに動いてくれない。
「わ、かり、ました」
「よろしい」
彼女の隣を歩いているのに、デートの時みたいな興奮は一切ない。
騙された、裏切られた。そういう気持ちも無くはないが、それよりも何より、今日も血を吸われるのか、とついつい考えてしまう。
そんな俺の心を読んだのか、命はため息を一つついてこちらに振り向いた。
「安心しなさい、今日は
そしてさっきまでと同じペースで歩き出した。
本気かどうかも分からない口約束だが、それだけでかなり気分は楽になる。
これからどうすべきか。
少なくとも、彼女に従い続けるのは危険、ということくらいは何となく予想がつく。
彼女から逃げるにしても、説得するにしても、まずは命の事をもっと理解しないといけない。
「
はっきり言って、彼女なら男を引っかけるなんて簡単だろう。もしかしたら同性だって簡単に籠絡できるのかもしれない。
あまり実行したくはないが、もし自分以外の生贄を用意することでこの女から解放されるなら、割と本気で実行するかも知れない。兎にも角にもまずは情報だ。情報が必要だ。
命は腕を組みながら頬に人差し指を当てて思案する。
「貴方、料理はする方?」
「それなりには」
放任主義の家庭で育ってきた身だ。
両親は全く料理ができなかったし、三度の飯より仕事が好きという人種だったので一週間ほど金なし食材なしで家に放置されて危うく死にかけたこともある。
今思えば完全に
ふいに死にかけたことを思い出して遠くを見つめた。
命はそんな俺の様子を訝しみながらも説明を続ける。
「それなら、こう言えば分かるかしら。目の前には高級食材が並んでる。そのまま食べることもできるけど、下ごしらえしてちゃんと料理してあげればもっと美味しく食べられる。私はその手間を惜しまなかっただけ」
「……俺をデートに誘ったのは下ごしらえか」
「あら、思ったよりは賢いのね」
命は感心したのか、偉い偉いと俺の頭を撫でてくる。
「貴方が私に魅了されるほど、貴方の血は美味になる。だからあんな
「そっちから誘ったんだろ。それに、ネタばらししていいのか」
惚れるほど血が美味しくなるというのなら、今の俺の血を飲んでも全く美味しくないだろう。正体を知った今となっては、一目惚れどころか百年の恋も覚めるってもんだ。
命はこちらをバカにした目線で見下して、大丈夫ですよ、と嘲笑う。
「一度血を吸ってしまえば、もうずっと私の虜ですから」
そんなはずはない。
今の俺は「君長命が嫌い」だと断言できる。
その天使みたいな相貌も、妖精みたいな雰囲気も、……って、あれ? なぜ俺は彼女を褒め称えてるんだ。
思わず目を見開いて命を見つめると、ちゃんと怒りと恐怖の感情が浮かぶ。そして、その後すぐにずっと彼女を見つめていたいという欲求が湧き上がる。
「そんな熱い視線で見つめられても困るわ」
命は余裕綽々の様子で煽ってきた。
何故かは分からないが、俺は未だに
一度深呼吸をしてから、気持ちを強く持つ。
俺は君長命が嫌いだ。俺は君長命が嫌いだ。俺は君長命が、大嫌いだ。
「そうやって、今までも血を吸ってきたのか」
怯えて縮こまりそうな気持ちを奮い立たせて命を睨む。
どうせまたこちらをバカにしてくるんだろうが、今は会話を続けることが大切だ。
命に人生を握られた不自由な生活などまっぴらごめんだ。絶対にこの状況をどうにかしてみせる。
しかし、命は何も言い返さず黙り込んでしまった。
そして丸々10秒待ってから、心の底から苛ついた様子で短く吐き捨てた。
「……冗談」
「え?」
あ?
なんだ?
今の台詞のどこにそこまで怒ったんだ?
「貴方ほど上質な血を持つ人間なんてこれまで一度も見たことないわ。私は血を吸うけれど、私が吸うに値するほどの血を持つ人間なんて滅多にいない。だから、貴方自身はとてもつまらない人間だけど、その血だけは誇っていいわよ」
それは命が初めて見せた隙だった。
しかし、その隙をどう突けばいいのか皆目検討もつかない。下手したら弱点どころか逆鱗かもしれないのだ。
だが、これで一つの確信が持てた。
命は決して理解のできない相手じゃないし、どうにもならない相手ではない。
こちとら完璧超人な親友と10年以上一緒にいるのだ。どれだけ自分が敵わないと思うような相手でも、やり方次第ではその足元に手を届かせることだって決して不可能ではないと知っている。
今は勝ち誇っているといい。
そういう想いを込めて、皮肉たっぷりに睨み返す。
「なら精々感謝しながら飲みやがれ」
俺の反抗的な態度に命は一瞬だけ不快な表情を浮かべたが、すぐにいつもの
「強がっちゃって。まぁいいわ、どうせ私には逆らえないんだから」
「……っ!」
その瞬間、物凄い多幸感が全身を駆け巡った。
大好きな恋愛小説の名シーンを読んだ時のような、生まれて初めてラブレターを貰った時のような。
こんなに嫌っている相手に対して好意を感じてしまう、という気持ち悪さに思わず吐き気を覚えてしまう。
どうやら思った以上に自分はおかしくなっているようだ。
「駅に着いたわね、それじゃ愛染くん。また明日」
「……くそったれ」
悠々と去っていく命の背中を眺めながら、今はそんな捨て台詞を吐くことしかできなかった。
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