家出少年

みどり、家はどこなんだ? 傘持ってないだろ」


 あおい少年は途中まで入れてってやるよ、と言いながら鞄から折り畳み傘を取り出した。

 降りだした雨が白いシャツに水玉模様をつくる。碧は荷物をいったん翠に持たせると、紺色の傘を勢いよくボンッと開いた。


「僕、家出いえでしてきたんだ」

「えぇ?」


 鞄を受け取りながら、碧は雨に濡れ始めた翠を見た。さっきまでの笑顔はない。まじめに答えてくれたようなのだが……。

 一歩近寄って傘を傾けてやると、同じ顔が隣に並ぶ。翠のおでこにひっそり生えている二本の角は今は見えない。


 碧は奇妙な出逢いにいちいち驚くことをやめにした。突然あらわれた鬼の子は少年を捕って喰おうというつもりはないようで、敵意も感じられなかった。

 碧と同じ学生服を着ているわりには手ぶらに素足。まあそんな奴もいるのだろう。冬でも半袖で走り回る元気な小学生もいるのだし。

 危険がないなら、少しばかり家出少年のお遊びにつきあってやるか。そんな軽い気持ちだった。


「碧についていってもいいかな」

「俺んち? いいけど……同じ顔を親に見せるのはどうかな」

「うん、たぶん大丈夫だよ」

「大丈夫じゃないだろ……」


 機嫌がよくなったのか、声が明るくなった翠の横で、碧はジト目で抗議する。翠の顔を親に見られた時になんて説明すればいいんだ。演劇部の特殊メイクとか?

 言い訳は帰りながら考えよう……碧は半分なげやりになって歩き出した。翠がとことこついてくる。


 サイズが小さめの折り畳み傘ではどうしたって二人満足に雨から守ることは難しかった。まだ本降りではないからいいものの、碧は鞄をわきに抱えて翠の歩調に合わせてやる。

 素足では泥で汚れてしまうんじゃないか、彼の足元をチラッと見れば、意外ときれいなままだ。


「おまえ、どこのクラス」

「学校は行ってない」

「ふーん」


 紫陽花の咲き始めた公園を出てからしばらく歩き、信号で止まる。パタパタと傘を打つしずくの音が二人の会話のすきまを埋める。


 雨の街は静かに日暮れを待っていた。

 猛スピードで駆け抜けていく自転車、おしゃべりしながら軽快に突っ切っていく若い女性たち、準備万端レインコートに長靴、大人に手を引かれていく小さな子供。

 行き交う人の脚だけを、傘のすきまからのぞき見る。


 信号が青になった。


「翠はなんであんなところにいたんだ?」


 ぴろぴろと進行を促す音が鳴り、二人は横断歩道の真ん中を歩いていった。


「探し物をしていたんだよ」


 傘で視界がふさがれているので、あちらからやって来る人に気がつかず、ぶつかる直前であわててよける。翠が雨の中に押し出された。

 碧は手を伸ばして翠に傘を差しかけてやる。ぱちゃっと水溜まりを踏んで戻ってきた鬼の子をふたたび迎え入れた。


「紫陽花の中に何か落としたとか?」

「いや、あれはヒマだったから見てただけ」

「俺の顔を使ったのは?」

「人の姿をしている方が都合がいいかなと思って化けてみたんだ。半分は好奇心。君の体は動きやすいね」

「そりゃどうも。鬼ってなんでもできるんだな」

「へへん、」


 得意そうに胸をそらす翠は、無邪気で小さな子供のようだった。碧はそれを小学校と一緒に卒業してしまったもののように思われる。

 翠はきらきらした目で語りつづけた。


「人間の世界には、とても美味しいお菓子があるんだって。ぜひ食べてみたいと思ったんだ」


「それならネットで探してやるよ。どんなお菓子なんだ」

「わからない」

「おーい」



 碧の家は静かな住宅街にある小さな一戸建てだ。

 狭いながら庭の隅に紫陽花の植え込みがある。公園で見たものよりは開花がすすんでいて、小ぶりな紫色のくす玉がいくつか、露に濡れていた。


「ただいまー」


 ひっそりとした玄関を開ける。

 両親はまだ仕事から帰らない。碧はほっとして、まとめた折り畳み傘の短い持ち手を伸ばしたまま傘立てに入れた。

 碧が先に中へ上がりながら、続こうとする翠へ待ったをかける。


「タオル持ってくるから」


 翠はうなずいて、姿を消した碧をおとなしく待つ。外の明かりがりガラスから差し込み、玄関を仄白ほのじろく包み込んでいた。

 しばらくして、戻った碧は上がりかまちへ腰かけていた翠へふかふかのフェイスタオルを手渡した。自分もタオルを首にかけて、靴下も早々と脱いでしまった。

 鬼の子とてさぞ雨に濡れてしまっただろう。おや、足はきれいなままだ。この数分で乾いてしまったとも思えない。碧の視線に気がついた翠は頭にタオルを乗せながら、ふふんと素足の裏を見せてくれる。


「ほらね」

「はあ。わかったよ。あがっていいよ」

「おじゃましまーす」


 廊下を伝って奥の四畳半へ。パチン。スイッチを入れると、ぱっと明かりが点いて視界がひらく。布団は押入れにしまってスペースを広くとった、シンプルな部屋だった。


「そのへん座ってていいよ」


 碧は濡れた鞄をタオルでさっと拭いてしまうと机のわきに置いた。その間に翠は窓の近くまで寄って絨毯じゅうたんの上に腰を下ろす。庭の紫陽花が目に入った。


「で、おまえの食べたいお菓子ってのはなんかヒントとかあるの? どこで売ってるとか」

「んー、ばあちゃんがそういう話をしていたから、きっとどこかにあるんだろうとは思うけど……」

「ほお」


 ポケットからスマホを取り出して検索画面をタップしていた碧の眉が、ぴくっと動いた。


 探し物ならさっさと自分の端末で調べればよいものを、ふしぎな出で立ちの少年はみずからの足で見つけようとしている。道具を持っていないのだろうと思われるのだが、好奇心でコピーした碧の顔で外をうろうろされるのは不安だ。

 さいわい会話は成立するようなので、面倒なことはごめんにしたい。


「翠、親切にしてやるのはこれきりだからな。もし見つからなかったら、おとなしく帰れよ」

「わかった」


 翠は素直に応えてくれた。よしよし。碧はものわかりのいい鬼の子に満足して、さらにヒントを聞いてみようとした。


 しかし、たかだかお菓子のために家出をしてくるとはおかしな話だ。さらに碧の家までついてくるし。

 碧は、ここでようやく、もしかして俺は鬼に取り憑かれでもしたんじゃないだろうか……とあらたな疑問が浮かんでくるのだった。


 雨足が強くなってきた。パタパタと窓ガラスを打つ音がする。



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